香りの記憶
ー/ー 母は、私の名前を忘れてしまった。
それだけなら、まだよかったのかもしれない。問題は、私の存在そのものを忘れていることだ。朝、ベッドの脇に立つと、母は警戒したように体をこわばらせる。
「ーーあなた、どなた?」
その問いかけを、私は一日に何度も繰り返し受け取る。
娘です、と答えるたびに、胸の奥で小さな音がする。割れるほどではないけれど、静かにひびが入っていく音。
三月に入った頃、庭の沈丁花が咲いた。
白や薄紅の小さな花が集まって、控えめな顔をしてながらも、香りだけは驚くほど強い。
昔の家にもあった、と気づいたのは、その匂いを吸い込んだ瞬間だった。
母は、春は目で見るものじゃない、匂いでわかるものよ、とよく言っていた。私は半信半疑で、そんなものかと思っていた。
その日、私は母を車椅子に乗せて庭に連れ出した。陽射しはまだやわらかく、風は少し冷たい。沈丁花の前で車椅子を止めると、ふいに母の鼻がひくりと動いた。
次の瞬間だった。
母の表情から、あの硬さが消えた。
「あら、もうそんな季節なのね」
声が、違った。長いこと聞くことのなかった、柔らかい声だった。母はゆっくりと私の方を見て、目を細める。
「寒くない? 上着、ちゃんと着てきた?」
それは、昔の母の口癖だった。私は言葉を失い、ただ頷いた。母は満足そうに微笑み、私の肩に手を置いた。その仕草まで、何もかもが懐かしい。
「あなたは小さい頃ね、この匂いがすると必ずくしゃみしてたのよ。春が来るたび、家の中が大騒ぎだった」
くすっと笑う。その笑顔を、私は目に焼き付けるように見つめた。今この瞬間を逃せば、また遠くへ行ってしまうと、わかっていたから。
数分後、風向きが変わり、香りが薄れた。
母の視線が宙をさまよい、私の手を振りほどく。
「……すみません、ここはどこですか」
魔法が解けたようだった。それでも私は泣かなかった。さっき、確かに母は私を心配し、笑ってくれた。それで十分だと思えた。
夜、窓を開けると、かすかに沈丁花の香りが流れ込んできた。
記憶は壊れても、優しさは匂いの奥に残るのかもしれない。私はその香りを胸いっぱいに吸い込み、明日もまた、母と庭へ出ようと静かに決めた。
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