名もなき畦道にて
ー/ー 祖父の畑の隅、使い古された鍬やバケツが並ぶ小屋の裏に、毎年決まって紫色の花が咲く。
名前は「都忘れ」
野菊に似たその花は、祖父が丹精込めて育てているジャガイモやトマトの畝からは少し外れた、目立たない場所にひっそりと陣取っていた。
「じいちゃん、あそこに花を植えたっけ?」
私が尋ねると、祖父は麦わら帽子を脱ぎ、ごわごわした手で頭を掻いた。
「いやあ、覚えがないんだ。鳥が種を運んできたのかねえ」
そう言って目を細める祖父の横顔は、困っているというより、どこか楽しげだった。
祖父が亡くなって三度目の春が来た。私は主のいなくなった畑を引き継ぎ、慣れない手つきで土をいじっている。
例年通り、あの紫色の花が咲き始めた。
植えた覚えのない、けれど毎年律儀に顔を出す花。ふと気になって、私は古い納屋の整理をすることにした。
棚の奥から出てきたのは、何十年も前、祖父がつけていた古い野帳だった。
色褪せたページをめくると、そこには野菜の収穫量や肥料の配合がびっしりと書き込まれていた。こまめに記録されている。
日記代わりだったのだろう、あちこちに、二、三行その日のことが書かれていた。
終わりの方に、震えるような、けれど丁寧な筆跡でこう記されていた。
『四月十二日。妻が亡くなってから初めての春。
あいつが好きだった都忘れの苗を、小屋の裏にこっそり植えた。
あいつは「恥ずかしいから、畑に花なんて植えないで」と生前よく言っていた。だから、ここは俺とあいつだけの秘密だ。
もし俺が忘れてしまっても、この花が毎年咲いてくれれば、あいつがそこにいるような気がする』
祖父は「覚えがない」と笑っていたけれど、本当は知っていたのだ。
いや、もしかしたら本当に忘れてしまっていたのかもしれない。けれど、土に託した愛情だけは、本人の記憶を超えて、毎年形となって現れていた。
私はじょうろに水を汲み、紫色の小さな花にそっとかけた。
「今年も綺麗に咲いたね」
風が吹き抜け、紫の花びらが小さく揺れた。祖父の言った通り、そこには確かな「誰か」の気配があった。
私は立ち上がり、今度は自分が植えるべき花の種を想像した。この畑が、いつまでも誰かの大切な場所であるようにと願いながら。
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