最後のページ、そして
ー/ー 駅前から少し離れた、築十五年のマンション。
一樹と美咲の新婚生活は、段ボール箱の山に囲まれて始まった。
「ねえ、クローゼットの奥に何かある」
美咲が声を上げたのは、西日がリビングをオレンジ色に染め始めた頃だった。天袋の隅、剥がれかけた壁紙の隙間に、一冊の薄い手帳が挟まっていた。
表紙には『ふわふわ日記』と、丸っこい文字で書かれている。
「前の住人の忘れ物かな。管理会社に連絡しなきゃ」
一樹はそう言ったが、美咲の手はすでに最初の一ページをめくっていた。
『四月十日。今日からここで二人と一匹。陽当たりが良くて、猫のチャイも満足げ』
日記は、五年前にここを出て行ったと思われる夫婦の記録だった。
読み進めるうちに、二人は自分たちが今立っているこの空間に、別の誰かの彩り豊かな時間が重なっているのを感じた。
『六月十五日。キッチンで初めてスパゲティを焦がした。直也さんは「香ばしくていい」と笑ってくれたけど、換気扇の音が少しうるさいのが玉に瑕』
「これのことだ」
美咲がくすっと笑い、一樹も肩をすくめながら換気扇を回す。
確かに少し高い金属音が響いた。二人は顔を見合わせ、思わず吹き出した。昨夜も全く同じ音を聞いて苦笑いしたばかりだったからだ。
しかし、日記の後半、文字の筆致は次第に乱れ、空白の日が増えていく。
『十月三日。病室の窓から見えないあの部屋。直也さんのことを、少しだけ心配に思った。』
『十二月二十日。最後の日。この部屋には幸せしかなかった。チャイ、先に行って待っていてね。直也さん、私をここに連れてきてくれてありがとう』
そこが最後だった。
静まり返ったリビングに、西日が長く伸びている。美咲は日記をそっと胸に抱えた。見知らぬ人の、命を燃やした最後の輝きが、紙を通じて伝わってくるようだった。
「僕たちも、ここで始めるんだね」
一樹が美咲の肩を抱き寄せる。
この部屋の床に刻まれた小さな傷も、西日の暖かさも、換気扇の不器用な音も。すべては前の住人が愛し、そして自分たちが受け継いだ「幸せの記憶」の一部なのだ。
美咲は、持っていたボールペンを手に取り、日記の最後の空白のページに小さく書き加えた。
『一月三十一日。今日から私たちが、この部屋の続きを紡ぎます。とても暖かい午後です。』
美咲は日記を元の天袋の隙間に戻した。
それはこの部屋に宿る守り神への、ささやかな挨拶のようだった。
「さあ、片付けの続きをしようか」
一樹の声に頷き、美咲は立ち上がる。
窓の外には、新しい生活を祝福するように、冬の澄んだ空が広がっていた。
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