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キラキラキャンディー

ー/ー





 2050年7月。

「いってきます」
「水分補給を忘れずにね」
「早く、玄関のガダガダを直して。この前、お願いしたはずだけど」
「ご、ごめんよ。架純ちゃんが戻るまでには必ず直しておく」
 滝田信広のこもった声を聞き流し、戸を閉める。私の低い声を聞き、焦っているのが分かった。これくらいのことで動揺するなんて、とても元マネージャーだとは思えない。
 それに、あの聞き取りにくい声。まるでラップが口に貼り付いているかのようだ。
 わざわざ電話してきたお客様も、受話器にピッタリと耳をあてていたに違いない。
 私をマネージャーに抜擢した人事部の判断は、正しかったと心から思う。
「スピちゃんも同じ気持ちよね」
 フサフサを手のひらで撫で回す。
 『そうだよ』
 この子に耳がなくたって関係ない。意思疎通は完璧なのだから。
 
 それにしても、少し陽を浴びただけで肌を刺すようにジリジリと痛い。
 あっという間に全身の毛穴から、汗が湧き出てきてしまう。その汗が接着剤になり、肌にピッタリと張り付く。
「こんなことで、負けてられない!頑張らなくちゃね」
 スピチャンはモフモフ体のせいでもっと暑いはずなのに、顔色一つ変えない。そんな健気な姿に励まされている。
「今日も、ミーンミーンって鳴いてるよ。いつか、蝉の声を聞かせてあげたいな。夏を感じさせてあげたいの」
 駅に向かう足取りは、この会話のおかげで軽やかに進む。しかし、今日は足枷を付けたかのように一歩が重い。
 
 その原因は、ペロペロキャンディーを忘れたからだ。
 一昨日の経験からして、間違いない。

 あの日は雨が降っていた。連日、強い日差しで乾ききったアスファルトにとっては恵の水だっただろう。
「喉が乾いてたのね。道路が喜んでいるように聞こえるでしょ」
 『そうだね』
 スピちゃんとそんな話をしている中、私の傘にも大粒の雫がボタボタと音を立てていた。
 いつもなら、その雨音さえ自然が奏でるオーケストラのように感じていたはずだ。
「うるさい」
 それなのに何故か、無意識に耳たぶを引っ張っていた。
 私はこのとき、その理由に気づいていなかったのだ。

 歩くことに集中できず、駅に着いたのはいつもより二十分ほど過ぎた頃だった。
「こんな日でも、ミーンミーンって鳴いてるなんて考えられない。仕事に行くわけでもないし、虫は虫らしく土の中で大人しくしてなさいよ」
 相変わらず、右手は耳たぶを離さない。
 
 『まもなく2番線に列車が参ります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください』

 改札に響き渡るアナウンスが耳の奥まで侵入してくるような気がした。
「危ないですから?下がらなければ轢かれるってこと?」
 『そうだね』
「わざわざ教えなくたって、そんなことも分からない奴は轢かれればいいわよ」
 『そうだね』
 また同じ気持ちでいてくれることを再確認し、心の波が少し穏やかになりかけていた。
 当たり前のように停車位置についた電車は、プシューという音と共にいくつもの大きな口を開ける。
 画面に目を落とす人たちに、グイグイと背中を押され思わず叫んでしまった。
「痛い!ちょっと!どこ見てるのよ」
 スーツをピシッと着こなしている彼の耳穴には、白いうどんのようなものがハマっている。
 更に大声を出したが、反応はなかった。
「轢かれちゃえばよかったのに」
 どうせ、声は届かない。音量を下げずに発してやった。
 口角が上がった私は、心の穏やかさを取り戻したことに気づいた。
 
 詰め込まれすぎた電車内は、どこを見ても人の背中しか目に入らない。しかし、悪いことばかりではない。決して快適とは言えないが『ガタンゴトン』と繰り返される音だけを聞いていればいいのだ。
「あ、そういえばさ」
 次の『ガタンゴトン』が聞こえる前に、近くで雑音が邪魔をした。背伸びをし、わずかな隙間から声の元を探してみる。しかし、たくさんの肩に視線を遮られてしまう。
「チッ!」
 舌を鳴らしてしまったが、そんなことはどうでもいい。どうせ気に止める人などいないからだ。
 現に画面から目を離す人がいないことが、何よりの証拠だ。
「知ってる?最近の小宮さんのこと」
 更に続く声を聞き、雷に打たれたかのように全身が痺れた。まさか、そんなはずはない。
 『小宮』という名字は多い方ではないが、ただの偶然なはず。
 この狭い電車内でこれだけの人数が存在してるのだから、ひとりやふたり同名の人がいても不思議ではない。
「男と同棲してるんだってね。しかも、相手はあの滝田らしいじゃん。マネージャーの席を降ろされてから、やばかったよ。あの人」
「そうそう。呪文のように繰り返してたよね。『失いたくない、失いたくない』って。新マネージャーに選ばれた小宮さんを見つめながら言ってたよ」
 確信した。私のことだと。
 あの二人の会話に間違ったところはない。滝田は私に好意を抱いていたのだ。何度も見つめられ、失いたくないとはっきり言ったのだから。
 昇格し、男まで手に入れたことが羨ましいのだろう。これも全部、スピちゃんのお陰だ。
「元マネージャー、ギャンブルでカツカツだったらしいよ」
「そうらしいね。降格したらさ、お給料下がっちゃうでしょ。だから、肩書きに執着してたみたい。それに、小宮さん。持ち家らしいから同棲すれば家賃とか浮くし」
「なるほど!マネージャーの席を『失いたくない』って言ってたわけね。同棲の理由も不思議だったけど、やっとわかった。なんか可哀想よね。都合よく使われちゃって」
 いや、私は意味がわからない。一体何を言ってるの。
「スピちゃん、滝田が失いたくないものは……私よね?」
 『そうだよ』
 ほら。やっぱり。
 
 右手が柔らかいものを引っ張っている。いつもなら、ペロペロキャンディの棒を握っているはずなのに。
 そこで私は気づいたのだ。
 その日、キャンディーを忘れたことを。

 今日の足取りの重さ、耳を刺す雑音。
 やはり、キャンディーを忘れたことが原因なのだ。
 それでもスピちゃんを撫でることで、少しは気持ちの波が穏やかになる。
 いつもより出勤時間が遅れてしまったが、無事に到着できた。
「おはようございます」
 腹の底から声を出し、存在をアピールする。
 ……なんだろう。
 今朝聞いた滝田の声のように、こもってる。
「キャッ!」
 後輩の顔が歪んでいる。まるで、得体の知れないものを見たかのように。
「どうしたの?大丈夫?」
 やっぱり、こもっている。
 声が抜けていかない感じがするのだ。
「マ、マネージャー。耳が……」
 触りなれた耳に手を伸ばしたが、ない。
 柔らかいものが、ない。
 
 何かに触れたが、ベチャとしていた。

 ゆっくりと視線を動かし、右手を広げる。
「ぎゃあー!」
 頭の中全体を声が占領する。
 その手のひらには、赤色と黄色が溶けて混ざったものがこびり付いていた。
 一旦、落ち着こう。何かの間違いだ。
 きっと、キャンディーを食べ忘れたからだ。
 そうだ、スピちゃんを撫でれば大丈夫。
 ベチャベチャの手のひらで、モフモフを触った。
「なに、これ」
 今度は、ゆっくりとスピちゃんに視線を向ける。
「あぁ。耳が生えたのね」
 どうやら、十字架のピアスをつけた右耳はスピちゃんに移動したらしい。
「これで、蝉の声を一緒に聞けるね」
 私は、今までに感じたことの無い幸福感で満たされていた。このままずっと浸っていたいが、チャイムが始まりを告げる。
「大きな声を出し、驚かせてすみません。何の問題もありませんよ。今日も、しっかりとお願いしますね」
 たくさんの視線が私に注がれていることを確認し、更に腹から声を出す。
「お客様の声は、ダイヤの原石です」
 片耳が生えたスピちゃんを横目に、大きく息を吸う。
「さぁ、皆さんもご一緒に」
 
 『お客様の声は、ダイヤの原石です』

 フロア全体に様々な声色が重なる。
 いつもより、聞き取りにくい気がした。片耳が移動したのだから当たり前だ。大したことではない。
「スピちゃん、食べれば治るよね」
 『そうだよ』
 そっと胸を撫で下ろし、キャンディーを思い出した。

 今日は早く帰ろう。
 残り一個のキャンディーを食べるために。
 
 


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「いってきます」
「水分補給を忘れずにね」
「早く、玄関のガダガダを直して。この前、お願いしたはずだけど」
「ご、ごめんよ。架純ちゃんが戻るまでには必ず直しておく」
 滝田信広のこもった声を聞き流し、戸を閉める。私の低い声を聞き、焦っているのが分かった。これくらいのことで動揺するなんて、とても元マネージャーだとは思えない。
 それに、あの聞き取りにくい声。まるでラップが口に貼り付いているかのようだ。
 わざわざ電話してきたお客様も、受話器にピッタリと耳をあてていたに違いない。
 私をマネージャーに抜擢した人事部の判断は、正しかったと心から思う。
「スピちゃんも同じ気持ちよね」
 フサフサを手のひらで撫で回す。
 『そうだよ』
 この子に耳がなくたって関係ない。意思疎通は完璧なのだから。
 それにしても、少し陽を浴びただけで肌を刺すようにジリジリと痛い。
 あっという間に全身の毛穴から、汗が湧き出てきてしまう。その汗が接着剤になり、肌にピッタリと張り付く。
「こんなことで、負けてられない!頑張らなくちゃね」
 スピチャンはモフモフ体のせいでもっと暑いはずなのに、顔色一つ変えない。そんな健気な姿に励まされている。
「今日も、ミーンミーンって鳴いてるよ。いつか、蝉の声を聞かせてあげたいな。夏を感じさせてあげたいの」
 駅に向かう足取りは、この会話のおかげで軽やかに進む。しかし、今日は足枷を付けたかのように一歩が重い。
 その原因は、ペロペロキャンディーを忘れたからだ。
 一昨日の経験からして、間違いない。
 あの日は雨が降っていた。連日、強い日差しで乾ききったアスファルトにとっては恵の水だっただろう。
「喉が乾いてたのね。道路が喜んでいるように聞こえるでしょ」
 『そうだね』
 スピちゃんとそんな話をしている中、私の傘にも大粒の雫がボタボタと音を立てていた。
 いつもなら、その雨音さえ自然が奏でるオーケストラのように感じていたはずだ。
「うるさい」
 それなのに何故か、無意識に耳たぶを引っ張っていた。
 私はこのとき、その理由に気づいていなかったのだ。
 歩くことに集中できず、駅に着いたのはいつもより二十分ほど過ぎた頃だった。
「こんな日でも、ミーンミーンって鳴いてるなんて考えられない。仕事に行くわけでもないし、虫は虫らしく土の中で大人しくしてなさいよ」
 相変わらず、右手は耳たぶを離さない。
 『まもなく2番線に列車が参ります。危ないですから黄色い線の内側までお下がりください』
 改札に響き渡るアナウンスが耳の奥まで侵入してくるような気がした。
「危ないですから?下がらなければ轢かれるってこと?」
 『そうだね』
「わざわざ教えなくたって、そんなことも分からない奴は轢かれればいいわよ」
 『そうだね』
 また同じ気持ちでいてくれることを再確認し、心の波が少し穏やかになりかけていた。
 当たり前のように停車位置についた電車は、プシューという音と共にいくつもの大きな口を開ける。
 画面に目を落とす人たちに、グイグイと背中を押され思わず叫んでしまった。
「痛い!ちょっと!どこ見てるのよ」
 スーツをピシッと着こなしている彼の耳穴には、白いうどんのようなものがハマっている。
 更に大声を出したが、反応はなかった。
「轢かれちゃえばよかったのに」
 どうせ、声は届かない。音量を下げずに発してやった。
 口角が上がった私は、心の穏やかさを取り戻したことに気づいた。
 詰め込まれすぎた電車内は、どこを見ても人の背中しか目に入らない。しかし、悪いことばかりではない。決して快適とは言えないが『ガタンゴトン』と繰り返される音だけを聞いていればいいのだ。
「あ、そういえばさ」
 次の『ガタンゴトン』が聞こえる前に、近くで雑音が邪魔をした。背伸びをし、わずかな隙間から声の元を探してみる。しかし、たくさんの肩に視線を遮られてしまう。
「チッ!」
 舌を鳴らしてしまったが、そんなことはどうでもいい。どうせ気に止める人などいないからだ。
 現に画面から目を離す人がいないことが、何よりの証拠だ。
「知ってる?最近の小宮さんのこと」
 更に続く声を聞き、雷に打たれたかのように全身が痺れた。まさか、そんなはずはない。
 『小宮』という名字は多い方ではないが、ただの偶然なはず。
 この狭い電車内でこれだけの人数が存在してるのだから、ひとりやふたり同名の人がいても不思議ではない。
「男と同棲してるんだってね。しかも、相手はあの滝田らしいじゃん。マネージャーの席を降ろされてから、やばかったよ。あの人」
「そうそう。呪文のように繰り返してたよね。『失いたくない、失いたくない』って。新マネージャーに選ばれた小宮さんを見つめながら言ってたよ」
 確信した。私のことだと。
 あの二人の会話に間違ったところはない。滝田は私に好意を抱いていたのだ。何度も見つめられ、失いたくないとはっきり言ったのだから。
 昇格し、男まで手に入れたことが羨ましいのだろう。これも全部、スピちゃんのお陰だ。
「元マネージャー、ギャンブルでカツカツだったらしいよ」
「そうらしいね。降格したらさ、お給料下がっちゃうでしょ。だから、肩書きに執着してたみたい。それに、小宮さん。持ち家らしいから同棲すれば家賃とか浮くし」
「なるほど!マネージャーの席を『失いたくない』って言ってたわけね。同棲の理由も不思議だったけど、やっとわかった。なんか可哀想よね。都合よく使われちゃって」
 いや、私は意味がわからない。一体何を言ってるの。
「スピちゃん、滝田が失いたくないものは……私よね?」
 『そうだよ』
 ほら。やっぱり。
 右手が柔らかいものを引っ張っている。いつもなら、ペロペロキャンディの棒を握っているはずなのに。
 そこで私は気づいたのだ。
 その日、キャンディーを忘れたことを。
 今日の足取りの重さ、耳を刺す雑音。
 やはり、キャンディーを忘れたことが原因なのだ。
 それでもスピちゃんを撫でることで、少しは気持ちの波が穏やかになる。
 いつもより出勤時間が遅れてしまったが、無事に到着できた。
「おはようございます」
 腹の底から声を出し、存在をアピールする。
 ……なんだろう。
 今朝聞いた滝田の声のように、こもってる。
「キャッ!」
 後輩の顔が歪んでいる。まるで、得体の知れないものを見たかのように。
「どうしたの?大丈夫?」
 やっぱり、こもっている。
 声が抜けていかない感じがするのだ。
「マ、マネージャー。耳が……」
 触りなれた耳に手を伸ばしたが、ない。
 柔らかいものが、ない。
 何かに触れたが、ベチャとしていた。
 ゆっくりと視線を動かし、右手を広げる。
「ぎゃあー!」
 頭の中全体を声が占領する。
 その手のひらには、赤色と黄色が溶けて混ざったものがこびり付いていた。
 一旦、落ち着こう。何かの間違いだ。
 きっと、キャンディーを食べ忘れたからだ。
 そうだ、スピちゃんを撫でれば大丈夫。
 ベチャベチャの手のひらで、モフモフを触った。
「なに、これ」
 今度は、ゆっくりとスピちゃんに視線を向ける。
「あぁ。耳が生えたのね」
 どうやら、十字架のピアスをつけた右耳はスピちゃんに移動したらしい。
「これで、蝉の声を一緒に聞けるね」
 私は、今までに感じたことの無い幸福感で満たされていた。このままずっと浸っていたいが、チャイムが始まりを告げる。
「大きな声を出し、驚かせてすみません。何の問題もありませんよ。今日も、しっかりとお願いしますね」
 たくさんの視線が私に注がれていることを確認し、更に腹から声を出す。
「お客様の声は、ダイヤの原石です」
 片耳が生えたスピちゃんを横目に、大きく息を吸う。
「さぁ、皆さんもご一緒に」
 『お客様の声は、ダイヤの原石です』
 フロア全体に様々な声色が重なる。
 いつもより、聞き取りにくい気がした。片耳が移動したのだから当たり前だ。大したことではない。
「スピちゃん、食べれば治るよね」
 『そうだよ』
 そっと胸を撫で下ろし、キャンディーを思い出した。
 今日は早く帰ろう。
 残り一個のキャンディーを食べるために。