表示設定
表示設定
目次 目次




2

ー/ー



 診療時間終了間際に、近所の動物病院にギリギリで駆け込んだ。
 まだ若い男性獣医師は、診察台に寝かせられた子猫を慎重な手付きで全身くまなく診ている。
 「怪我はそこまで深くありません。多分、猫同士の喧嘩で負ったものでしょう」
 獣医師の言葉に、詩鶴はほっと胸を撫で下ろす。だが、獣医師の眉間には皺が寄ったままだ。
 「ただ、だいぶ衰弱しています。かなり痩せていますし、成育環境が良くなかったんでしょう。何らかの理由で母猫と離れ離れになった野良の子猫には、よくある事ですが…」
 まずは点滴で栄養を入れて体力を回復させ、感染症などの検査も必要だ。とりあえず一晩入院させて様子を見たいと、獣医師は検査内容と費用の説明をする。詩鶴は動物を飼った事がないので、獣医師の勧めのまま、ひたすら頷いて処置を頼んだ。
 「それと重要なのは退院後です。検査結果次第ですが、よほど問題がない限りは明日連れ帰って頂くことになりますが、迎え入れる環境はありますか?」
 「あ、そっか…そうですよね」
 大した怪我ではない、健康上の問題がないからと、弱った子猫を再び野に帰す訳にはいかない。自分で飼う訳ではなくとも、里親を見つけるまでは自宅で保護するしかないのだ。しかし、自宅と言ってもあそこは基の家だ。

 ひとまず待合室に戻り、基と並んで座る。詩鶴はちらりと基の横顔を盗み見た。涼しげな顔。とても動物を可愛い可愛いと愛でる人には見えない。実際先程からずっと、幼気(いたいけ)な子猫に相好を崩すでもなく、黙って獣医師の話を聞いていた。
 基は在宅仕事だ。家の中に動物がいると、集中出来なくて困るかもしれない。今のところ問題なさそうには見えるけれど、もしかしたら猫アレルギーがあるかもしれないし…。

 「詩鶴」

 詩鶴が頭の中でぐるぐる考えていると、基は不意に詩鶴を見下ろし、淡々と呼びかけた。
 「は、はい」
 詩鶴は思わず姿勢を正して、次の言葉を待つ。
 「僕はこの件に関して、おそらくほとんど役に立たない」
 「え?」
 「だから君が決めてくれ。選択肢は二つだ。然るべき保護団体や里親を見つけるまで、費用を支払い病院で預かってもらう。もしくは連れ帰って自宅で預かる。この場合、世話をするのは主に君だ。僕も協力したい気持ちはあるが、動物の世話は経験がない。正直なところ、家事と同じで無能に等しいと思う」
 「え、えっと…」
 唐突に選択権を丸投げされて、詩鶴は戸惑った。
 けれど、要約すれば。
 「…うちに連れて帰っても、いいってこと?」
 「いいよ。君がそうしたいなら」
 基はすんなりと頷いた。あまりにあっさり許可が出たので、詩鶴は戸惑う。
 「その、迷惑じゃない?仕事の妨げに、なったりとか…私が勝手に見つけてきたのに、日中何かあっても、任せることになっちゃうし…」
 基は薄く笑って首を振った。
 「うちの庭を訪れた賓客だろ。部屋を間貸しするくらいのもてなしはしないとな」
 基はそう言って詩鶴の頬を指の背で軽く撫でた。夜風に晒されてここまで来たためだろうか、基の手はしんと冷たかった。それなのに詩鶴の頬には、じわりと熱が滲み出す。

 ひんやりと冷たそうなこの肌の下に、この人はどんなものを隠しているんだろう。触れた指の熱を閉じ込めるように、詩鶴はそっと、左の頬を手のひらで覆った。
 
♢♢♢

 結局その子猫が退院出来たのは、それから五日後の事だった。
 検査の結果ウイルス感染が発覚し、薬の投与や栄養状態の管理が必要だった為だ。
 まだ体力もない、栄養状態も良くない幼猫だ。無事に乗り切ってくれるか、気が気でない日々を過ごしたけれど、何とか回復して退院出来る状態になった。

 土曜日の午前中に引き取りに行った時、ボロボロだった子猫は随分と身綺麗になっていた。
 怪我の方は順調に塞がっているからさほど心配ない。だがウイルス感染に関しては特効薬はないので、体力を維持して自己治癒力に期待するしかない。
 しばらくの間こまめに通院し、体調管理を徹底する必要があった。
 
 「でもとりあえず、自分でごはんが食べられるようになって良かった」

 夢中で流動食を舐める子猫を、詩鶴は先程からずっと、床に座り込んで眺めている。ただ食事をしているだけなのに、見ていて全く飽きない。可愛い。

 獣医師の話では、子猫の月齢は推定三ヶ月。この時期の子猫には、一日に四、五回に分けて餌をあげるのが基本だそうだ。だがこの子は胃腸の機能が弱っているため、さらに回数を増やして少量ずつ与えるのが望ましいとの事だった。
 そうなると、平日詩鶴が仕事に出ている間の食事の世話を基に頼まざるを得ない。そこまで頼っていいものかと詩鶴は躊躇(ためら)ったが、基はまたしてもあっさりと「別にいいよ」と言った。
 「皿に出して所定の位置に置くだけだろ。さすがに僕でも出来る」
 他にどうしようもないし、基の厚意に甘えることにした。ありがたいが、詩鶴の罪悪感は募るばかりだ。

 「…ごめんね。結局基さんばっかりに負担かけちゃって」 

 申し訳無さそうに眉を下げた詩鶴を見て、基は口の端を上げて笑う。
 「君が謝る必要あるか?受け入れるかどうかは僕の意思だ。無理強いされた訳じゃない。迷惑だの負担だの、君が気に病む必要はない」
 「……うん。でも…」
 それでもしょんぼり俯いている詩鶴を見て、基は肩を竦めた。詩鶴の隣にしゃがみ込むと、少し意地悪そうに目を細めて、顔を覗き込んでくる。
 「なぁ詩鶴。どうしても気になるって言うんなら、礼をしてくれてもいいんだぞ?」
 「な、何?お礼って」
 怖気付く詩鶴をフンと鼻で笑って、ぐっと顔を寄せ、距離を詰めてくる。
 おもむろに詩鶴の背中に手を回すと、服の上からパチンと下着の金具を外した。

 「わかるだろ?」
 「──ばっ…」

 詩鶴は真っ赤になって、基の顔面を掌で鷲掴みにして力尽くで押し返す。

 「馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの何してくれてんの⁈」

 外されたブラを後ろ手に押さえながら、詩鶴は悲鳴をあげて後退(あとずさ)る。
 「手加減ってものを知らないのか君は。鼻が痛い」
 ぶつぶつ言いながら、基は力一杯の抵抗を受けた鼻先を覆っている。
「この…セクハラ夫!もういちいちごめんねごめんね言わないからね!」
 動物病院の診療時間をすぐに調べてくれたり、徒歩でも充分近いのに車をだしてくれたり、子猫の世話に必要な道具を速やかに調べてネット通販で揃えてくれたり。
 思ったよりずっと優しくて頼り甲斐のある人だなんて、ちらっとでも思った自分が馬鹿だった。見直して損した。油断するんじゃなかった。
 詩鶴が涙目になっていると、食事を終えた子猫がよたよたと立ち上がった。覚束(おぼつか)ない足取りで基の傍に近寄ると、前脚でぽすっと基の脛を叩く。
 ん?と基と詩鶴が見下ろす中、子猫はもう一度、ぽすんと基の脚を叩く。
 
 「…もしかして、僕が詩鶴をいじめてると思ったのか?庇ってるつもりか」
 
 必死で顎を上げ抗議するように唸る子猫を、二人はぽかんとして見つめる。
 「うそ…かわいい…」
 ただでさえ涙目だった詩鶴の目は、さらに潤んで今度こそ涙がこぼれそうだった。
 「そういえば雄だったな、こいつは」
 今度は足を引っ掻き始めた子猫を、基がひょいと抱き上げる。顔が近付くと、子猫は基の鼻をぽすっと叩いた。
 「かわいい…無理…」
 服の中で乱れた下着もそのままに、詩鶴はその場に(うずくま)って立ち上がれなくなる。
 「チビで弱ってる癖に、なかなか漢気(おとこぎ)があるな」

 基はふっと笑って、子猫の小さな額を讃えるように撫でた。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 3


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 診療時間終了間際に、近所の動物病院にギリギリで駆け込んだ。
 まだ若い男性獣医師は、診察台に寝かせられた子猫を慎重な手付きで全身くまなく診ている。
 「怪我はそこまで深くありません。多分、猫同士の喧嘩で負ったものでしょう」
 獣医師の言葉に、詩鶴はほっと胸を撫で下ろす。だが、獣医師の眉間には皺が寄ったままだ。
 「ただ、だいぶ衰弱しています。かなり痩せていますし、成育環境が良くなかったんでしょう。何らかの理由で母猫と離れ離れになった野良の子猫には、よくある事ですが…」
 まずは点滴で栄養を入れて体力を回復させ、感染症などの検査も必要だ。とりあえず一晩入院させて様子を見たいと、獣医師は検査内容と費用の説明をする。詩鶴は動物を飼った事がないので、獣医師の勧めのまま、ひたすら頷いて処置を頼んだ。
 「それと重要なのは退院後です。検査結果次第ですが、よほど問題がない限りは明日連れ帰って頂くことになりますが、迎え入れる環境はありますか?」
 「あ、そっか…そうですよね」
 大した怪我ではない、健康上の問題がないからと、弱った子猫を再び野に帰す訳にはいかない。自分で飼う訳ではなくとも、里親を見つけるまでは自宅で保護するしかないのだ。しかし、自宅と言ってもあそこは基の家だ。
 ひとまず待合室に戻り、基と並んで座る。詩鶴はちらりと基の横顔を盗み見た。涼しげな顔。とても動物を可愛い可愛いと愛でる人には見えない。実際先程からずっと、幼気《いたいけ》な子猫に相好を崩すでもなく、黙って獣医師の話を聞いていた。
 基は在宅仕事だ。家の中に動物がいると、集中出来なくて困るかもしれない。今のところ問題なさそうには見えるけれど、もしかしたら猫アレルギーがあるかもしれないし…。
 「詩鶴」
 詩鶴が頭の中でぐるぐる考えていると、基は不意に詩鶴を見下ろし、淡々と呼びかけた。
 「は、はい」
 詩鶴は思わず姿勢を正して、次の言葉を待つ。
 「僕はこの件に関して、おそらくほとんど役に立たない」
 「え?」
 「だから君が決めてくれ。選択肢は二つだ。然るべき保護団体や里親を見つけるまで、費用を支払い病院で預かってもらう。もしくは連れ帰って自宅で預かる。この場合、世話をするのは主に君だ。僕も協力したい気持ちはあるが、動物の世話は経験がない。正直なところ、家事と同じで無能に等しいと思う」
 「え、えっと…」
 唐突に選択権を丸投げされて、詩鶴は戸惑った。
 けれど、要約すれば。
 「…うちに連れて帰っても、いいってこと?」
 「いいよ。君がそうしたいなら」
 基はすんなりと頷いた。あまりにあっさり許可が出たので、詩鶴は戸惑う。
 「その、迷惑じゃない?仕事の妨げに、なったりとか…私が勝手に見つけてきたのに、日中何かあっても、任せることになっちゃうし…」
 基は薄く笑って首を振った。
 「うちの庭を訪れた賓客だろ。部屋を間貸しするくらいのもてなしはしないとな」
 基はそう言って詩鶴の頬を指の背で軽く撫でた。夜風に晒されてここまで来たためだろうか、基の手はしんと冷たかった。それなのに詩鶴の頬には、じわりと熱が滲み出す。
 ひんやりと冷たそうなこの肌の下に、この人はどんなものを隠しているんだろう。触れた指の熱を閉じ込めるように、詩鶴はそっと、左の頬を手のひらで覆った。
♢♢♢
 結局その子猫が退院出来たのは、それから五日後の事だった。
 検査の結果ウイルス感染が発覚し、薬の投与や栄養状態の管理が必要だった為だ。
 まだ体力もない、栄養状態も良くない幼猫だ。無事に乗り切ってくれるか、気が気でない日々を過ごしたけれど、何とか回復して退院出来る状態になった。
 土曜日の午前中に引き取りに行った時、ボロボロだった子猫は随分と身綺麗になっていた。
 怪我の方は順調に塞がっているからさほど心配ない。だがウイルス感染に関しては特効薬はないので、体力を維持して自己治癒力に期待するしかない。
 しばらくの間こまめに通院し、体調管理を徹底する必要があった。
 「でもとりあえず、自分でごはんが食べられるようになって良かった」
 夢中で流動食を舐める子猫を、詩鶴は先程からずっと、床に座り込んで眺めている。ただ食事をしているだけなのに、見ていて全く飽きない。可愛い。
 獣医師の話では、子猫の月齢は推定三ヶ月。この時期の子猫には、一日に四、五回に分けて餌をあげるのが基本だそうだ。だがこの子は胃腸の機能が弱っているため、さらに回数を増やして少量ずつ与えるのが望ましいとの事だった。
 そうなると、平日詩鶴が仕事に出ている間の食事の世話を基に頼まざるを得ない。そこまで頼っていいものかと詩鶴は躊躇《ためら》ったが、基はまたしてもあっさりと「別にいいよ」と言った。
 「皿に出して所定の位置に置くだけだろ。さすがに僕でも出来る」
 他にどうしようもないし、基の厚意に甘えることにした。ありがたいが、詩鶴の罪悪感は募るばかりだ。
 「…ごめんね。結局基さんばっかりに負担かけちゃって」 
 申し訳無さそうに眉を下げた詩鶴を見て、基は口の端を上げて笑う。
 「君が謝る必要あるか?受け入れるかどうかは僕の意思だ。無理強いされた訳じゃない。迷惑だの負担だの、君が気に病む必要はない」
 「……うん。でも…」
 それでもしょんぼり俯いている詩鶴を見て、基は肩を竦めた。詩鶴の隣にしゃがみ込むと、少し意地悪そうに目を細めて、顔を覗き込んでくる。
 「なぁ詩鶴。どうしても気になるって言うんなら、礼をしてくれてもいいんだぞ?」
 「な、何?お礼って」
 怖気付く詩鶴をフンと鼻で笑って、ぐっと顔を寄せ、距離を詰めてくる。
 おもむろに詩鶴の背中に手を回すと、服の上からパチンと下着の金具を外した。
 「わかるだろ?」
 「──ばっ…」
 詩鶴は真っ赤になって、基の顔面を掌で鷲掴みにして力尽くで押し返す。
 「馬鹿じゃないの馬鹿じゃないの何してくれてんの⁈」
 外されたブラを後ろ手に押さえながら、詩鶴は悲鳴をあげて後退《あとずさ》る。
 「手加減ってものを知らないのか君は。鼻が痛い」
 ぶつぶつ言いながら、基は力一杯の抵抗を受けた鼻先を覆っている。
「この…セクハラ夫!もういちいちごめんねごめんね言わないからね!」
 動物病院の診療時間をすぐに調べてくれたり、徒歩でも充分近いのに車をだしてくれたり、子猫の世話に必要な道具を速やかに調べてネット通販で揃えてくれたり。
 思ったよりずっと優しくて頼り甲斐のある人だなんて、ちらっとでも思った自分が馬鹿だった。見直して損した。油断するんじゃなかった。
 詩鶴が涙目になっていると、食事を終えた子猫がよたよたと立ち上がった。覚束《おぼつか》ない足取りで基の傍に近寄ると、前脚でぽすっと基の脛を叩く。
 ん?と基と詩鶴が見下ろす中、子猫はもう一度、ぽすんと基の脚を叩く。
 「…もしかして、僕が詩鶴をいじめてると思ったのか?庇ってるつもりか」
 必死で顎を上げ抗議するように唸る子猫を、二人はぽかんとして見つめる。
 「うそ…かわいい…」
 ただでさえ涙目だった詩鶴の目は、さらに潤んで今度こそ涙がこぼれそうだった。
 「そういえば雄だったな、こいつは」
 今度は足を引っ掻き始めた子猫を、基がひょいと抱き上げる。顔が近付くと、子猫は基の鼻をぽすっと叩いた。
 「かわいい…無理…」
 服の中で乱れた下着もそのままに、詩鶴はその場に蹲《うずくま》って立ち上がれなくなる。
 「チビで弱ってる癖に、なかなか漢気《おとこぎ》があるな」
 基はふっと笑って、子猫の小さな額を讃えるように撫でた。