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魔神決戦

ー/ー



 プヤル村を発ってから、いくつもの夜を越え、野営を重ねた。

 荒れた大地に座り込んだ勇斗は、聖剣の手入れをしていた。そばでは焚き火が、パチパチと静かに爆ぜている。

 月の光が長剣を照らす。剣の表面に映し出された勇斗の顔は、険しかった。

「ユート、そろそろ寝ないと体が持たないぞ。明日は、いよいよ魔神の居城に潜入するんだからな」

「うん、ありがとう」

 勇斗は剣を鞘に収め、険しい顔のまま夜空を見上げた。星は少なく、風が低く唸っている。

「ユート、心配すんなよ。オイラたちがついてる。絶対に勝つぞ」

 そう言いながら、ランパは饅頭をぽいと口に放り込む。プヤル村で買った饅頭だ。笑顔のまま頬張っていた。

「チビスケも、はやく寝ろよー」

「わかってるって」

 ランパは二つ目の饅頭を手に取った。

 しばらくして、荒地の奥から影が一つ現れた。白いフクロウが、羽音を殺して舞い降りる。

「やっぱり、あの火山のふもとが入口で間違いないっス」

 フクロウが姿を変え、チカップが現れた。

「偵察ご苦労。チカップも、明日に備えて休めよ」

「自分は結界を張ってから休むっス」

「さ、ユートも」

「うん」

 勇斗は地面に体を横たえた。焚き火の爆ぜる音を聞きながら、目を閉じる。

 まぶたの裏に、明日倒すべき敵の姿が浮かんだ。

 魔神がどれほど強くても、自分は一人じゃない。

 震える手を、ぎゅっと握りしめた。


 勇斗たちは、洞窟の入口に立っていた。

 もう、引き返せない。

 勇斗はつばを飲み込み、足を踏み出す。

 洞窟に一歩入った瞬間、熱風が肌をかすめた。乾いた熱が、呼吸と一緒に肺へ流れ込んだ。進むにつれ、息を吸うたび胸が重くなっていく。

 岩肌はいつの間にか黒く変わり、足元を照らす赤い光が揺れている。洞窟の中央では、マグマが道を避けるように流れていた。

「熱いっスね。鎧、脱ぎたくなるっス」

「全くだ。オレでもこれはこたえるぜ」

 鎧をまとったチカップとミュールがぼやく。

「ウダウダ言ってる場合じゃねぇぞ。来る!」

 ランパの声が鋭くなる。

 次の瞬間、前方の闇がうねった。溶岩をまとった犬型の魔族が、群れを成して突進してくる。その隙間に、骸骨兵の白い影が混じっていた。さらに左右のマグマが泡立ち、手足のついた魚が這い出してくる。

 勇斗はドラシガーを咥え、素早く火をつけた。煙に含まれる高濃度のマナを取り込み、鞘から聖剣クトネシスを引き抜く。

 それが合図だった。

 魔族たちが一斉に吠えた。

 勇斗たちは、迷いなく駆け出した。
 

 魔族の群れを退け、勇斗たちは洞窟を抜けた。誰も口を開かないまま、荒い息だけを整える。

 次の一歩を踏み出した瞬間、空気が変わった。

 視界が、一気に開ける。

 火山の内側とは思えないほど、広大な空間が広がっていた。天井は遥か高く、赤黒い岩盤が闇に溶け込んでいる。足元には黒の大地が果てしなく続き、その中央に、城があった。

 勇斗は、無意識に剣の柄を握り直していた。

 マグマの光に照らされ、城壁の輪郭が浮かび上がる。塔。回廊。門。自然が偶然生み出した形ではない。意志をもって造られたものだと、嫌でもわかる。

 門をくぐった瞬間、背筋を撫でるものがあった。熱が消えたわけじゃない。それでも、寒気だけが這い上がってくる。

 足元は、継ぎ目のない黒曜石の床。壁は直線と緩やかな曲線だけで構成され、火山の内側とは思えないほど滑らかだった。

 回廊を進み、地下に降りる。その先に広がっていたのは、円形の空間だった。黒曜石の床が、心臓の鼓動のように赤く明滅している。

 呼吸が、勝手に乱れた。

 誰も、しゃべらない。

 円形空間の中央に、大きな扉が佇んでいた。

 扉の前に、ひとりの少女が立っている。

「ソーマ……」

 勇斗は無意識に唇を噛んだ。黒い感情が激しく燃え立った。

「お待ちしておりましたわ、みなさま」

 ソーマは優雅にお辞儀をした。黒い衣装が妖しく揺れる。

 勇斗たちは武器を構えた。

「あらあら、物騒な。残念ながら、今は争うつもりはありませんの。魔神様がお待ちです。さぁ、お入りくださいませ」

 扉がひとりでに開いた。

 扉が開くと同時に、ソーマは闇へと消えた。

 勇斗たちは顔を見合わせ、無言でうなずく。

 扉の先には、紅い空間が広がっていた。

 奥に、玉座がある。

 玉座に、漆黒の鎧をまとった魔神が、脚を組んで座っていた。フルフェイスの兜に覆われ、表情は見えない。背後には、赤い飛竜が鎮座している。

 シグネリアの姿が見えない。どこかに閉じ込められているのだろうか。無事だといいのだが。

 勇斗は、マントの内側からドラシガーを一本取り出した。

 赤い飛竜が低く唸る。魔神は片手を上げてそれを制した。

「オレ一人でやる」

 魔神は立ち上がり、宙に生まれた闇の渦から巨大な斧をせり出した。

 斧が一振りされる。空気が裂け、風圧が勇斗たちを叩いた。

「来るがいい」

 左手で、軽く手招きする。

 勇斗はドラシガーに火をつけ、緑煙をまとった。聖剣クトネシスを引き抜き、剣先を魔神に向ける。それを合図に、仲間たちも構えた。

 勇斗は踏み込んだ。聖剣クトネシスが、確かな軌跡を描く。

 斬った。

 刃は鎧の正面を捉え、腕に確かな反動が返ってきた。だが、結果だけが消えていた。

 斬撃は霧のように歪み、闇に吸い込まれていく。魔神の鎧には、傷ひとつ残らない。

 精霊眼が未来を映す。斬る。当たる。そして――何も起きない。そんな未来ばかりが、逃げ場を塞ぐように幾重にも重なっていた。

 魔神は、ほとんど動いていない。

 どうして通らない?

 鼓動が速くなる。指先が言うことをきかなくなる。胸の奥で、嫌な空白が広がっていく。

 勇斗はドラシガーを強く噛みしめた。

 ミュールが吠え、地を蹴る。闇を裂くように踏み込み、拳を叩き込んだ。

 鈍い衝撃音。だが次の瞬間、ミュールの身体が弾き飛ばされた。

「ぐっ……くそっ」

 魔神は、ミュールに視線すら向けなかった。ただ、斧を持ち上げる。

 空間が、軋んだ。

 刃の周囲に、半透明の闇が幾層にも重なる。

 嫌な予感が、背筋を這い上がる。

「来るっス! ユート、避けて!」

 チカップが羽ペンで魔法陣を描き、詠唱に入る。

 だが、言葉が終わる前に、闇が斧の軌道に沿って溢れ出した。

 精霊眼が未来を映す。

 勇斗の肩が、びくりと跳ねた。

 逃げられない。防げない。生き残る未来が、一つもない。

 斧が振り下ろされる。

 勇斗は剣を構えたまま動けなかった。喉が絞まる感覚に襲われる。

 音が、消えた。

 ――死ぬ。

 理解した瞬間、視界の端に緑の影が飛び込んできた。

「ユートッ!」

 ランパが叫びながら前に出る。

 樹の精霊術が一気に展開され、無理やり重ねられた葉の防壁が軋み、震えた。

 ――ランパ!

 次の刹那、ランパから血飛沫が上がった。

 ランパは、左肩から右腹部にかけて深く斬られ、力を失ったように床へ崩れ落ちた。

 勇斗の思考が、止まった。

「チビスケ!」

 ミュールが駆け寄る。

「オイラなら……だい、じょうぶだ……」

 掠れた声だった。呼吸が、途中で途切れた。

「それより、はやく、魔神を……」

 そこで、言葉が終わった。ランパの身体が、ぴくりとも動かなくなる。

 勇斗は、ドラシガーを奥歯で噛み砕きそうなほど強く噛みしめ、魔神を睨みつけた。

 その時だった。かすかな羽音がした。

 倒れているランパのポーチが、わずかに揺れた。中から、一匹の虫が飛び出す。

 炎冷カブト。プヤル村でランパが誇らしげに見せてきた、あの虫だった。

 炎冷カブトは一直線に魔神へ向かって飛んだ。

「ひっ」

 魔神が、声を上げた。それまでの余裕も威厳もない、本能だけが漏れ出たような声だった。

「やめろ! 来るな!」

 斧が、滅茶苦茶な軌道で振り回された。

 だが、炎冷カブトはそのすべてをすり抜けた。流れを読んでいるかのように斧の軌道を外れ、一直線に兜のわずかな隙間へ潜り込む。

「ぐぎゃあああああああっ! やめろ! やめろ、やめろ、やめろーっ!」

 魔神が悶え苦しみだした。

「今だっ!」

 ミュールが吠え、地を蹴る。

 振るわれた斧は、これまでよりわずかに遅い。

 拳が、魔神の胴を打ち抜いた。

 魔神の体が、初めて大きくよろめく。

「ミュール、下がって!」

 チカップが、青と茶色の魔法陣を展開する。詠唱が終わると同時に、魔神の足もとから幾本もの氷柱が突き出した。

 氷が絡みつき、動きを奪う。

 魔神の動きが、止まった。

 氷に絡め取られた斧が、ぎしりと音を立てた。

 次の刹那、ミュールの拳が叩き込まれる。

 闇をまとった刃がひび割れ、砕け散った。

「ユート、今っス!」

 勇斗は大きく息を吸う。ドラシガーの煙を勢いよく引き込む。口の隙間から、大量の緑煙を吐き出した。

 勇斗は跳んだ。

 聖剣クトネシスの剣先が、魔神の兜を捉える。

 迷いはなかった。

 縦一文字。

 兜が、砕け散った。世界が、音を失った。

 魔神の素顔が露わになる。

 勇斗は、次の動作に入れなかった。

 腕が、動かない。

 魔神の顔は、勇斗のよく知る顔だった。

 真弘くん――

 思考が、完全に白に塗り潰された。


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 プヤル村を発ってから、いくつもの夜を越え、野営を重ねた。
 荒れた大地に座り込んだ勇斗は、聖剣の手入れをしていた。そばでは焚き火が、パチパチと静かに爆ぜている。
 月の光が長剣を照らす。剣の表面に映し出された勇斗の顔は、険しかった。
「ユート、そろそろ寝ないと体が持たないぞ。明日は、いよいよ魔神の居城に潜入するんだからな」
「うん、ありがとう」
 勇斗は剣を鞘に収め、険しい顔のまま夜空を見上げた。星は少なく、風が低く唸っている。
「ユート、心配すんなよ。オイラたちがついてる。絶対に勝つぞ」
 そう言いながら、ランパは饅頭をぽいと口に放り込む。プヤル村で買った饅頭だ。笑顔のまま頬張っていた。
「チビスケも、はやく寝ろよー」
「わかってるって」
 ランパは二つ目の饅頭を手に取った。
 しばらくして、荒地の奥から影が一つ現れた。白いフクロウが、羽音を殺して舞い降りる。
「やっぱり、あの火山のふもとが入口で間違いないっス」
 フクロウが姿を変え、チカップが現れた。
「偵察ご苦労。チカップも、明日に備えて休めよ」
「自分は結界を張ってから休むっス」
「さ、ユートも」
「うん」
 勇斗は地面に体を横たえた。焚き火の爆ぜる音を聞きながら、目を閉じる。
 まぶたの裏に、明日倒すべき敵の姿が浮かんだ。
 魔神がどれほど強くても、自分は一人じゃない。
 震える手を、ぎゅっと握りしめた。
 勇斗たちは、洞窟の入口に立っていた。
 もう、引き返せない。
 勇斗はつばを飲み込み、足を踏み出す。
 洞窟に一歩入った瞬間、熱風が肌をかすめた。乾いた熱が、呼吸と一緒に肺へ流れ込んだ。進むにつれ、息を吸うたび胸が重くなっていく。
 岩肌はいつの間にか黒く変わり、足元を照らす赤い光が揺れている。洞窟の中央では、マグマが道を避けるように流れていた。
「熱いっスね。鎧、脱ぎたくなるっス」
「全くだ。オレでもこれはこたえるぜ」
 鎧をまとったチカップとミュールがぼやく。
「ウダウダ言ってる場合じゃねぇぞ。来る!」
 ランパの声が鋭くなる。
 次の瞬間、前方の闇がうねった。溶岩をまとった犬型の魔族が、群れを成して突進してくる。その隙間に、骸骨兵の白い影が混じっていた。さらに左右のマグマが泡立ち、手足のついた魚が這い出してくる。
 勇斗はドラシガーを咥え、素早く火をつけた。煙に含まれる高濃度のマナを取り込み、鞘から聖剣クトネシスを引き抜く。
 それが合図だった。
 魔族たちが一斉に吠えた。
 勇斗たちは、迷いなく駆け出した。
 魔族の群れを退け、勇斗たちは洞窟を抜けた。誰も口を開かないまま、荒い息だけを整える。
 次の一歩を踏み出した瞬間、空気が変わった。
 視界が、一気に開ける。
 火山の内側とは思えないほど、広大な空間が広がっていた。天井は遥か高く、赤黒い岩盤が闇に溶け込んでいる。足元には黒の大地が果てしなく続き、その中央に、城があった。
 勇斗は、無意識に剣の柄を握り直していた。
 マグマの光に照らされ、城壁の輪郭が浮かび上がる。塔。回廊。門。自然が偶然生み出した形ではない。意志をもって造られたものだと、嫌でもわかる。
 門をくぐった瞬間、背筋を撫でるものがあった。熱が消えたわけじゃない。それでも、寒気だけが這い上がってくる。
 足元は、継ぎ目のない黒曜石の床。壁は直線と緩やかな曲線だけで構成され、火山の内側とは思えないほど滑らかだった。
 回廊を進み、地下に降りる。その先に広がっていたのは、円形の空間だった。黒曜石の床が、心臓の鼓動のように赤く明滅している。
 呼吸が、勝手に乱れた。
 誰も、しゃべらない。
 円形空間の中央に、大きな扉が佇んでいた。
 扉の前に、ひとりの少女が立っている。
「ソーマ……」
 勇斗は無意識に唇を噛んだ。黒い感情が激しく燃え立った。
「お待ちしておりましたわ、みなさま」
 ソーマは優雅にお辞儀をした。黒い衣装が妖しく揺れる。
 勇斗たちは武器を構えた。
「あらあら、物騒な。残念ながら、今は争うつもりはありませんの。魔神様がお待ちです。さぁ、お入りくださいませ」
 扉がひとりでに開いた。
 扉が開くと同時に、ソーマは闇へと消えた。
 勇斗たちは顔を見合わせ、無言でうなずく。
 扉の先には、紅い空間が広がっていた。
 奥に、玉座がある。
 玉座に、漆黒の鎧をまとった魔神が、脚を組んで座っていた。フルフェイスの兜に覆われ、表情は見えない。背後には、赤い飛竜が鎮座している。
 シグネリアの姿が見えない。どこかに閉じ込められているのだろうか。無事だといいのだが。
 勇斗は、マントの内側からドラシガーを一本取り出した。
 赤い飛竜が低く唸る。魔神は片手を上げてそれを制した。
「オレ一人でやる」
 魔神は立ち上がり、宙に生まれた闇の渦から巨大な斧をせり出した。
 斧が一振りされる。空気が裂け、風圧が勇斗たちを叩いた。
「来るがいい」
 左手で、軽く手招きする。
 勇斗はドラシガーに火をつけ、緑煙をまとった。聖剣クトネシスを引き抜き、剣先を魔神に向ける。それを合図に、仲間たちも構えた。
 勇斗は踏み込んだ。聖剣クトネシスが、確かな軌跡を描く。
 斬った。
 刃は鎧の正面を捉え、腕に確かな反動が返ってきた。だが、結果だけが消えていた。
 斬撃は霧のように歪み、闇に吸い込まれていく。魔神の鎧には、傷ひとつ残らない。
 精霊眼が未来を映す。斬る。当たる。そして――何も起きない。そんな未来ばかりが、逃げ場を塞ぐように幾重にも重なっていた。
 魔神は、ほとんど動いていない。
 どうして通らない?
 鼓動が速くなる。指先が言うことをきかなくなる。胸の奥で、嫌な空白が広がっていく。
 勇斗はドラシガーを強く噛みしめた。
 ミュールが吠え、地を蹴る。闇を裂くように踏み込み、拳を叩き込んだ。
 鈍い衝撃音。だが次の瞬間、ミュールの身体が弾き飛ばされた。
「ぐっ……くそっ」
 魔神は、ミュールに視線すら向けなかった。ただ、斧を持ち上げる。
 空間が、軋んだ。
 刃の周囲に、半透明の闇が幾層にも重なる。
 嫌な予感が、背筋を這い上がる。
「来るっス! ユート、避けて!」
 チカップが羽ペンで魔法陣を描き、詠唱に入る。
 だが、言葉が終わる前に、闇が斧の軌道に沿って溢れ出した。
 精霊眼が未来を映す。
 勇斗の肩が、びくりと跳ねた。
 逃げられない。防げない。生き残る未来が、一つもない。
 斧が振り下ろされる。
 勇斗は剣を構えたまま動けなかった。喉が絞まる感覚に襲われる。
 音が、消えた。
 ――死ぬ。
 理解した瞬間、視界の端に緑の影が飛び込んできた。
「ユートッ!」
 ランパが叫びながら前に出る。
 樹の精霊術が一気に展開され、無理やり重ねられた葉の防壁が軋み、震えた。
 ――ランパ!
 次の刹那、ランパから血飛沫が上がった。
 ランパは、左肩から右腹部にかけて深く斬られ、力を失ったように床へ崩れ落ちた。
 勇斗の思考が、止まった。
「チビスケ!」
 ミュールが駆け寄る。
「オイラなら……だい、じょうぶだ……」
 掠れた声だった。呼吸が、途中で途切れた。
「それより、はやく、魔神を……」
 そこで、言葉が終わった。ランパの身体が、ぴくりとも動かなくなる。
 勇斗は、ドラシガーを奥歯で噛み砕きそうなほど強く噛みしめ、魔神を睨みつけた。
 その時だった。かすかな羽音がした。
 倒れているランパのポーチが、わずかに揺れた。中から、一匹の虫が飛び出す。
 炎冷カブト。プヤル村でランパが誇らしげに見せてきた、あの虫だった。
 炎冷カブトは一直線に魔神へ向かって飛んだ。
「ひっ」
 魔神が、声を上げた。それまでの余裕も威厳もない、本能だけが漏れ出たような声だった。
「やめろ! 来るな!」
 斧が、滅茶苦茶な軌道で振り回された。
 だが、炎冷カブトはそのすべてをすり抜けた。流れを読んでいるかのように斧の軌道を外れ、一直線に兜のわずかな隙間へ潜り込む。
「ぐぎゃあああああああっ! やめろ! やめろ、やめろ、やめろーっ!」
 魔神が悶え苦しみだした。
「今だっ!」
 ミュールが吠え、地を蹴る。
 振るわれた斧は、これまでよりわずかに遅い。
 拳が、魔神の胴を打ち抜いた。
 魔神の体が、初めて大きくよろめく。
「ミュール、下がって!」
 チカップが、青と茶色の魔法陣を展開する。詠唱が終わると同時に、魔神の足もとから幾本もの氷柱が突き出した。
 氷が絡みつき、動きを奪う。
 魔神の動きが、止まった。
 氷に絡め取られた斧が、ぎしりと音を立てた。
 次の刹那、ミュールの拳が叩き込まれる。
 闇をまとった刃がひび割れ、砕け散った。
「ユート、今っス!」
 勇斗は大きく息を吸う。ドラシガーの煙を勢いよく引き込む。口の隙間から、大量の緑煙を吐き出した。
 勇斗は跳んだ。
 聖剣クトネシスの剣先が、魔神の兜を捉える。
 迷いはなかった。
 縦一文字。
 兜が、砕け散った。世界が、音を失った。
 魔神の素顔が露わになる。
 勇斗は、次の動作に入れなかった。
 腕が、動かない。
 魔神の顔は、勇斗のよく知る顔だった。
 真弘くん――
 思考が、完全に白に塗り潰された。