月見草の約束 前編
ー/ー 月見草は、夜にしか咲かないらしい。
それを知ったのは、もうずいぶん前のことだった。まだ、この家で同じ時間に眠り、同じ時間に起きていた頃。互いの呼吸の深さだけで、相手が何を考えているか分かっていた、幸福な無知の時代のことだ。
「今夜、起きていられる?」
夕食の片付けを終えた妻が、背中を向けたまま言った。声は凪いだ海のように静かで、それゆえに断りづらい響きを持っていた。理由は添えられなかった。
夫は、リビングのソファで新聞を広げたまま、わずかに視線を上げた。
「……明日、早いんだ」
返した言葉は、拒絶というよりは習慣に近い。だが、否定の力は弱かった。
妻は答えを待つことなく、縁側に小さな木製の椅子を二つ並べた。それはかつて、二人でペンキを塗り直した古い椅子だった。
庭の隅。濃紺の闇に沈む植え込みの中で、月見草の蕾が燐光を放つように白く浮かんでいる。
「この花ね、約束を覚えているんですって」
並んで腰を下ろしたあと、妻がぽつりと言った。夜の湿った空気が、二人の間に横たわる半年分の沈黙を包み込んでいく。
「何の?」
「一緒に見ようって言った人のこと」
夫は鼻を鳴らし、苦笑した。
そんな子供騙しの話を、昔はもっと素直に笑って聞けたはずだった。
今は、頬の筋肉の動かし方さえ忘れてしまった気がする。
仲違いのきっかけは、もう思い出せない。ただ、一度途切れた言葉を繋ぎ直す方法だけが、どうしても見つからなかった。
夜が深まるにつれ、虫の音は波のように寄せては返し、庭の輪郭はゆっくりと溶けていく。二人は言葉を交わさず、ただ一点、白く固い蕾を見つめていた。
時計の針が重なる頃、風が止まった。
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