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24話 コナトゥスのための挽歌―10

ー/ー



 劇をするために僕たちは施設にやって来ていた。そう、今日が本番の日。綾音と小雪、それと岡崎には役をしてもらう。麗華とさくらには役がない。麗華も役がないと聞いて、「ピアノが弾けないからよね」と零していたが、役の関係で出来ないだけだと教えた。納得こそしてなかったけど、他にやることはあるから来て欲しいと伝えると彼女は渋々承諾してくれた。まあ、ここには一悶着があったのだけど。

「芳先輩、私かなり緊張してきました」
「もっと大きな舞台で多くの人に見てもらってるのに?」
「ええ、そうですよ。それでも私は緊張してしまうんですよ。しかも芳先輩の劇ともなれば」
「俺はそんなにだな。まあ与えられている役割が大したものじゃないからだろうけど」
「とにかく、一井さんと結野さんは難しい役だろうから頑張ってね」

「ええ、分かりました」と綾音は返事をするけど、小雪は固まったままだ。ブツブツと何か話してるがよく聞き取れない。劇の中でも小雪は大切な、大事な役だから緊張してしまうのも無理はない。でも、僕たちなんて所詮は役者の稽古を積んでいない素人なんだ。張り切って、自分たちの素を見せるように、楽しまなくちゃならない。

「子どもたちも随分楽しそうにしていますね」
「うん。やっぱり楽しめるものにしたいね」
「そうですね」

 それからはあっという間に開演に。心臓は前の幼稚園の時と比べて遥かに大きく鳴っていた。そればかりじゃない、手汗も拭っても拭ってもしていたし、落ち着かなかった。楽しく会話していた時は全然緊張していなかったのに、直前になればどうしても緊張してしまう。だから深く息を吸って、息を吐く。何度か繰り返している内に段々落ち着いてきた。
 さくらは遠くから覗き見るようにしていいと許可を貰ったし、その付き添い人として麗華を頼んだ。
 もう不安な要素はない。ただ二人に、いやこの場にいる人達に少しだけ前を向いて歩いていけるようなものにしたい。それだけなんだ。
 劇がそろそろ始まると伝える声が聞こえた。そろそろだ。駆け足じゃなく、ゆっくりと壇上に歩いていこう。そして台詞を紡いでいこう。
 
「これは英雄の物語、少し聞いて下さい」

 *

 すべてが終わった。きっと二人に届いただろう。そう思うことしか出来ない。それでも満足感はあったし、何より観客の反応がそう思わせた。内容なんて捻ったものじゃなく、ヒーローが挫けて、でも立ち上がる。それだけの内容なんだ。悪役なんかはいないし、劇的な展開なんかもない。平坦な内容。それでも、どうしてもヒーローは葛藤するんだ。悪役を倒した今自分には何が出来るのだろうかと自問してしまう。そこに答えなんてないし、誰も答えをくれない。
 あの日見た遊園地のアトラクションの劇。それが頭をよぎった。あのアトラクションは延々と繰り返される。そこに変化はない。でもあの劇を見た人たちには無限の変化があり、もう一度見たらまた異なった景色で見える。それだけなんだ。

「よかったわ」

 舞台袖に入った瞬間に麗華から声をかけられた。その隣にはさくらもいるが僕以外の人が沢山いて少し不安なまま、それでも直接会いに来てくれた。

「芳。あなたは知っているかしら? 感情は記述することは出来ない。それでも私たちが感情を知るのは周囲の人たちから実践を通して理解していくって。まさにそういう物語だったわ……それでも私は」
「そっか……」
「でもそれだけじゃないわ。あなたの言うようにもう少しだけ前を向いて行こうとは思えたわ」
「ありがとう、麗華。それとさくら」

 麗華の後ろに隠れるようにしていたさくらにも声をかける。舞台に立っていたけど二人の様子までは分からなかったけど、うまく距離を掴めたらしい。あの公園で会った日からもずっと歩んでいる。

「おにーちゃんの劇よかったよ。あと、ありがとう。なんだかいつもよりもずっと元気になれた」
「さくら、今日はありがとう」

「気にしないで」とだけ言い去っていく。少し無理をしていたんだろう、駆けるような速度だった。止めることはせずにそのまま送り出してあげよう。

「これから俺達は掃除で一井がお菓子を作るんだよな」
「そう、だから早速で悪いんだけど、麗華、手伝ってくれるかな?」
「仕方ないわね。いいわよ」
 
 僕と岡崎は重くて運べないものを運んで、麗華と綾音は細かい箇所の掃除をすることになった。子どもたちも手伝ってくれて、とても楽しく、愉快に掃除が出来た。いくらか時間が過ぎた後で一井さんと施設の人が焼いているクッキーの匂いがした。子どもたちは待ち切れないと言わんばかりに張り切って掃除をしていた。やっぱりボランティアをするのは僕やその場所にいる人にとってとてもいい影響を与えているだと毎回毎回確信できる。
 そして掃除を済ませて作ったお菓子を食べる。僕たちは断ったけど、どうしても食べて欲しいとお願いされてしまった。
 どうしてか、この場には麗華がいなかった。だから一言断って施設の中を歩いてみる。手作りの装飾がいくつも飾ってあり、優しさに溢れる廊下を歩く。
 すると遠くからピアノの断片的な音がうっすらと聴こえた。その音につられて進んでいくと目当ての人がそこにいた。

「じょうずだね! どこで習ったの?」
「習ってないよ、わたしがれんしゅうしてひいてみてるの」
「すごくキレイなおとだね」
「うん、これはわたしがすきなおとなの」

 女の子が弾いてそれを男の子が聴く構図。上手くはない、不安定な音の連鎖。だけど、あの二人を取り囲む空気は懐かしいものがあった。
 その光景を見てあの二人に見つからないように麗華は声を押し殺して泣いていた。僕はそっと手を麗華の肩にかけて僕たちはその様子をずっと見ていた。
 麗華が落ち着き始めた頃、ようやく理由を少しずつ話してくれた。

「芳、私忘れていたことがあるの。それは一番大切なことだったわ。どうして今までそれを忘れていたのかしら。そう思ってしまうわ」
「それってどんなことなの?」
「……それはね、私の音楽の始まりだったの。上手い、上手くない関係ないもっと基礎的なこと。誰かに聴いて、それを喜んでくれること。そんなことを忘れていたの。あなただったのよ。私が弾いて、いやずっと弾いていきたいと思っていた理由。その人を喜ばせたいから、それで充分だったの」
「麗華はもう理由は見つかった?」
「ええ、それはもう。これから歩んでいく方向が切り開けたわ」
「そっか」
「少し胸を貸してくれるかしら」
「いいよ」

 僕の用意した劇は麗華にとっては感銘を与えるものにはならなかっただろう。やっぱり誰かに思いを届けるのは単純なことじゃない。僕は何も出来なかったけど、こうして麗華が歩んでいくと決めてくれたことが素直に嬉しかった。
 僕は英雄なんかにはなれない。だって手の届く人を直接救うことが出来なかった。それでも、きっかけを作ることは出来ただろう。英雄じゃないから、これは僕みたいな六ペンスだからすること。手の届かない月を目指すには誰かに託して、その人がまた別の人へ。それを繰り返していく他ないんだ。ただそれだけなんだ。
 僕のこれまでの苦しい過去は変わらないけれど、それが全く無駄ではないものだって思える。今の僕を構成する連鎖なんだから。それを肯定していかなくては、僕を許すことなんて、自分自身を許すことなんてかなわない。
 他者を理解することは出来ないと僕は一度考えたことがある。正しく言葉が伝わる保証なんてどこにもないのだから。だけど、これまでずっと営みは続いている。それが可能なのは言葉が、気持ちが伝わるからなんだ。不完全な言葉という概念はない、だって言葉自体が完全ではないから。彼女のような才能を持った人はそれを知り、超えて僕たちのような六ペンスに伝える。それでも僕たちはそのツラさや悲しみを理解は出来ない。どこまでも2つの距離は遠く縮まることはないけど、気持ちが伝わるならそれは理解したことにはならないだろうか。
 どれだけ不確実なものであっても、目の粗い表現だったとしても意味不明にはならない。だからこそ、僕はそういった天才に焦がれ、悔やんで、理解したいと願ってしまう。
 上手く言葉に出来なくても、たとえ失敗してしまっても何度でも諦めずに繰り返していく。何もない僕だから出来ることなんだ。
 ツルツルとした地面だったけど、ようやくザラザラとした大地に足を付くことが出来た。

 3章 Ethica, ordine geometrico demonstrata


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「芳先輩、私かなり緊張してきました」
「もっと大きな舞台で多くの人に見てもらってるのに?」
「ええ、そうですよ。それでも私は緊張してしまうんですよ。しかも芳先輩の劇ともなれば」
「俺はそんなにだな。まあ与えられている役割が大したものじゃないからだろうけど」
「とにかく、一井さんと結野さんは難しい役だろうから頑張ってね」
「ええ、分かりました」と綾音は返事をするけど、小雪は固まったままだ。ブツブツと何か話してるがよく聞き取れない。劇の中でも小雪は大切な、大事な役だから緊張してしまうのも無理はない。でも、僕たちなんて所詮は役者の稽古を積んでいない素人なんだ。張り切って、自分たちの素を見せるように、楽しまなくちゃならない。
「子どもたちも随分楽しそうにしていますね」
「うん。やっぱり楽しめるものにしたいね」
「そうですね」
 それからはあっという間に開演に。心臓は前の幼稚園の時と比べて遥かに大きく鳴っていた。そればかりじゃない、手汗も拭っても拭ってもしていたし、落ち着かなかった。楽しく会話していた時は全然緊張していなかったのに、直前になればどうしても緊張してしまう。だから深く息を吸って、息を吐く。何度か繰り返している内に段々落ち着いてきた。
 さくらは遠くから覗き見るようにしていいと許可を貰ったし、その付き添い人として麗華を頼んだ。
 もう不安な要素はない。ただ二人に、いやこの場にいる人達に少しだけ前を向いて歩いていけるようなものにしたい。それだけなんだ。
 劇がそろそろ始まると伝える声が聞こえた。そろそろだ。駆け足じゃなく、ゆっくりと壇上に歩いていこう。そして台詞を紡いでいこう。
「これは英雄の物語、少し聞いて下さい」
 *
 すべてが終わった。きっと二人に届いただろう。そう思うことしか出来ない。それでも満足感はあったし、何より観客の反応がそう思わせた。内容なんて捻ったものじゃなく、ヒーローが挫けて、でも立ち上がる。それだけの内容なんだ。悪役なんかはいないし、劇的な展開なんかもない。平坦な内容。それでも、どうしてもヒーローは葛藤するんだ。悪役を倒した今自分には何が出来るのだろうかと自問してしまう。そこに答えなんてないし、誰も答えをくれない。
 あの日見た遊園地のアトラクションの劇。それが頭をよぎった。あのアトラクションは延々と繰り返される。そこに変化はない。でもあの劇を見た人たちには無限の変化があり、もう一度見たらまた異なった景色で見える。それだけなんだ。
「よかったわ」
 舞台袖に入った瞬間に麗華から声をかけられた。その隣にはさくらもいるが僕以外の人が沢山いて少し不安なまま、それでも直接会いに来てくれた。
「芳。あなたは知っているかしら? 感情は記述することは出来ない。それでも私たちが感情を知るのは周囲の人たちから実践を通して理解していくって。まさにそういう物語だったわ……それでも私は」
「そっか……」
「でもそれだけじゃないわ。あなたの言うようにもう少しだけ前を向いて行こうとは思えたわ」
「ありがとう、麗華。それとさくら」
 麗華の後ろに隠れるようにしていたさくらにも声をかける。舞台に立っていたけど二人の様子までは分からなかったけど、うまく距離を掴めたらしい。あの公園で会った日からもずっと歩んでいる。
「おにーちゃんの劇よかったよ。あと、ありがとう。なんだかいつもよりもずっと元気になれた」
「さくら、今日はありがとう」
「気にしないで」とだけ言い去っていく。少し無理をしていたんだろう、駆けるような速度だった。止めることはせずにそのまま送り出してあげよう。
「これから俺達は掃除で一井がお菓子を作るんだよな」
「そう、だから早速で悪いんだけど、麗華、手伝ってくれるかな?」
「仕方ないわね。いいわよ」
 僕と岡崎は重くて運べないものを運んで、麗華と綾音は細かい箇所の掃除をすることになった。子どもたちも手伝ってくれて、とても楽しく、愉快に掃除が出来た。いくらか時間が過ぎた後で一井さんと施設の人が焼いているクッキーの匂いがした。子どもたちは待ち切れないと言わんばかりに張り切って掃除をしていた。やっぱりボランティアをするのは僕やその場所にいる人にとってとてもいい影響を与えているだと毎回毎回確信できる。
 そして掃除を済ませて作ったお菓子を食べる。僕たちは断ったけど、どうしても食べて欲しいとお願いされてしまった。
 どうしてか、この場には麗華がいなかった。だから一言断って施設の中を歩いてみる。手作りの装飾がいくつも飾ってあり、優しさに溢れる廊下を歩く。
 すると遠くからピアノの断片的な音がうっすらと聴こえた。その音につられて進んでいくと目当ての人がそこにいた。
「じょうずだね! どこで習ったの?」
「習ってないよ、わたしがれんしゅうしてひいてみてるの」
「すごくキレイなおとだね」
「うん、これはわたしがすきなおとなの」
 女の子が弾いてそれを男の子が聴く構図。上手くはない、不安定な音の連鎖。だけど、あの二人を取り囲む空気は懐かしいものがあった。
 その光景を見てあの二人に見つからないように麗華は声を押し殺して泣いていた。僕はそっと手を麗華の肩にかけて僕たちはその様子をずっと見ていた。
 麗華が落ち着き始めた頃、ようやく理由を少しずつ話してくれた。
「芳、私忘れていたことがあるの。それは一番大切なことだったわ。どうして今までそれを忘れていたのかしら。そう思ってしまうわ」
「それってどんなことなの?」
「……それはね、私の音楽の始まりだったの。上手い、上手くない関係ないもっと基礎的なこと。誰かに聴いて、それを喜んでくれること。そんなことを忘れていたの。あなただったのよ。私が弾いて、いやずっと弾いていきたいと思っていた理由。その人を喜ばせたいから、それで充分だったの」
「麗華はもう理由は見つかった?」
「ええ、それはもう。これから歩んでいく方向が切り開けたわ」
「そっか」
「少し胸を貸してくれるかしら」
「いいよ」
 僕の用意した劇は麗華にとっては感銘を与えるものにはならなかっただろう。やっぱり誰かに思いを届けるのは単純なことじゃない。僕は何も出来なかったけど、こうして麗華が歩んでいくと決めてくれたことが素直に嬉しかった。
 僕は英雄なんかにはなれない。だって手の届く人を直接救うことが出来なかった。それでも、きっかけを作ることは出来ただろう。英雄じゃないから、これは僕みたいな六ペンスだからすること。手の届かない月を目指すには誰かに託して、その人がまた別の人へ。それを繰り返していく他ないんだ。ただそれだけなんだ。
 僕のこれまでの苦しい過去は変わらないけれど、それが全く無駄ではないものだって思える。今の僕を構成する連鎖なんだから。それを肯定していかなくては、僕を許すことなんて、自分自身を許すことなんてかなわない。
 他者を理解することは出来ないと僕は一度考えたことがある。正しく言葉が伝わる保証なんてどこにもないのだから。だけど、これまでずっと営みは続いている。それが可能なのは言葉が、気持ちが伝わるからなんだ。不完全な言葉という概念はない、だって言葉自体が完全ではないから。彼女のような才能を持った人はそれを知り、超えて僕たちのような六ペンスに伝える。それでも僕たちはそのツラさや悲しみを理解は出来ない。どこまでも2つの距離は遠く縮まることはないけど、気持ちが伝わるならそれは理解したことにはならないだろうか。
 どれだけ不確実なものであっても、目の粗い表現だったとしても意味不明にはならない。だからこそ、僕はそういった天才に焦がれ、悔やんで、理解したいと願ってしまう。
 上手く言葉に出来なくても、たとえ失敗してしまっても何度でも諦めずに繰り返していく。何もない僕だから出来ることなんだ。
 ツルツルとした地面だったけど、ようやくザラザラとした大地に足を付くことが出来た。
 3章 Ethica, ordine geometrico demonstrata