ひだまり荘の透明な住人
ー/ー 築三十年の「ひだまり荘」には、鉄の掟がある。――ペット禁止。
にもかかわらず、その猫は当たり前のようにエントランスの特等席にいた。
焦げ茶色に白が混じった、どこにでもいる雑種の野良猫だ。しかし、このアパートの住人は誰一人として彼を追い払おうとはしない。かといって、飼い主を名乗り出る者もいない。
彼は、誰のものでもなく、全員のものだった。
一〇一号室の佐藤さんは、毎朝仕事へ行く際、彼を「おはよう」と呼ぶ。
三〇五号室の田中さんは、スーパーの帰り道、彼を「お帰り」と呼ぶ。
二〇二号室の女子大学生は、失恋した夜、彼を「ねえ聞いて」と呼び、足元で丸くなる体温に救われた。
不思議なことに、誰も彼に特定の名前をつけなかった。ポチでもタマでも、ましてやロキシーでもない。彼はただ、そこに存在する「猫」という概念そのもののように、静かに佇んでいる。
ある日、アパートの管理会社から「アパート清掃」の通知が届いた。
住人たちの間に緊張が走る。あからさまな「飼育」はしていないが、エントランスに置かれた使い古しの座布団や、隅に置かれた水の容器は、どう見てもアウトだ。
「隠さなきゃ」
誰からともなく声が上がり、その日の夕方、住人たちはエントランスに集まった。
しかし、肝心の「彼」が見当たらない。いつもなら西日が差し込む階段の三段目にいるはずなのに。
管理会社の担当者がやってきた。神経質そうな眼鏡の男は、メモ帳を片手に共有部をチェックしていく。
「……ここはペット不可ですよね?」
男が、階段の隅に落ちていた一本の茶色い毛を拾い上げた。住人たちは息を呑む。
「ええ、もちろん」
佐藤さんが代表して答えるが、声がわずかに震えている。
その時だった。
男の足元を、ふわりと何かが通り抜けた。
住人たちの目には、はっきりとあの猫が見えた。しかし、猫は男の影に溶け込むようにして消え、男は首を傾げるだけで何も気づかない。
「……気のせいか。最近、このあたりは野良猫が多いですからね。気をつけてください」
男が去った後、エントランスに安堵の溜息
が漏れた。
ふと見ると、いつもの階段の三段目に、彼が座っていた。何もなかったかのような顔で、前足を舐めている。
「守られたのは、私たちのほうかもね」
誰かが呟いた。
今日もひだまり荘の住人たちは、一歩外へ出るたびに、足元にいる、名前のない猫を確認して、それぞれの日常へと歩き出す。
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