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梅の香に、歩幅をゆるめて

ー/ー




​ 毎日、同じ時間に家を出て、同じ角を曲がる。駅までの八百メートルは、私にとって単なる「移動」でしかなかった。


スマートフォンの画面を眺めるか、次にこなすべき仕事の段取りを頭の中で反芻する。そんな無機質なルーティンが、私の日常のすべてだった。


​ 二月の冷たい空気が頬を刺す朝、スマートフォンの充電を忘れていたことに気づいた。

手持ち無沙汰に顔を上げると、視界に飛び込んできたのは、いつもの角にある古い平屋の庭だった。



​ 白い梅の花。


「ああ、もうそんな季節か」


 ふわりと漂ってきたのは、清らかで、どこか懐かしい梅の香。毎日通っていたはずなのに、固い蕾が少しずつ綻び、今朝ついに数輪の花を咲かせたことさえ、私は今の今まで知らずにいた。



​ ふと視線を落とすと、コンクリートの割れ目から、小さな雑草が霜を払い落として茎を伸ばしている。昨夜の冷え込みが作った氷の粒が、朝日を浴びて宝石のようにきらめく。


 私は、自分がどれほど多くの「冬の輝き」を無視して歩いていたのかを思い知らされた。


​「おはようございます。今朝は冷えますね」


 庭先で落ち葉を掃いていたおばあさんが、手を止めて微笑みかけてくれた。


「おはようございます。梅、とても綺麗ですね」


 自然と言葉がこぼれた。おばあさんは少し驚いたような顔をして、それからいっそう深く目を細めた。


「気づいてくれて嬉しいわ。寒ければ寒いほど、梅はいい香りがするのよ」


​ 駅までの残りの道、私は意識してゆっくりと歩を進めた。


 冷たい風が運んでくる、どこかの家の朝食の匂い。電柱の影が冬独特の鋭さで伸びていく様子。登校中の小学生が、白い息を吐きながら楽しげに跳ねていく音。



 世界は、こんなにも確かな生命の気配に満ちていたのだ。


​ 同じ道、同じ時間。けれど、私の心に映る景色は、昨日までとはまるで違っていた。


 特別な出来事なんてなくていい。ただ、季節の移ろいに気づき、凛とした空気を胸いっぱいに吸い込む。それだけで、硬く閉じこもっていた心が、ゆっくりと解けていくのがわかった。


​ 明日の朝は、今日より五分早く家を出よう。


 あの角を曲がったとき、白梅がどれくらい花を増やしているかを確認するために。
​ 私の日常は、春を待つ喜びとともに色づき始めている。






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​ 毎日、同じ時間に家を出て、同じ角を曲がる。駅までの八百メートルは、私にとって単なる「移動」でしかなかった。
スマートフォンの画面を眺めるか、次にこなすべき仕事の段取りを頭の中で反芻する。そんな無機質なルーティンが、私の日常のすべてだった。
​ 二月の冷たい空気が頬を刺す朝、スマートフォンの充電を忘れていたことに気づいた。
手持ち無沙汰に顔を上げると、視界に飛び込んできたのは、いつもの角にある古い平屋の庭だった。
​ 白い梅の花。
「ああ、もうそんな季節か」
 ふわりと漂ってきたのは、清らかで、どこか懐かしい梅の香。毎日通っていたはずなのに、固い蕾が少しずつ綻び、今朝ついに数輪の花を咲かせたことさえ、私は今の今まで知らずにいた。
​ ふと視線を落とすと、コンクリートの割れ目から、小さな雑草が霜を払い落として茎を伸ばしている。昨夜の冷え込みが作った氷の粒が、朝日を浴びて宝石のようにきらめく。
 私は、自分がどれほど多くの「冬の輝き」を無視して歩いていたのかを思い知らされた。
​「おはようございます。今朝は冷えますね」
 庭先で落ち葉を掃いていたおばあさんが、手を止めて微笑みかけてくれた。
「おはようございます。梅、とても綺麗ですね」
 自然と言葉がこぼれた。おばあさんは少し驚いたような顔をして、それからいっそう深く目を細めた。
「気づいてくれて嬉しいわ。寒ければ寒いほど、梅はいい香りがするのよ」
​ 駅までの残りの道、私は意識してゆっくりと歩を進めた。
 冷たい風が運んでくる、どこかの家の朝食の匂い。電柱の影が冬独特の鋭さで伸びていく様子。登校中の小学生が、白い息を吐きながら楽しげに跳ねていく音。
 世界は、こんなにも確かな生命の気配に満ちていたのだ。
​ 同じ道、同じ時間。けれど、私の心に映る景色は、昨日までとはまるで違っていた。
 特別な出来事なんてなくていい。ただ、季節の移ろいに気づき、凛とした空気を胸いっぱいに吸い込む。それだけで、硬く閉じこもっていた心が、ゆっくりと解けていくのがわかった。
​ 明日の朝は、今日より五分早く家を出よう。
 あの角を曲がったとき、白梅がどれくらい花を増やしているかを確認するために。
​ 私の日常は、春を待つ喜びとともに色づき始めている。