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ー/ー



 家電、調理器具、カーテンや食器類。
 必要なものが多岐に渡っていたので、少し遠いが全てが一度に揃う、郊外の大型ショッピングモールまで足を伸ばすことにした。
 昼過ぎのショッピングモールは家族連れで溢れていて、走り回る子供達とそれを叱り追い回す大人で賑わっている。その活気ある風景の中、いつも通り涼やかで淡々とした基の(たたず)まいは、どことなく浮いていた。
 「瀬尾さんと大型ショッピングモールって、異常に似合わないですね」
 「僕もそう思うし、実際滅多に来ない。でもただでさえ土日に都内で細々(こまごま)と店を回るのは面倒だろう。駐車場が混んだり離れた場所にあったりするから余計な時間がかかる」
 詩鶴は当然公共機関で行くつもりだったが、かさばるものもあるだろうと基が車を出してくれた。
 「車の運転するのも、なんか意外でした」
 玄関に車があるのは気付いていたが、実際に運転しているイメージがまるで湧かなかったのだ。だが運転席に座った基は、慣れた様子で安定した走行をしていた。
 「そう?そんなにマニアじゃないけど、運転自体は結構好きだよ。それにあると便利なんだ。ちょっと地方に取材旅行に出る時も動きが取りやすいから」
 「地方に取材旅行…そっかぁ、確かに便利ですよね。近場で旅行とかも気軽に行けるし」
 「そうだな。君が新しい生活に慣れて少し落ち着いたら、二人でどこか行こうか」
 並んで歩く詩鶴を見下ろして、基はさらりとそう言う。
 「…そう、です、ね…」
 詩鶴は俯いて、もごもごと口の奥で煮え切らない返事をした。
 そう、さらりと言うけれど。
 詩鶴にとって、男の人と二人で旅行に出掛けるというのは結構な大イベントだ。よほど深い仲でないと行ってはいけない、という思い込みがある。
 しかし、二人はもう夫婦なのだ。男女間の関係の深さで言えばこれ以上ないというほど深い繋がりだから、一緒に旅行したって何もおかしくない。でも。でも、だ。まだ手も繋いでない相手と旅行なんて、行ってもいいものなの?いや、なくない?詩鶴は心の中で自問自答する。
 「君も免許は持ってたよな。今後乗る機会も出てくるだろうから、保険に入っておいた方がいいかもな」
 詩鶴の内心の葛藤を知ってか知らずか、基はいきなり現実的な話をしている。
 「あ…でも私、ペーパーなんですよ。もう何年も運転してないから自信ない…」
 慌てて言い掛けたところで、ぐいっと肩を引き寄せられた。不意打ちによろめいた詩鶴は、そのままぼすっと基の胸に鼻を埋めてしまう。
 「──あぁ、ごめん。あれにぶつかりそうだったから咄嗟に」
 基の指差す方に視線を動かすと、中学生くらいの集団が大きく腕を振り回してじゃれ合いながら、広がって歩いていた。
 基は肩に回した腕をほどくと、そのままするりと下ろして詩鶴の手を握り、指を絡ませた。
 まだ手も繋いでないのに、と、思った矢先に。繋いでしまった。なんという手際の良さ。
 「ペーパーだって話だったな。もし怖ければ、ペーパードライバー講習とか行ってみたら?せっかく免許取ったのに使わないまま腐らすのも勿体ないだろ」
 「…そうですね。考えて、みます…」
 基は相変わらずの涼しげな横顔で、詩鶴の手をしっかり掴んだまま歩き始める。
 詩鶴は赤面しそうになるのを、必死で堪えていた。


 二時間ほどで、大きなカートが山盛りになるほど大量の買い物をした。
 「まだ買うなら一度車に戻って積み込まないと、もうそんなに載らないぞ」
 基は呆れた顔でカートを押している。
 「あとは細かい食器類だけ…あの、私がカート押しましょうか?」
 「いいよ。押すだけっていっても結構重い」
 「重いから申し訳なくて言ってるんです。それに瀬尾さん、ショッピングカート似合わないですし」
 「自分でもそう思うけど、そういう問題じゃない。君にこんな重量を運ばせられない」
 力仕事など得意ではなさそうに見えるのに、案外紳士的だ。自分の鞄以外は手ぶらの詩鶴は、恐縮した気持ちになる。せめてもと思い、通路の少し先にあるフードコートを指し示して「少し休憩しませんか」と提案した。基もその提案はあっさり受け入れ、ドリンクを買って席についた。
 「瀬尾さん、フードコートも似合わないですね」
 「それ、だいぶ聞き飽きたな。何処なら似合うんだよ」
 カラフルな紙容器に入ったホットコーヒーを啜りながら、基は肩を竦める。すらっとした長い脚を持て余すように組んでいる基を眺めて、詩鶴は真剣に考え込んだ。
 「どこですかね。海とか山とかキャンプ場も似合わないし…日の当たらない場所…洞窟とか廃工場とか」
 「君は僕を何だと思ってるんだ」
 「図書館とか本屋さんはさすがに似合いますよね。あ、あと老舗の温泉旅館なんかも意外と似合うかも。浴衣着て…」
 「……ふぅん」
 基は面白がるように、意味深な笑みを浮かべた。
 詩鶴ははっとする。
 しまった。これじゃさっきの話を自分から蒸し返したようなものだ。
 テーブルの上に置いてあった詩鶴の手を、基は(すく)い上げるようにそっと持ち上げて、指を絡ませた。
 今度は隠しきれない。詩鶴はぱっと顔を赤く染めた。
 「行きたいの?」
 「───いやっ…」

 「───詩鶴ちゃん⁈」

 思わず否定しそうになった詩鶴の声を、背後から掛かった大きな声が打ち消す。
 唐突に名前を呼ばれたこととその声量に驚いて振り返った詩鶴の目に映ったのは、三十代そこそこの、少し小柄な男性。
 「……あっ……」
 詩鶴は咄嗟に、基の手を振り払ってしまう。
 「……田宮さん…」
 見覚えのある顔に、詩鶴は狼狽(うろた)えた。何度か顔を合わせた事があるその人──田宮は。
 光稀の──別れた恋人の、親しい友人だ。
 詩鶴も狼狽えたが、向こうの慌てぶりはそれ以上だった。
 「詩鶴ちゃん⁈何でこんなとこに⁈いやっ、それよりもその、その人は…?何か今手ぇ繋いでるように見えたけど、見間違いじゃないよね⁈まさかうわ…浮気、浮気とか…あっ!もしかして親戚かなんかか⁈いやそんな訳ないよな。親戚だって手は繋がないもんな⁈あぁもう、こんなとこあいつが見たらどうなるか…!」
 「…田宮さん。ちょっと落ち着いて下さい。あと声大き過ぎるので。抑えて」
 詩鶴は頭を抱え、深い溜息を吐いた。
 そう。こういう人なのだ。
 陽気で世話焼き、裏表のない善良な人なのだが、先走って空回りしがち、思った事がそのまま口に出る。おまけに声が非常に大きい。悪気がないのはわかっているし、事情を知らなければ焦るのもわかる。だが少しは空気を読んで欲しい。今の状況で顔を合わせるには、非常に面倒な相手だった。
 「えぇと、田宮さん。説明すると長くなるんですけど、この人は…」
 田宮に向けて言い掛けて、詩鶴はふと口を(つぐ)む。
 違うな、と思った。順番が、違う。
 先にフォローしなければいけないのは田宮さんじゃない。まずは基に説明しなければいけない。突然現れて大騒ぎする謎の男が誰で、何なのか。詩鶴にとっての優先順位は、田宮よりも夫である基の方だ。詩鶴は田宮に向けていた視線を、基の方に戻した。
 「…瀬尾さん。お騒がせしてごめんなさい。この方は田宮さんっていって…別れた彼の、お友達です」
 無表情で二人の遣り取りを眺めていた基は、あぁ、とすんなり納得して頷いた。詩鶴の説明に驚いたのはむしろ、田宮の方だ。
 「──別れた…?詩鶴ちゃん、光稀と別れたの?」
 詩鶴の要望に応えた訳ではなく、驚きのあまりだろう。ぐっと声量を落とした田宮は、眉根を寄せて戸惑った顔をする。
 「はい。光稀から聞いてないですか?数ヶ月前に別れました。一緒にいるこの人は、私の夫です。誰かに見られて困ることは、何もありません」
 「おっ…夫⁈えっ、詩鶴ちゃん、結婚したの⁈だって光稀と結婚するって言ってたよね⁈」
 「本当に声がでかいな」
 そう。本当に声が大きい。周囲の視線が痛かった。基は半ば感心したような顔で、ぼそっと呟く。そして淡々とした様子で、詩鶴に尋ねた。
 「説明が必要なら、僕は少し席を外そうか?」
 だが詩鶴は首を左右に振って、田宮を見上げる。この人は元恋人の友人。ただそれだけの関係だ。わざわざ基に気を遣わせてまで話すことなど何も無い。
 「別れると言ったのは光稀です。理由が、事情が聞きたいなら、彼から聞いてください。私が話したらどうしてもこっちが被害者みたいな言い方になっちゃう。田宮さんは彼の友達だから、そんな話を聞かせたくありません」
 詩鶴にとって田宮は、今日偶々会っただけの、本来なら二度と会うはずのない人間だ。どう思われようと、嫌われようと、別に構わない。
 でも光稀と田宮はそうじゃない。これからも友人関係は続いていくのだろうから、光稀にしたら、知られたくない部分もあるだろう。好きなように、都合のいいように話せばいい。
 そう思ったから、説明は全面的に光稀に押し付けた。
 「光稀が…?何で?わかんないな、あいつ、詩鶴ちゃんにベタ惚れだったのに」
 自分のことのように辛そうに顔を歪める田宮。決して悪気はないのだろうが──余計な事を言わないで欲しい。別れた男がベタ惚れだったなんて話、現在の夫に聞かれたらこっちの方が気まずいではないか。
 詩鶴はちらりと基を盗み見たが、相変わらず感情の読めない涼しげな顔をしているだけだ。
 「…田宮さんが思うほどじゃなかったってことでしょう」
 「そんな事ないよ!詩鶴ちゃん以外の誰かを好きになる事なんてあり得ないって、一生大事にするって、酔うといつも言ってた!」
 だから余計なことを言うなというのに。
 ロマンチストな光稀がいかにも言いそうな台詞ではあるが、今この場で聞いてもこれっぽっちも嬉しくない。現夫の目の前で、元恋人が酔って吐いた惚気話を暴露する奴があるか。そう、詩鶴は心の中で毒付いた。
 「きっと色んな事情があったんだろうけど──いやっ、でもさ!それにしたってもう違う人と結婚してるって…早くない⁈俺びっくりしたよ。光稀だってきっと…」
 前述した通り、田宮は普段は至って善良ないい人だった。けれど今日はどうも、彼の短所が全力で発揮される日みたいだ。
 いい大人が思った事をそのまま口に出すな。空気読め。
 そんな悪態を、詩鶴は懸命に呑み込む。
 「光稀と別れても、私には私のその後の人生があるので。誰を選んで何をしようと私の自由です。自分を振った相手に義理立てする必要ありますか?早いとか遅いとか、他人から責められる筋合ありません」
 田宮を黙らせたくて、敢えて強い口調で言った。ついでに早くこの場から遠ざかって欲しかった。詩鶴の目論見通り、田宮はぐっと息を呑んで、黙り込む。
 「…そうだな。詩鶴ちゃんの言う通りだ。詳しい話は光稀に聞くよ。大騒ぎしてごめんな」
 あからさまにしゅんとして、田宮は詩鶴に頭を下げた。基の方にも体を向けて、姿勢を正す。
 「詩鶴ちゃんの旦那さんも。お騒がせしてすみませんでした」
 「いや、お気になさらず」
 深々と頭を下げる田宮に、基は口元だけ笑みの形にして応える。何を考えているのかよくわからない、薄い笑みだった。
 「…あれ、でも、そういえば…。おかしいな。先月光稀に会ったけど、あいつその時…」
 田宮は独り言のように小さな声で呟いて、途中ではっとして言葉を切った。
 「…いや、何でもない!じゃあ詩鶴ちゃん、元気でな」
 「はい。田宮さんも」
 田宮は急ぎ足で通路の方へ戻る。恋人だろうか、通路で待っていた女性と合流して、そのまま遠ざかっていった。
 その後姿が完全に見えなくなってから、詩鶴は基に小さく頭を下げた。
 「…ごめんなさい」
 「君が謝る必要ないだろ」
 「…でも、うるさかったし」
 「確かにうるさかったな。おまけに要らない情報ばっかり置いてった」
 そう言いながらも、基は何故か機嫌良さそうに薄く笑っている。
 「でも面白いと言えなくもなかった。彼もきっと悪い人間じゃないんだろうな。思考回路と口が、迂闊なくらい直結してるっていうだけで」
 「そうですね。本当に、それに尽きます」
 「まぁ君にもそういうところ多少あるよ」
 「えっ、嘘。すごく不本意」
 「だろうな」
 基は喉の奥で小さく笑って、腕を伸ばして詩鶴の頭を撫でた。
 「…僕の事を、ちゃんと夫だと紹介したね」
 小さな子供を褒めるように、基は満足そうな笑みを浮かべている。
 「……そりゃそうですよ、本当にそうだし。瀬尾さんだって私のこと、妻だの新妻だのって言うじゃないですか」
 詩鶴はまた、じりじりと頬に熱が集まってくるのを感じる。ふいと目を逸らすが、基の柔らかな笑みはしっかりと視界の端に映っていた。
 「僕と君じゃ(しがらみ)が違う。潔い妻を迎えることが出来て嬉しいよ」
 「……潔い……?」
 何だそれはと思ったけれど、妙に御機嫌な基に聞き返しても、きっともっと揶揄われるだけだろう。黙って(ぬる)くなったドリンクをストローで吸い上げた。たっぷりとホイップの乗ったカフェモカは、氷が溶けだしてぼんやりと薄い味になり、それでもひたすら、甘かった。


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 家電、調理器具、カーテンや食器類。
 必要なものが多岐に渡っていたので、少し遠いが全てが一度に揃う、郊外の大型ショッピングモールまで足を伸ばすことにした。
 昼過ぎのショッピングモールは家族連れで溢れていて、走り回る子供達とそれを叱り追い回す大人で賑わっている。その活気ある風景の中、いつも通り涼やかで淡々とした基の佇《たたず》まいは、どことなく浮いていた。
 「瀬尾さんと大型ショッピングモールって、異常に似合わないですね」
 「僕もそう思うし、実際滅多に来ない。でもただでさえ土日に都内で細々《こまごま》と店を回るのは面倒だろう。駐車場が混んだり離れた場所にあったりするから余計な時間がかかる」
 詩鶴は当然公共機関で行くつもりだったが、かさばるものもあるだろうと基が車を出してくれた。
 「車の運転するのも、なんか意外でした」
 玄関に車があるのは気付いていたが、実際に運転しているイメージがまるで湧かなかったのだ。だが運転席に座った基は、慣れた様子で安定した走行をしていた。
 「そう?そんなにマニアじゃないけど、運転自体は結構好きだよ。それにあると便利なんだ。ちょっと地方に取材旅行に出る時も動きが取りやすいから」
 「地方に取材旅行…そっかぁ、確かに便利ですよね。近場で旅行とかも気軽に行けるし」
 「そうだな。君が新しい生活に慣れて少し落ち着いたら、二人でどこか行こうか」
 並んで歩く詩鶴を見下ろして、基はさらりとそう言う。
 「…そう、です、ね…」
 詩鶴は俯いて、もごもごと口の奥で煮え切らない返事をした。
 そう、さらりと言うけれど。
 詩鶴にとって、男の人と二人で旅行に出掛けるというのは結構な大イベントだ。よほど深い仲でないと行ってはいけない、という思い込みがある。
 しかし、二人はもう夫婦なのだ。男女間の関係の深さで言えばこれ以上ないというほど深い繋がりだから、一緒に旅行したって何もおかしくない。でも。でも、だ。まだ手も繋いでない相手と旅行なんて、行ってもいいものなの?いや、なくない?詩鶴は心の中で自問自答する。
 「君も免許は持ってたよな。今後乗る機会も出てくるだろうから、保険に入っておいた方がいいかもな」
 詩鶴の内心の葛藤を知ってか知らずか、基はいきなり現実的な話をしている。
 「あ…でも私、ペーパーなんですよ。もう何年も運転してないから自信ない…」
 慌てて言い掛けたところで、ぐいっと肩を引き寄せられた。不意打ちによろめいた詩鶴は、そのままぼすっと基の胸に鼻を埋めてしまう。
 「──あぁ、ごめん。あれにぶつかりそうだったから咄嗟に」
 基の指差す方に視線を動かすと、中学生くらいの集団が大きく腕を振り回してじゃれ合いながら、広がって歩いていた。
 基は肩に回した腕をほどくと、そのままするりと下ろして詩鶴の手を握り、指を絡ませた。
 まだ手も繋いでないのに、と、思った矢先に。繋いでしまった。なんという手際の良さ。
 「ペーパーだって話だったな。もし怖ければ、ペーパードライバー講習とか行ってみたら?せっかく免許取ったのに使わないまま腐らすのも勿体ないだろ」
 「…そうですね。考えて、みます…」
 基は相変わらずの涼しげな横顔で、詩鶴の手をしっかり掴んだまま歩き始める。
 詩鶴は赤面しそうになるのを、必死で堪えていた。
 二時間ほどで、大きなカートが山盛りになるほど大量の買い物をした。
 「まだ買うなら一度車に戻って積み込まないと、もうそんなに載らないぞ」
 基は呆れた顔でカートを押している。
 「あとは細かい食器類だけ…あの、私がカート押しましょうか?」
 「いいよ。押すだけっていっても結構重い」
 「重いから申し訳なくて言ってるんです。それに瀬尾さん、ショッピングカート似合わないですし」
 「自分でもそう思うけど、そういう問題じゃない。君にこんな重量を運ばせられない」
 力仕事など得意ではなさそうに見えるのに、案外紳士的だ。自分の鞄以外は手ぶらの詩鶴は、恐縮した気持ちになる。せめてもと思い、通路の少し先にあるフードコートを指し示して「少し休憩しませんか」と提案した。基もその提案はあっさり受け入れ、ドリンクを買って席についた。
 「瀬尾さん、フードコートも似合わないですね」
 「それ、だいぶ聞き飽きたな。何処なら似合うんだよ」
 カラフルな紙容器に入ったホットコーヒーを啜りながら、基は肩を竦める。すらっとした長い脚を持て余すように組んでいる基を眺めて、詩鶴は真剣に考え込んだ。
 「どこですかね。海とか山とかキャンプ場も似合わないし…日の当たらない場所…洞窟とか廃工場とか」
 「君は僕を何だと思ってるんだ」
 「図書館とか本屋さんはさすがに似合いますよね。あ、あと老舗の温泉旅館なんかも意外と似合うかも。浴衣着て…」
 「……ふぅん」
 基は面白がるように、意味深な笑みを浮かべた。
 詩鶴ははっとする。
 しまった。これじゃさっきの話を自分から蒸し返したようなものだ。
 テーブルの上に置いてあった詩鶴の手を、基は掬《すく》い上げるようにそっと持ち上げて、指を絡ませた。
 今度は隠しきれない。詩鶴はぱっと顔を赤く染めた。
 「行きたいの?」
 「───いやっ…」
 「───詩鶴ちゃん⁈」
 思わず否定しそうになった詩鶴の声を、背後から掛かった大きな声が打ち消す。
 唐突に名前を呼ばれたこととその声量に驚いて振り返った詩鶴の目に映ったのは、三十代そこそこの、少し小柄な男性。
 「……あっ……」
 詩鶴は咄嗟に、基の手を振り払ってしまう。
 「……田宮さん…」
 見覚えのある顔に、詩鶴は狼狽《うろた》えた。何度か顔を合わせた事があるその人──田宮は。
 光稀の──別れた恋人の、親しい友人だ。
 詩鶴も狼狽えたが、向こうの慌てぶりはそれ以上だった。
 「詩鶴ちゃん⁈何でこんなとこに⁈いやっ、それよりもその、その人は…?何か今手ぇ繋いでるように見えたけど、見間違いじゃないよね⁈まさかうわ…浮気、浮気とか…あっ!もしかして親戚かなんかか⁈いやそんな訳ないよな。親戚だって手は繋がないもんな⁈あぁもう、こんなとこあいつが見たらどうなるか…!」
 「…田宮さん。ちょっと落ち着いて下さい。あと声大き過ぎるので。抑えて」
 詩鶴は頭を抱え、深い溜息を吐いた。
 そう。こういう人なのだ。
 陽気で世話焼き、裏表のない善良な人なのだが、先走って空回りしがち、思った事がそのまま口に出る。おまけに声が非常に大きい。悪気がないのはわかっているし、事情を知らなければ焦るのもわかる。だが少しは空気を読んで欲しい。今の状況で顔を合わせるには、非常に面倒な相手だった。
 「えぇと、田宮さん。説明すると長くなるんですけど、この人は…」
 田宮に向けて言い掛けて、詩鶴はふと口を噤《つぐ》む。
 違うな、と思った。順番が、違う。
 先にフォローしなければいけないのは田宮さんじゃない。まずは基に説明しなければいけない。突然現れて大騒ぎする謎の男が誰で、何なのか。詩鶴にとっての優先順位は、田宮よりも夫である基の方だ。詩鶴は田宮に向けていた視線を、基の方に戻した。
 「…瀬尾さん。お騒がせしてごめんなさい。この方は田宮さんっていって…別れた彼の、お友達です」
 無表情で二人の遣り取りを眺めていた基は、あぁ、とすんなり納得して頷いた。詩鶴の説明に驚いたのはむしろ、田宮の方だ。
 「──別れた…?詩鶴ちゃん、光稀と別れたの?」
 詩鶴の要望に応えた訳ではなく、驚きのあまりだろう。ぐっと声量を落とした田宮は、眉根を寄せて戸惑った顔をする。
 「はい。光稀から聞いてないですか?数ヶ月前に別れました。一緒にいるこの人は、私の夫です。誰かに見られて困ることは、何もありません」
 「おっ…夫⁈えっ、詩鶴ちゃん、結婚したの⁈だって光稀と結婚するって言ってたよね⁈」
 「本当に声がでかいな」
 そう。本当に声が大きい。周囲の視線が痛かった。基は半ば感心したような顔で、ぼそっと呟く。そして淡々とした様子で、詩鶴に尋ねた。
 「説明が必要なら、僕は少し席を外そうか?」
 だが詩鶴は首を左右に振って、田宮を見上げる。この人は元恋人の友人。ただそれだけの関係だ。わざわざ基に気を遣わせてまで話すことなど何も無い。
 「別れると言ったのは光稀です。理由が、事情が聞きたいなら、彼から聞いてください。私が話したらどうしてもこっちが被害者みたいな言い方になっちゃう。田宮さんは彼の友達だから、そんな話を聞かせたくありません」
 詩鶴にとって田宮は、今日偶々会っただけの、本来なら二度と会うはずのない人間だ。どう思われようと、嫌われようと、別に構わない。
 でも光稀と田宮はそうじゃない。これからも友人関係は続いていくのだろうから、光稀にしたら、知られたくない部分もあるだろう。好きなように、都合のいいように話せばいい。
 そう思ったから、説明は全面的に光稀に押し付けた。
 「光稀が…?何で?わかんないな、あいつ、詩鶴ちゃんにベタ惚れだったのに」
 自分のことのように辛そうに顔を歪める田宮。決して悪気はないのだろうが──余計な事を言わないで欲しい。別れた男がベタ惚れだったなんて話、現在の夫に聞かれたらこっちの方が気まずいではないか。
 詩鶴はちらりと基を盗み見たが、相変わらず感情の読めない涼しげな顔をしているだけだ。
 「…田宮さんが思うほどじゃなかったってことでしょう」
 「そんな事ないよ!詩鶴ちゃん以外の誰かを好きになる事なんてあり得ないって、一生大事にするって、酔うといつも言ってた!」
 だから余計なことを言うなというのに。
 ロマンチストな光稀がいかにも言いそうな台詞ではあるが、今この場で聞いてもこれっぽっちも嬉しくない。現夫の目の前で、元恋人が酔って吐いた惚気話を暴露する奴があるか。そう、詩鶴は心の中で毒付いた。
 「きっと色んな事情があったんだろうけど──いやっ、でもさ!それにしたってもう違う人と結婚してるって…早くない⁈俺びっくりしたよ。光稀だってきっと…」
 前述した通り、田宮は普段は至って善良ないい人だった。けれど今日はどうも、彼の短所が全力で発揮される日みたいだ。
 いい大人が思った事をそのまま口に出すな。空気読め。
 そんな悪態を、詩鶴は懸命に呑み込む。
 「光稀と別れても、私には私のその後の人生があるので。誰を選んで何をしようと私の自由です。自分を振った相手に義理立てする必要ありますか?早いとか遅いとか、他人から責められる筋合ありません」
 田宮を黙らせたくて、敢えて強い口調で言った。ついでに早くこの場から遠ざかって欲しかった。詩鶴の目論見通り、田宮はぐっと息を呑んで、黙り込む。
 「…そうだな。詩鶴ちゃんの言う通りだ。詳しい話は光稀に聞くよ。大騒ぎしてごめんな」
 あからさまにしゅんとして、田宮は詩鶴に頭を下げた。基の方にも体を向けて、姿勢を正す。
 「詩鶴ちゃんの旦那さんも。お騒がせしてすみませんでした」
 「いや、お気になさらず」
 深々と頭を下げる田宮に、基は口元だけ笑みの形にして応える。何を考えているのかよくわからない、薄い笑みだった。
 「…あれ、でも、そういえば…。おかしいな。先月光稀に会ったけど、あいつその時…」
 田宮は独り言のように小さな声で呟いて、途中ではっとして言葉を切った。
 「…いや、何でもない!じゃあ詩鶴ちゃん、元気でな」
 「はい。田宮さんも」
 田宮は急ぎ足で通路の方へ戻る。恋人だろうか、通路で待っていた女性と合流して、そのまま遠ざかっていった。
 その後姿が完全に見えなくなってから、詩鶴は基に小さく頭を下げた。
 「…ごめんなさい」
 「君が謝る必要ないだろ」
 「…でも、うるさかったし」
 「確かにうるさかったな。おまけに要らない情報ばっかり置いてった」
 そう言いながらも、基は何故か機嫌良さそうに薄く笑っている。
 「でも面白いと言えなくもなかった。彼もきっと悪い人間じゃないんだろうな。思考回路と口が、迂闊なくらい直結してるっていうだけで」
 「そうですね。本当に、それに尽きます」
 「まぁ君にもそういうところ多少あるよ」
 「えっ、嘘。すごく不本意」
 「だろうな」
 基は喉の奥で小さく笑って、腕を伸ばして詩鶴の頭を撫でた。
 「…僕の事を、ちゃんと夫だと紹介したね」
 小さな子供を褒めるように、基は満足そうな笑みを浮かべている。
 「……そりゃそうですよ、本当にそうだし。瀬尾さんだって私のこと、妻だの新妻だのって言うじゃないですか」
 詩鶴はまた、じりじりと頬に熱が集まってくるのを感じる。ふいと目を逸らすが、基の柔らかな笑みはしっかりと視界の端に映っていた。
 「僕と君じゃ|柵《しがらみ》が違う。潔い妻を迎えることが出来て嬉しいよ」
 「……潔い……?」
 何だそれはと思ったけれど、妙に御機嫌な基に聞き返しても、きっともっと揶揄われるだけだろう。黙って温《ぬる》くなったドリンクをストローで吸い上げた。たっぷりとホイップの乗ったカフェモカは、氷が溶けだしてぼんやりと薄い味になり、それでもひたすら、甘かった。