夜勤の警備という仕事は、
「何も起きないこと」を確認し続ける役割だと思っています。
この話は、
その「何も起きていない」という判断が、
どこまで信じられるのか、という小さな違和感から始まります。
短い時間で読めるホラーです。
最後までお付き合いいただければ幸いです。
私の仕事は、施設警備だ。
大きな役所でも、華やかな商業施設でもない。市の端にある、用途がよく分からない複合施設。会議室、倉庫、使われていない事務室が雑多に詰め込まれた建物で、夜勤の警備員は基本的に暇を持て余す。
巡回は一時間おき。
チェックリストに沿って、各フロアを回り、扉の施錠状況、非常灯、警報盤を確認する。それだけだ。異常がなければ、チェック欄に丸を付ける。異常があれば、該当項目にチェックを入れ、報告書を書く。
異常があるかどうかは、私が決める。
もっと正確に言えば、「異常として扱うかどうか」を、チェックリストが決める。
この施設には、噂があった。
三階の奥、旧資料保管室。今は何も置かれていない、使われていない部屋。その扉だけが「開かずの間」だという噂だ。
もっとも、その噂はチェックリストには載っていない。
扉は存在する。鍵もある。警報盤に異常表示はない。建付けも問題ない。過去の報告書を遡っても、「開かない」という正式な記録は一件もなかった。
噂は、噂でしかない。
最初にその話を聞いたのは、引き継ぎのときだった。
先輩警備員が、雑談の延長のように言った。
「三階の奥、あそこだけは無理に開けようとするなよ。まぁ、どうせ開かないけど」
冗談だと思った。
警備員同士の、ありがちな怪談まがいの話だ。夜勤は長いし、話の種が欲しくなる。そういうものだ。
実際、チェックリストには「旧資料保管室・施錠確認」とあるだけだった。
私はその通りに、鍵穴を確認し、ドアノブを軽く回し、「施錠」と記録した。
異常なし。
二週間ほど経った頃だった。
夜勤中、巡回をしていると、三階の奥で人の気配がした。足音のような、衣擦れのような、はっきりしない音。
誰かが入り込んだ可能性はある。
だから、確認する。それが仕事だ。
私は例の扉の前に立った。
旧資料保管室。白い扉。取っ手は金属製で、少し冷たい。
念のため、ドアノブに手をかけた。
軽く回す。
開いた。
一瞬、動きが止まった。
力を入れたわけでも、コツを使ったわけでもない。ただ、いつも通りに回しただけだ。
中は暗かった。
照明は点いていない。倉庫特有の、埃と紙の匂いがした。何もない空間。人の姿はない。
私はドアを閉めた。
もう一度、ドアノブを回す。
今度は、開かなかった。
建付けの問題かと思った。
たまたまタイミングが合っただけ。そう自分に言い聞かせ、チェックリストにはいつも通り丸を付けた。
異常なし。
翌日、引き継ぎのときにその話をした。
先輩は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑った。
「気のせいだろ。疲れてたんじゃないか」
それで終わった。
終わらせた。
しかし、それからも、同じことが何度か起きた。
私が巡回するときだけ、扉が開く。
私以外の警備員が確認すると、開かない。
誰かが細工をしている形跡はなかった。
鍵も変わっていない。警報ログにも記録は残らない。カメラにも、異常な映像は映っていない。
チェックリストには、相変わらず「施錠確認」の一行だけが並んでいた。
私は、報告書を書かなかった。
書けなかった。
「自分だけ開けられる扉」という項目は、どこにもない。
「噂が本当かもしれない」という判断欄も存在しない。
ある夜、巡回の途中で、無線が入った。
三階で物音がするという通報だった。
私は、ためらわずに例の扉へ向かった。
なぜか、開くと分かっていた。
ドアノブを回す。
やはり、開いた。
中に入ると、今までと違っていた。
何もないはずの部屋に、椅子が一脚置かれていた。中央に、ぽつんと。
誰かが持ち込んだのだろうか。
そう考えようとした瞬間、気づいた。
椅子の足元に、埃が積もっていない。
この部屋は、使われていない。清掃も入らない。埃が積もらないはずがない。
背中が冷たくなった。
それでも、私は報告書を書かなかった。
チェックリストを確認した。
椅子の有無を確認する項目はない。
誰かが座った形跡を記録する欄もない。
私は扉を閉めた。
次の巡回では、もう開かなかった。
数日後、引き継ぎノートに一行だけ、走り書きが増えていた。
「三階奥、扉前で立ち止まるな」
誰が書いたのかは分からない。
しかし、それでも正式な報告にはならない。
異常は、確認されていない。
数値も、記録も、再現性もない。
私は今日も巡回をする。
チェックリストを持って、同じ順路を回る。
三階の奥で、足を止める。
ドアノブに手を伸ばす。
私は知っている。
私だけが、開けられることを。
それでも、私は記録する。
今日も、異常なし。
『私以外に異常じゃないことが異常です』