オフィスビルの裏手にある非常階段は、私、佐藤美月にとって、息を整えるための場所だった。
仕事に追われ、言葉にできない気持ちが胸に溜まると、私は決まってそこへ行く。
今日も給湯室から、ひそひそとした声が聞こえてきた。
「佐藤さんって、何考えてるか分からないよね」
「真面目すぎて、ちょっと近寄りがたい」
責められている、と断定するほどの言葉じゃない。けれど、一度耳に入ると、心の奥に残り続ける。
誤解をとくほど饒舌でもなく、笑って受け流すほど器用でもない私は、うつむいたまま、冷めた缶コーヒーを両手で包み込んだ。
そんなある日の帰り道。
路地裏のゴミ捨て場の脇から、かすかな鳴き声が聞こえた。
雨に濡れた段ボールの中で、小さな茶トラの仔猫が震えていた。
泥に汚れた体とは裏腹に、琥珀色の瞳だけが、まっすぐこちらを見ている。
「……放っておけないよね」
気づけば私は、自分のコートでその小さな体を包み、夢中で動物病院へ走っていた。
翌日、寝不足のまま出社した。
カバンの中には、猫の飼育本と、慌てて買い揃えたケア用品のレシート。
少しだけ重くなったそれが、不思議と心強かった。
昼休み、いつものように一人でお弁当を食べていると、背後から声をかけられた。
「佐藤さん、それ……猫の写真?」
振り返ると、同僚の木村さんが立っていた。
これまで、私をからかう輪の中心にいた人だ。
彼女の視線は、机に伏せたスマホに向いていた。画面には、お風呂上がりでふわふわになった仔猫が、私の指を甘噛みしている。
「あ、はい。昨日、道で見つけて……」
「え、可愛い。茶トラだ。うちも実家で飼ってるんだけど、この時期の子猫って大変じゃない? ご飯とか、どうしてるの?」
その声は、拍子抜けするほど柔らかかった。
それをきっかけに、隣の席の先輩も「実は猫派で」と会話に加わり、いつの間にか、私のデスクの周りに小さな輪ができていた。
私は「無愛想」なのではなく、ただ、どう距離を取ればいいのか迷っていただけだったこと。
彼女たちは、「意地悪」だったわけではなく、知らない相手を想像で語っていただけだったこと。
その両方に、少し遅れて気づいた。
一匹の仔猫が運んできたのは、奇跡というより、穏やかな変化だった。
相変わらず仕事は忙しく、苦手な業務も減らない。
それでも今の私には、帰りを待つ小さな家族がいて、職場で交わす「おはよう」の温度が、ほんの少しだけ高い。
あの琥珀色の瞳は、私に教えてくれた。
人との間に線を引く代わりに、柔らかな毛並みでそっと撫でてみること。
境界線は、消そうとしなくても、いつの間にか薄くなるのだと。