お先にどうぞと言われたので、言われるがままに先に風呂を済ませた。
「あのー、出ました。お先にお風呂、ありがとうございました」
リビングで本を開きながら缶ビールを傾けていた基は、あぁと頷く。
「僕も入ってくる。眠たかったら先に寝室に行ってていいよ」
そう言い置いて、入れ違いにリビングから出て行った。
基が消えた瞬間、詩鶴は待ちかねていたようにささっと冷蔵庫からビールを取り出す。プルタブを引いて、ごっごっと音が鳴るほど、勢いよく流し込んだ。さすがに基には、というか誰にも、見せられない姿である。
この後に待ち構えた共寝の儀式を前に、詩鶴の緊張は極限に達していた。
酒でも飲まねば、やってられん。
詩鶴はものの二分で、二缶目を開けた。
普段詩鶴は、飲み会でもない限り酒を飲まない。飲み会に参加したとしても大した量は飲まない。自身の記録を塗り替えるペースだった。二缶目に口を着けた瞬間、脳内がぐらりと揺れるのがわかった。
詩鶴が普段あまり飲まない理由はひとつ。
弱いからである。
風呂から上がった基は、リビングのドアを開けた瞬間にきょとんと目を見開いた。
缶ビールを片手に握りしめながらダイニングテーブルに頬杖をついているのは、紛れもなく己が妻、詩鶴である。
「随分空けたな」
風呂に入っていたのはほんの十五分程度だが、テーブルの上には三本の空き缶が並んでいる。
「けっこう酒好きなんだな」
「…いけないの?」
向かいに座った基を、詩鶴は据わった目でじろりと睨む。
「いや、いけなかないけど」
少し怯んだ顔をした基を、詩鶴は今度はきっと鋭く睨み付けた。
「誰の…誰のせいでこんな…飲まなきゃやってらんない状況になってると、思って…」
恨みがましく呟いたかと思うと、うぅっとテーブルに突っ伏して泣き出した。基はぎょっとして、軽く身を引く。
「何だよ。飲まなきゃやってられないようなことを、僕が君にしたって?」
「したもん。するもん」
べそべそと泣きながら、詩鶴は握り締めていた缶を再び口元に運ぶ。だが中身は空だった…ふらりと立ち上がって、冷蔵庫に向かう。
「こら。もうやめとけよ」
基も立ち上がって後を追う。キッチンに入る前に、詩鶴の肩を引き寄せて止めた。やんわりと掴んだだけなのに、詩鶴は大きくよろけて基の胸に頭をぶつける。完全に酔っ払いの足取りだった。
「…あのな。飲むのはいいけど、もう少しペースを…」
「だから!誰の!せいだと!!」
至近距離で大声を出されて、基は咄嗟に耳を塞いだ。
「──だから何だよ。寝室のことか?そんな大騒ぎするほどの事じゃないだろ」
「…瀬尾さんには、そうなんだろうけど…」
詩鶴はぐずぐず鼻を鳴らしながら、涙を手の甲で拭う。
「……私は、私には
、大事だもん。だって、私は、光稀が──…」
詩鶴の口からその名前が出ると、基は不快げに眉を顰めた。
「元彼がなんだって?まだ忘れられないから、僕と隣で寝るのも嫌だって、そう言いたいのか?」
基はぐいっと詩鶴の両腕を掴んで、壁に背中を押し付ける。そのまま顔を間近に寄せて詰め寄った。
その時初めて詩鶴は気付く。基は、下半身こそスウェットを履いているものの、上は肩にタオルを掛けただけの裸だった。そのタオルも、動いた拍子にはらりと床に落ちる。華奢に見えるが案外バランス良く筋肉がついている体が、露わになった。あれ。これなら体育会系の頑丈そうな男の人が好きな詩鶴でも──いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。
「な、なんで服着てないの」
「風呂上がりだからだ。下はちゃんと履いてる」
詩鶴の鼻先を、基から香り立つ石鹸の匂いが掠める。ついさっき、詩鶴が使ったのと同じボディソープの香り。二人が同じ香りを纏っている、その生々しさに、詩鶴はかっと赤くなった。
「だからっ…駄目なの!服着てないのも距離がいのも駄目!私…私は、光稀が」
「うるさいな。忘れちまえよ。僕が手伝ってやるから」
「てっ……?」
基は片手を詩鶴の腰の辺りに移し替えると、するりと上衣の裾から手を差し込んで、くびれたラインを指先でなぞった。詩鶴は「ひゃっ」と甲高い声をあげ、ぶんぶんと首を横に振る。
「なっ…何もしないって言った癖に!嘘つき!詐欺師!待つ待つ詐欺師!!」
「何もしないとは言ってない。言っただろ、待つって言ったのは子作りだ。極論セックスしようとも、避妊していればそれは子作りじゃない」
「極論過ぎるわ、この詐欺師───!!」
耳元を、低い声と少し濡れた髪がくすぐる。
顎をぐっと持ち上げられ、露わになった首筋をかぷりと甘く噛まれる。触れた唇は柔らかく熱く、皮膚を強く吸われた瞬間、詩鶴は思わずぎゅっと目を閉じた。
逃げたくとも、基の手はがっちり詩鶴を掴んでいて、じたばた暴れても緩みもしない。
「綺麗に跡がついたな」
基は唇を少し離して耳元で囁き、さっきまで吸っていた箇所をぺろりと舌で舐める。ぞわ、と肌が粟立つのを感じた。けどそれは嫌悪感とは違う。気持ち悪い、とかじゃなくて、むしろ──
「──やっ」
基の手のひらは、服の中から下着の中へと潜り込んでいく。胸の隆起をなめらかに包んで撫でて、唇は鎖骨の上を甘く這う。
風呂から上がって寝着に着替えたものの、どうしても外せなかった下着。こんなふうに暴かれるなら、着けていた意味はなかったかもしれない。
「案外体から攻めた方が、簡単に忘れられるかもしれないよ。試してみるか?」
基の親指が詩鶴の唇をゆっくりなぞる。
もう両腕は解放されていた。逃げようと思えば逃げられるのに、どうしてか少しも動けなかった。腹の下の方から滲み出す、ぐずついた違和感。焦燥感。それが詩鶴を縛り付けて、動けない。
基の手のひらが詩鶴の両目を覆い、視界が奪われる。それでもわかる。近付いてくる、彼の唇が詩鶴の口に──…
触れる直前、詩鶴は大声を上げた。
「違う!違うの!忘れられないからとかそういうんじゃない!ただ私は光稀が初めての彼氏で、いやっ一応その前も一人いたことはあるんだけど
告われてちょこっと付き合っただけで何もしてないし二ヶ月ももたなかったからカウントしたりしなかったりで、ずっと女子高で職場も女の人ばっかだし男の人なんて中学卒業以来ほとんど接した事なくて光稀とも手を繋ぐのもキスするまでもめちゃくちゃ時間かかってその先なんてもっとかかったし正直そんなしょっちゅうしてた訳でもないしほんとに全然慣れてないの!なのに瀬尾さんの方はなんか熟練感出してくるし意地悪だろうなって思ってたのになんか思ったより優しいしいちいち距離近いし家事ポンコツでちょっとかわいいし私今日ほんとは一日ずっとドキドキしてばっかで普通の顔するのでいっぱいいっぱいだったのにその上一緒のベッドで寝ようとか言うから夫婦だから当たり前ってわかってるけどでもこんなんで並んですやすや寝れないよ、絶対、ほんとに無理だもんーーー!!!」
至近距離で大声を張られて、基は咄嗟に体を離して両手で耳を塞ぐ。
こだまする詩鶴の語尾の余韻が消えてようやく、基は耳から手を離した。
「……君の声は、よく通るな」
「仕事柄。腹から声出さないと子供たちには響かない」
「なるほど。肺活量も大したもんだ」
「子供の頃スイミング通ってた」
詩鶴は勝ち誇ったように、ふんと鼻から息を吐く。降参すると言いたげに、両手を挙げた。
「…君の言い分はわかった。理解出来ない部分もあるしよくそんなんで子作り目的の結婚なんてしようと思ったなと呆れる部分もあるが、主張の主旨は理解した。…けど、全てを甘んじて受け入れることは出来ないな。僕には僕の流儀ってものがある」
「な…なぁに?」
小さく溜息を吐いてから、基は真っ直ぐに詩鶴を見つめてふと笑った。初めて会った時、(ずっとこういう顔してればいいのに)と思った、あの淡く柔らかい微笑み。
「詩鶴」
甘い声で静かに名を呼ばれ、詩鶴はびくっと小さく身震いした。
「おいで。ほら、何にもしないから」
両手を小さく広げた基に吸い寄せられるように、詩鶴は半ば無意識に、その言葉に従う。一歩近付いた詩鶴を、基はそっと、優しく抱き締めた。
「待つよ。君が僕としてもいいって思えるまで、ちゃんと待つ。でもこうして君に触れることや、隣で眠ることくらいは許してほしい。少しずつでも触れ合って、物理的な距離だけでも近付いて、君の中に残る彼の記憶を、僕が塗り替えていきたい」
基の繊細な指が、詩鶴の髪を
梳いて撫でる。
こんなに優しく、こんなに大切そうに、誰かに触れられるのは久しぶりだった。
抱き締められた時の腕の感触は、やっぱり記憶と全然違う。今はまだ、他のひとの面影が、ほんの少しだけ頭の隅を
過ってしまうけど。でも。
余計なことを何も考えず、ただ素直にこの体温に甘えられる日が来るとしたら──それはどんなに──どんなに、幸せなことだろう。
「……うん。わかった」
基の腕の中は、思っていたよりずっと安心出来たし居心地が良かった。
これならすぐ隣にいても、ちゃんと安眠できるかもしれな──…
「よし。言ったな」
「──え?」
突然いつもの淡々とした声音が頭の上から聞こえてきて、詩鶴はぱっと顔を上げる。
基は詩鶴を見下ろし、悪人然とした笑みを浮かべた。
「君は今、挿入以外のあらゆる接触行為を僕に許可した。これは覆せないからよくよく覚えとけよ」
「……え…うそ……」
「嘘なわけあるか。挿入禁止の誓いだぞ、充分過ぎるほどの譲歩だろ。君がその気になるまでどれだけかかるかわからないってのに、我ながら寛容過ぎて呆れるよ。でもまぁ──忍の一字は衆妙の門って言うからな
。粛々と待つとしよう」
基はあっさりと詩鶴を開放し、冷蔵庫からビールを取り出してプルタブを引いた。
「───さっ…」
「さ?」
「詐欺師……」
「君はもう少し語彙力を鍛えた方がいいな」
摂取し過ぎたアルコールのせいか、はたまた
寧日なき前途が確定したことへの絶望ゆえか。
詩鶴はへなへなと膝を折り、その場にうずくまって頭を抱えた。