夕焼けの忘れ物
ー/ー 見渡す限りの世界がオレンジ色の絵の具で塗りつぶされたような、見事な夕焼けだった。
定年退職して以来、日課となった散歩の帰り道。私は、近所の児童公園のベンチで一休みするのが習慣になっている。
冷え込んできた一月の風を避けるため、お気に入りの、少し毛羽立ったウールの手袋を外して膝に置き、温かい缶コーヒーを啜った。
「さて、帰るとするか。今夜は鍋だと言っていたな」
空に一番星が瞬き始めた頃、私は重い腰を上げた。家までは歩いて五分。玄関先で鍵を取り出そうとして、ようやく右手の指先が冷え切っていることに気づいた。
右の手袋がない。
あれは、亡くなった母が編んでくれたものだった。丈夫な毛糸で、何度も繕いながら三十年以上使っている。
慌てて来た道を引き返したが、足腰は思うように動かない。公園に着く頃には、あたり一面はすでに藍色の帳を下ろしていた。
「……ないな」
街灯に照らされたベンチには、何もなかった。座面を撫で、周囲の植え込みを覗き込んだが、茶色の手袋は見当たらない。
冬の夜風が、私の落胆をあざ笑うように吹き抜けていった。飛ばされてしまったのかもしれない。あるいは、ゴミと間違われて捨てられたか。
「縁がなかったのかな」
独り言ちて、諦めて帰ろうとした、正にその刹那だった。ベンチのすぐ脇にある、背の低いキンモクセイの枝に、何かが「咲いて」いるのが見えた。
近づいて目を凝らす。それは、私の手袋だった。
ただ枝に引っかかっているのではない。
風に飛ばされないよう、親指と人差し指の部分が、細い枝を優しく抱きかかえるようにして、緩い結び目で固定されていたのだ。
まるで、手袋が木と手をつないで、誰かの帰りを待っているような光景だった。
「……これか」
解いて手に取ると、ウールの感触はすっかり冷たくなっていた。けれど、結び目を作ってくれた誰かの指先の体温が、まだそこに残っているような気がした。
落とし物箱に届けるほどではない。
けれど、持ち主が戻ってくるかもしれない。そんな、名前も知らない誰かの「お節介」が、この結び目には詰まっている。
ふと視線を上げると、公園の隅で犬の散歩をさせている若い女性と目が合った。彼女は私と手袋を交互に見て、小さく会釈をして去っていった。
あるいは、夕方に遊んでいた子供たちが、母親に教わって結んでくれたのかもしれない。
私は手袋をはめ、その温もりに顔をほころばせた。
失くしたと思っていたのは自分だけで、この手袋は、私が戻るまで誰かに守られていたのだ。
帰り道、私の足取りは先ほどよりもずっと軽かった。
夕焼けはとっくに消えてしまったけれど、胸の奥には、オレンジの小さな灯がずっと灯り続けていた。
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