夕方に帰宅し買ってきた荷物を開けて収納している内に、すっかり夜になってしまった。
それでもなんとか目標は達成。キッチン用品を優先して片付けたので、料理するにも食事するにも困らない状態にはなっていた。
「まだ全部は片付け終わってないけど、そろそろ食事の支度しますね」
キッチンの入口で壁にもたれて作業を見守っていた基にそう伝えると「今から?」と驚かれた。
「えっ、遅いですか?まだ七時だからちょうどいいかと思ったんですけど…いつも何時に食べてます?」
詩鶴は仕事が五時に終わるから、帰って支度をして、大体七時過ぎに夕飯を食べるのが日常だった。残業があればもっと遅い事もあるし、一般的には決して遅い時間ではないと思うのだが。
「いや、時間の事じゃなくて、君も疲れてるんじゃないかと思ったんだよ。買い物行ったり片付けたり一日忙しくしてたろ。無理しないで外食だのデリバリーだので済ませればいいじゃないか」
なんだ、気遣ってくれているのか。
詩鶴は買ってきたパスタをストッカーに詰め替えながら、案外優しいと少し嬉しくなった。
「見切り品の食材もあるので、今日中に使っちゃいたいんです。三十分くらい待っててもらえますか?」
「そんなにすぐに出来るものか?」
「出来ますよ。簡単なもので済ませるので」
基はふぅん、と納得したようなしてないような顔で、小さく呟く。
「…何か手伝おうか」
「あ、ほんとですか?助かります。じゃあサラダの野菜を洗ってもらえますか」
詩鶴が冷蔵庫からレタスと水菜とトマトを取って手渡すと、無言で受け取ってレタスを包んだビニールを剥がす。
「洗ったものはここに入れてください」
詩鶴がザルをシンクに置くと、基は物珍しげな顔でそれを見つめ、無言で頷いた。無表情でレタスを一枚剥ぎ取り、流水で洗い始める。
「あ。手を拭くタオルがないですね。ちょっと取ってきます」
まだ開けていない自分の荷物の中に、洗濯済みのタオルがある筈だ。詩鶴はパタパタとキッチンを後にする。
タオルを手にキッチンに戻ってきて、詩鶴は目を丸くした。
ザルの中には、溢れんばかりのレタスの山。
「……一玉、全部洗ってくださったのですね」
「うん。次はこれを洗おうと思う」
基は神妙な顔でトマトを手に持ち、左手におろしたての亀の子タワシを持った。
「…えっ?ちょっ…待っ…」
詩鶴は慌てて基の腕を掴む。基は不思議そうに首を傾げた。
「これも洗うんだろう?」
「洗います。洗いますけど…できればタワシじゃなく素手で、こう、撫でるような優しい感じで、お願い出来ますか」
「ふぅん。わかった」
「あと、四つ全部洗わなくていいです。ひとつでいいです」
「そうか。わかった」
大人の風貌をしているから、油断した。
詩鶴の勤める幼稚園でも、年長クラスになると年に数回子供と一緒に料理をするイベントがある。刃物を扱うので一瞬たりとも目を離してはいけないし、使う量、方法、使用目的、逐一ゼロからの適切な指示が必要だ。例えば人参の皮はどこまで剥くのか、という辺りも含めて。
基もきっと、それと同じだ。
料理初心者は子供と同等に扱うべし。
そんな教訓を、詩鶴は今日、新たに得た。
食事の後片付けも基は手伝ってくれた。正確に言えば、手伝ってくれようとしていた。
だがスポンジに洗剤を垂らしグラスを手にしたところで、手を滑らせて割ってしまう。おまけに割れた破片で指を切ってしまった。
「今日は私がやるので、瀬尾さんは仕事をするか休んでて下さい」
詩鶴がくるりと巻いた絆創膏には、薄く血の赤い色が滲んで透けて見えていた。
「悪いな」
怪我をしても騒ぐどころか無表情のまま血を垂れ流していた基だが、詩鶴に謝るこの時ばかりは眉を寄せてばつの悪そうな顔をしている。
「いえいえ。家事苦手なのに手伝おうとしてくれて、その気持ちがありがたいですよ」
詩鶴がふふっと笑うと、基も眉を寄せたまま苦笑する。
「君も毎日はやらなくていいよ。仕事もあるんだし。手料理がいいなら家事代行で調理サービスを頼めばいい」
「そうですね。手が回らなくなった時はお願いするかもです。でも家事も料理も、割と好きなんですよ。気持ちがすっきりするから」
「そうか。人の趣味嗜好はそれぞれだな」
「そう。人それぞれなんですよ」
簡単に作った簡単な料理を食べながら、基は「あんな短時間で作ったのに、うまいもんだな」と感心したようにたいらげた。大袈裟な褒め言葉はなくても、それだけで充分作った甲斐がある。
「あ、そうだ。瀬尾さん、私のお布団ってどこにありますか?」
ふと思い出して、聞き忘れていたことを聞く。
「布団?」
「はい。寝具はあるって言ってたでしょう?」
引越前に唯一確認していたのが、それだった。詩鶴が使っていたシングルベッドはもう古くて傷んでいたので、処分する予定だった。引越の日に合わせて新しいものをこちらに搬入させて貰ってもいいかと聞いた時、基は一通り揃っているから新しいものを用意する必要はないと言っていたのだ。
「あるよ。寝室にベッドがあるのを見せただろ」
「…えっ?」
その一言で、詩鶴の頭にさっと嫌な予感がよぎる。
「ありましたけど…一つだけでしたよね」
「そうだな。クイーンサイズだからひとつで充分だろう」
「……あの、もしかして」
一通り揃ってると言われた時、詩鶴は客用布団があるのかな、と、何の疑問もなく思っていた。
だが、この様子だと、もしかして。
「……一緒に寝るって事ですか?」
「そりゃそうだろ。夫婦なんだから」
平然と答える基を、瞬きもせずじっと見つめる。
見つめた後、気付いた。基は本気だ。
詩鶴の顔から、わかりやすくすーっと血の気が引いていった。
「…そっ…」
「そ?」
無理だ。
それは無理だ。
そう言いたかったが、喉元で声が詰まって、そこから先に出て来なかった。
「あぁでもごめん。今気付いたんだけど、君の分の枕が無い。今から買える店あるかな。五キロくらい離れたところに二十四時間営業の割と大きいスーパーがあるけど、もしかしたらそこに…」
「───あのっ」
詩鶴は声を振り絞って基の話を遮る。
「……あの。それはちょっと…」
「ん?枕にこだわりがあるのか?その辺で間に合わせに買うより、明日専門店にオーダーしに行くか?」
「いえその、枕は何でもいいんですけど、そうじゃなくて」
「枕を侮らない方がいい。値段が高けりゃいいとは言わないがちゃんと自分に合うものを」
「一緒に寝るのはまだ早いと思うんです」
枕について一家言あるのか知らないが、こちらはそれどころではない。真剣な基の語りに被せて、詩鶴は訴えた。
だが基は、何を言っているのかわからない、という顔で首を傾げる。
「早い?僕たちは歴とした夫婦だぞ。婚姻届も提出済みだ。これ以上何をどうしたら早くない状況になれるんだよ」
「仰る通りなんですけど、まだ知り合って間もないですし」
「一ヶ月以上経ってる。見合い結婚なんてそんなもんだろ」
「そうかもしれないですけど、でもまさか一緒に寝るなんて思ってなかったから。心の準備が出来てません」
「今からすればいい。まだ二、三時間は起きていられるだろ。大体うちには予備の布団もないしソファもない。ベッド以外に寝る場所はないぞ」
取り付く島もないとはこの事か。絶望的な気持ちになって、詩鶴はその場に座り込んで膝を抱えた。
「どうした?」
「……って、言ったくせに」
「何だって?聞こえなかった」
小さな声でぼそっと呟いた詩鶴の前に胡座で座り込んで、基は聞き返す。
「私の!心の準備が出来るまで待つって!言った癖に!」
詩鶴は噛み付くように、大きな声で基を責める。だが基は大声に少し眉をしかめただけで、相変わらず平然としていた。
「待つよ。待ってるだろう。ただ一つ付け加えると、待つって言ったのは子作りの話だ。並んで眠って子供が出来るか?」
それもまた、真理といえば真理だった。
「………詐欺だ」
「何でだよ」
基があまりに不本意そうな顔をするので、どうにも自分の方がひどい我儘を言っているような──基の方が真っ当で正しい主張をしているような、そんな気になってくる。
一体どっちがまともなんだろう?
悩んでいる内に、ふと別の言い訳が思い浮かんだ。これなら基も考え直してくれるかもと、恐る恐る口に出してみる。
「……あの、瀬尾さん。心の準備が出来てない以外にも、一緒に寝られない理由があって」
「何?」
「あのベッドはほら、瀬尾さんが前の奥さんと一緒に使ってたものでしょう?つまりほら、あのベッドでこう、他の女の人と色々なことしてた訳じゃないですか。そういう思い出のあるベッドを使うのは、ちょっと抵抗があると言いますか…」
詩鶴は悲しげに目を伏せて、そう訴える。
我ながら卑怯な言い方だと思うが、背に腹は変えられない。
伏せた瞼の裏でこっそり目玉を動かして、基の顔を盗み見る。彼は、変わらず平然としていた。
「それなら心配ない。前妻とは別居婚だったから、あのベッドを一緒に使った事は一度もないよ。サイズが大きいのは、単に僕が広々使いたかっただけだ」
「あ…そう…そうなんだ…」
一縷の望みも絶たれ、詩鶴はがっくりと肩を落とす。
「そんなに構えるなよ。ただ並列して寝るだけだ。慣れるまでは修学旅行だとでも思っとけばいい」
「修学旅行だって寝場所は男女別ですよ」
「なぁ、それより食後の休憩しようよ。君、さっきコーヒーメーカー買ってただろ?使ってみよう」
先に立ち上がった基に手を引かれ、詩鶴は諾々と重い腰を上げた。