月見草の約束 後編
ー/ー 完全な静寂の中で、夫は不思議な音を聞いた。何かが弾けるような、あるいは吐息のような、かすかな音。
(――まだ、ここにいる)
それは言葉だっただろうか。風が葉を揺らした拍子に、かつての記憶が耳元で囁いたのかもしれない。
だが、その声に応じるように、月見草が動き始めた。
固く結ばれていた蕾が、内側からの光に突き動かされるようにして解けていく。
一弁、また一弁。絹の重なりを解くような優雅な足取りで、白い花びらが闇を押し広げ、形を成していく。
月の光を吸い込み、自ら発光しているかのようなその姿に、夫は息を呑んだ。
脳裏に、鮮明な情景が浮かび上がる。
この家に引っ越してきたばかりの、蒸し暑い夏の夜。段ボールだらけの部屋で、理由もなく二人で遅くまで起きていた。
何があったわけでもない。ただ隣にいることが自然で、未来というものが夜明けのように必ず訪れると信じて疑わなかった、あの夜だ。
「……聞こえた?」
夫が問いかけると、隣に座る妻の肩が微かに震えた。彼女の横顔には、月見草の白い光が反射している。
「ええ。約束、まだ終わってないって。花が言った気がしたわ」
月見草は、夜明けとともにしぼんでしまう。その命はあまりにも短く、不確かだ。
けれど今、この一瞬、花は確かに咲き誇り、二人の間に堆積していた冷たい沈黙を優しく照らし出していた。
これが花の精が見せた幻想なのか、それとも、夜更かしが見せた夢なのかは分からない。
それでも夫は、膝の上で握りしめていた自分の手が、少しずつ解けていくのを感じていた。この夜の先に待っているのが、かつての日常の続きであっても、あるいは新しい関係の始まりであっても、構わないと思えた。
月見草は何も言わず、ただ静かに、凛として光を放ち続けていた。二人の時間が、再びゆっくりと動き出すのを待っているかのように。
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