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ー/ー



 午前中は晴れやかな天気が続くが、宵から夜半にかけて荒天となるだろう。
 仕事中に見た天気予報が頭に残っていたから、曇天の下、詩鶴は早足で家に帰った。
 「ただいまぁ」
 雨が降り出す前に家に着いてよかった、とホッとしているところに、基が顔を出す。
 「おかえり、詩鶴。頼まれてた洗濯物、取り込んでおいたよ」
 「あっ、ありがとう!」
 午後から急激に曇り出した空を見て、今朝庭に干してきた洗濯物が心配になった。一人暮らしだとどうしようもないが、今は家に基がいる。だが家にいるとはいっても、基も仕事中だ。申し訳ないと思うし気を悪くするかもと迷ったが、思いきって洗濯物の取り込みを頼んでしまった。
 「言われた通り室内に入れてそのままラックに掛けただけだけど」
 「充分充分。ありがとう。ごめんね、仕事してるのに家事まで頼んじゃって。ちゃんと天気予報見てから干して行けば良かった」
 基は家事においては無能といっていいレベルだ。だがそれ故、洗濯機はボタン一つで乾燥まで完璧に仕上げてくれる上等な品を使っている。最初から機械任せにしておけば良かったのだが、詩鶴は外に干す癖が染みついているので、今朝も深く考えず庭に出してきてしまった。家事は自分がやると自ら請け負っておいて面倒を掛けてしまったことに、詩鶴はしゅんとする。
 「いや、そのくらいは別に。君の頼み事が僕に出来る範囲のことで良かったよ。僕が協力できる家事なんて(ほとん)どないからな」
 詩鶴の失敗を基がさらりと笑って済ませたことに、詩鶴はほっと胸を撫で下ろした。
 
 同居を始める直前のこと。料理だけでなく、今まで業者に頼んでいたその他の家事も自分でやりたいと詩鶴が申告すると、基は心底驚いた顔をした。
 「君一人で家事全般をこなすのは無理だろ。仕事もあるのに」
 「無理じゃないよ。今までも自分でやってたもん」
 「ワンフロアの一人暮らしと戸建の家の二人分の家事じゃ、作業量が違う」
 「そ、そうだけど。でも」
 「何でわざわざ仕事を背負い込みたがる?そうでなくても生活が一変するんだ。少しでも楽して、新しい環境に慣れることに専念した方がいいじゃないか」
 ()せないと言いたげに、基は首を傾げる。
 「…早く慣れたいから、家事をしたいの。この家で掃除して洗濯して、二人分の食事を作って…ここで一緒に生活するんだって、実感が欲しいの。自分で掃除したりそれなりに手をかければ、家に対する愛着も湧くし…」
 詩鶴が言葉を選びながら訴える間、基の黒目がちな瞳は、瞬きもせず、じっとこちらを見つめている。
 基が難色を示す理由がわからなくて、詩鶴は戸惑った。詩鶴が家事をやれば余計なお金もかからないし、基に負担をかけるつもりもない。メリットの方が多いはずだ。
 詩鶴が家の中を好き勝手にする事が嫌なのだろうか。それとも家事能力、仕上がりに対する不信感だろうか。やっぱり知り合ったばかりの人と生活するのは難しいのだろうか──詩鶴は少し、不安になってきた。
 「あの、そりゃプロの人に比べたらクオリティは落ちると思うけど、気になった時にはまた単発で、そこだけお願いするとか…」
 「そうか。わかった」
 ごにゃごにゃと言い募る詩鶴を遮って、基は深く頷いた。
 「君がそう言うなら任せるよ。けど覚えておいてくれ。僕は家の仕事を任せたくて君と結婚した訳じゃない。相応の対価を払えば他人に任せる事が出来るんだから、あくまで君が楽しめる範囲に収めて欲しい。負担に感じたらすぐに放棄すると約束してくれるか?」
 「う、うん。わかった」
 夫から家事をやれと言われ、不公平感から喧嘩になるという話はよく聞く。それは詩鶴も想定していたけれど、極力やるなと言われる状況は考えていなかった。

 あの時は詩鶴も混乱していたが、一緒に暮らし始めて数週間経ち、最近になってわかってきた。
 幼い頃からハウスキーパー頼みで生活してきた基は、家事を生活の一部ではなく、専門家に代価を支払って頼む仕事の一つだと認識している。本業の片手間にこなせるものではないと思っているのだ。
 無理だと言ったのもすぐに放棄しろと言ったのも、不信感ではなく気遣いだった。
 有り難いことだと思う。いくら家事が好きだと言っても、義務としてやらざるを得ないのと趣味的感覚でやるのとでは、同じ作業でも気分が違う。行き詰まった時の逃げ道を用意してくれていることは、心の余裕に繋がった。
 
 知り合って間もない基との同居生活は、手探りに近い。互いの習慣や価値観を知らないのだから、ひとつひとつ擦り合わせて進めていくしかない。
 まっさらな紙に少しずつ色を塗っていくような日々は、いくらかの緊張感はあるものの、新鮮で、張り合いがあった。
 いかにも偏屈そうな基だが、こだわりがないものに関しては基本的にどうでもいい、何でもいいというスタンスだ。そしてそのこだわりは主に仕事面で発揮されるものらしく、生活全般においては無頓着と言っていいくらい大雑把、良く言えばおおらかだった。
 だから詩鶴は、つい先日まで他人の領域だったこの家で、案外のびのび暮らす事が出来ている。

 とは言え、困った事がない訳ではない。

 ふと目を覚まして寝返りを打った時、そこに基がいる事には未だに慣れない。いちいちぎくりとしてしまう。
 それに基は詩鶴で遊ぶことに楽しみを見出してしまったようで、しょっちゅう揶揄ってくる。服の中に手を突っ込んできたり、一応口だけは避けているようだが、その他の部分には遠慮なくキスしてくるし。
 もう夫婦なのだし、遠くない将来子供を作ろうと思っている相手だ。少しずつでも慣れろと言う基の言い分は、正しいとは思うのだけど──…

(けど、まだ『困る』んだよね…)

 心の中で溜息を吐きながら庭のサンダルを片付けていると、庭の隅の方から、かさこそと、ささやかな音が聞こえてきた。
 「ん?」
 音のする方に目を()ると「みゃあ」と、か細い声がした。
 「あっ。もしかして猫ちゃん?」
 詩鶴はぱっと顔を輝かせて、片付けようとしていたサンダルを履くと、足音を忍ばせて声のする方に近付いた。
 もう日が落ちていて辺りは暗い。ご近所の部屋から漏れる明かりと遠くに置かれた街灯のささやかな明かりを頼りに目を凝らすと、植え込みの陰で、小さな猫が丸くなっていた。詩鶴のサンダルと同じくらいの大きさしかない、小さな猫だ。まだ幼猫なのか、こちらから見える横顔はあどけない。
 「かわいー…」
 逃げる様子もなかったので、詩鶴はその場にしゃがみ込んで子猫を眺めた。

 だが、すぐに様子がおかしい事に気付く。
 その猫は丸くなったまま、小刻みに震えていた。
 逃げないのではない。逃げられないのだ。
 詩鶴は慌ててその猫を抱き上げ、部屋に戻った。
 「どうした?詩鶴」
 詩鶴のただならぬ様子に、リビングでPCに向き合い仕事をしていた基が顔を上げる。

 「基さん、この子、怪我してる…!」

 詩鶴の両掌に抱かれた子猫の頭部は、乾いた赤黒い血で汚れていた。


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 午前中は晴れやかな天気が続くが、宵から夜半にかけて荒天となるだろう。
 仕事中に見た天気予報が頭に残っていたから、曇天の下、詩鶴は早足で家に帰った。
 「ただいまぁ」
 雨が降り出す前に家に着いてよかった、とホッとしているところに、基が顔を出す。
 「おかえり、詩鶴。頼まれてた洗濯物、取り込んでおいたよ」
 「あっ、ありがとう!」
 午後から急激に曇り出した空を見て、今朝庭に干してきた洗濯物が心配になった。一人暮らしだとどうしようもないが、今は家に基がいる。だが家にいるとはいっても、基も仕事中だ。申し訳ないと思うし気を悪くするかもと迷ったが、思いきって洗濯物の取り込みを頼んでしまった。
 「言われた通り室内に入れてそのままラックに掛けただけだけど」
 「充分充分。ありがとう。ごめんね、仕事してるのに家事まで頼んじゃって。ちゃんと天気予報見てから干して行けば良かった」
 基は家事においては無能といっていいレベルだ。だがそれ故、洗濯機はボタン一つで乾燥まで完璧に仕上げてくれる上等な品を使っている。最初から機械任せにしておけば良かったのだが、詩鶴は外に干す癖が染みついているので、今朝も深く考えず庭に出してきてしまった。家事は自分がやると自ら請け負っておいて面倒を掛けてしまったことに、詩鶴はしゅんとする。
 「いや、そのくらいは別に。君の頼み事が僕に出来る範囲のことで良かったよ。僕が協力できる家事なんて殆《ほとん》どないからな」
 詩鶴の失敗を基がさらりと笑って済ませたことに、詩鶴はほっと胸を撫で下ろした。
 同居を始める直前のこと。料理だけでなく、今まで業者に頼んでいたその他の家事も自分でやりたいと詩鶴が申告すると、基は心底驚いた顔をした。
 「君一人で家事全般をこなすのは無理だろ。仕事もあるのに」
 「無理じゃないよ。今までも自分でやってたもん」
 「ワンフロアの一人暮らしと戸建の家の二人分の家事じゃ、作業量が違う」
 「そ、そうだけど。でも」
 「何でわざわざ仕事を背負い込みたがる?そうでなくても生活が一変するんだ。少しでも楽して、新しい環境に慣れることに専念した方がいいじゃないか」
 解《げ》せないと言いたげに、基は首を傾げる。
 「…早く慣れたいから、家事をしたいの。この家で掃除して洗濯して、二人分の食事を作って…ここで一緒に生活するんだって、実感が欲しいの。自分で掃除したりそれなりに手をかければ、家に対する愛着も湧くし…」
 詩鶴が言葉を選びながら訴える間、基の黒目がちな瞳は、瞬きもせず、じっとこちらを見つめている。
 基が難色を示す理由がわからなくて、詩鶴は戸惑った。詩鶴が家事をやれば余計なお金もかからないし、基に負担をかけるつもりもない。メリットの方が多いはずだ。
 詩鶴が家の中を好き勝手にする事が嫌なのだろうか。それとも家事能力、仕上がりに対する不信感だろうか。やっぱり知り合ったばかりの人と生活するのは難しいのだろうか──詩鶴は少し、不安になってきた。
 「あの、そりゃプロの人に比べたらクオリティは落ちると思うけど、気になった時にはまた単発で、そこだけお願いするとか…」
 「そうか。わかった」
 ごにゃごにゃと言い募る詩鶴を遮って、基は深く頷いた。
 「君がそう言うなら任せるよ。けど覚えておいてくれ。僕は家の仕事を任せたくて君と結婚した訳じゃない。相応の対価を払えば他人に任せる事が出来るんだから、あくまで君が楽しめる範囲に収めて欲しい。負担に感じたらすぐに放棄すると約束してくれるか?」
 「う、うん。わかった」
 夫から家事をやれと言われ、不公平感から喧嘩になるという話はよく聞く。それは詩鶴も想定していたけれど、極力やるなと言われる状況は考えていなかった。
 あの時は詩鶴も混乱していたが、一緒に暮らし始めて数週間経ち、最近になってわかってきた。
 幼い頃からハウスキーパー頼みで生活してきた基は、家事を生活の一部ではなく、専門家に代価を支払って頼む仕事の一つだと認識している。本業の片手間にこなせるものではないと思っているのだ。
 無理だと言ったのもすぐに放棄しろと言ったのも、不信感ではなく気遣いだった。
 有り難いことだと思う。いくら家事が好きだと言っても、義務としてやらざるを得ないのと趣味的感覚でやるのとでは、同じ作業でも気分が違う。行き詰まった時の逃げ道を用意してくれていることは、心の余裕に繋がった。
 知り合って間もない基との同居生活は、手探りに近い。互いの習慣や価値観を知らないのだから、ひとつひとつ擦り合わせて進めていくしかない。
 まっさらな紙に少しずつ色を塗っていくような日々は、いくらかの緊張感はあるものの、新鮮で、張り合いがあった。
 いかにも偏屈そうな基だが、こだわりがないものに関しては基本的にどうでもいい、何でもいいというスタンスだ。そしてそのこだわりは主に仕事面で発揮されるものらしく、生活全般においては無頓着と言っていいくらい大雑把、良く言えばおおらかだった。
 だから詩鶴は、つい先日まで他人の領域だったこの家で、案外のびのび暮らす事が出来ている。
 とは言え、困った事がない訳ではない。
 ふと目を覚まして寝返りを打った時、そこに基がいる事には未だに慣れない。いちいちぎくりとしてしまう。
 それに基は詩鶴で遊ぶことに楽しみを見出してしまったようで、しょっちゅう揶揄ってくる。服の中に手を突っ込んできたり、一応口だけは避けているようだが、その他の部分には遠慮なくキスしてくるし。
 もう夫婦なのだし、遠くない将来子供を作ろうと思っている相手だ。少しずつでも慣れろと言う基の言い分は、正しいとは思うのだけど──…
(けど、まだ『困る』んだよね…)
 心の中で溜息を吐きながら庭のサンダルを片付けていると、庭の隅の方から、かさこそと、ささやかな音が聞こえてきた。
 「ん?」
 音のする方に目を遣《や》ると「みゃあ」と、か細い声がした。
 「あっ。もしかして猫ちゃん?」
 詩鶴はぱっと顔を輝かせて、片付けようとしていたサンダルを履くと、足音を忍ばせて声のする方に近付いた。
 もう日が落ちていて辺りは暗い。ご近所の部屋から漏れる明かりと遠くに置かれた街灯のささやかな明かりを頼りに目を凝らすと、植え込みの陰で、小さな猫が丸くなっていた。詩鶴のサンダルと同じくらいの大きさしかない、小さな猫だ。まだ幼猫なのか、こちらから見える横顔はあどけない。
 「かわいー…」
 逃げる様子もなかったので、詩鶴はその場にしゃがみ込んで子猫を眺めた。
 だが、すぐに様子がおかしい事に気付く。
 その猫は丸くなったまま、小刻みに震えていた。
 逃げないのではない。逃げられないのだ。
 詩鶴は慌ててその猫を抱き上げ、部屋に戻った。
 「どうした?詩鶴」
 詩鶴のただならぬ様子に、リビングでPCに向き合い仕事をしていた基が顔を上げる。
 「基さん、この子、怪我してる…!」
 詩鶴の両掌に抱かれた子猫の頭部は、乾いた赤黒い血で汚れていた。