プヤル村
ー/ー 瀕死の重傷を負った勇斗が運び込まれたのは、プヤルという村の診療所だった。壁際には乾かされた薬草が束ねられ、床には使い込まれた木桶が並んでいる。
出迎えたのは、ウヌカという女性だった。ムカルの祖母であり、湯治師を生業としている。ミュールに背負われた勇斗の姿を見るなり、「こりゃいかん」と言って、すぐさまムカルにベッドを用意させた。
ウヌカは勇斗の脈を取り、まぶたをめくり、胸に耳を当てる。その手つきに迷いは一切なかった。
「なぁ、トージシって何だ?」
首を傾げたランパが、チカップのコートの裾を引っ張る。
「湯治師は、一言で言うと温泉を使って体を整え、暮らしまで立て直す人っスね」
「こんな状態でフロに浸かれるわけねーだろ!」
「ちょいとお黙り!」
ウヌカの一声で、ランパはピシッと固まった。しゅんと肩を落とす。
「全く、この子、生きてるのが不思議なくらいだよ。応急措置をしたのは誰だい?」
「オイラだ!」
「アンタかい。ずいぶん妙な塞ぎ方をしたもんだ。これは……どうなってるんだい?」
勇斗の胸部を観察しながら、ウヌカは怪訝な顔をした。
「オイラの精霊術でやった」
「ほう、アンタ精霊なのかい。なるほど」
「で、ユートは治るのか?」
ミュールが浮かない表情で尋ねた。
「時間はかかるだろうけどね。なに、アタシに任せておきな。傷を塞ぐだけなら医者でもできる。でも、生きる気力まで戻すのは湯治師の仕事さ」
ウヌカの言葉はぶっきらぼうだったが、不思議とそれだけで場の空気が少し落ち着いた。
◆
勇斗が回復するまで、ミュールたちはプヤル村に滞在することになった。宿はウヌカが用意してくれた。
勇斗を預けたあと、ミュールはひとり村を歩いた。
プヤル村は、活火山群に囲まれた盆地の底にある小さな村だった。昼だというのに、空気は白い湯気でぼやけている。硫黄と土の匂いが鼻の奥にまとわりついた。
黒い岩と煤けた板で組まれた家々が、湯気の向こうに影のように並んでいる。屋根には灰がうっすらと積もり、少し強い風が吹くたびに白い粉となって舞い上がった。
村人の姿はまばらだった。家にこもっているのだろうか。頻繁に火山灰が降り注ぐ以上、あまり外へ出ないのかもしれない。この地で暮らすのは大変だろうとミュールは思った。
しばらく歩いていると、モッケ族の男性と出会った。タイカという名で、ミュールの父ウォルゼの古い親友だという。
「その鎧はもしかして」
タイカは鎧に向ける視線だけを、一瞬鋭くした。
「あぁ、これは」
ミュールはふと、自分の鎧へ目を落とした。
療養中、ミュールは身体よりも先に心の方が限界に近づいていた。呼吸は浅く、手は震え、リハビリをするたびにガロの最期が何度も脳裏に蘇った。眠れば、ギナスの笑い声で目が覚めた。
そんな中、聖域の深部にある祠――獣の魂が還る場所で、ミュールはレブンの残滓と接触した。
祠に祀られていたのは、深い黒を基調に紫の光彩が走る軽鎧だった。ウォルゼの話によると、この鎧には始祖精霊レブンの加護が宿っているらしい。ミュールが手を触れると、鎧は淡い光を放った。
着てみろと言われ、ミュールは鎧を身にまとった。驚くほど軽く、まるで何も着けていないようだった。
――復讐のためだけに強さを求めるなら、きみはギナスと同じ場所に立つことになるよ。
どこからともなく声が聞こえてきた。聞いたことのない声だったが、それが始祖精霊レブンのものだと直感でわかった。
レブンは鎧に宿ったまま、ミュールに問いかけた。
――きみはギナスを殺したいのか。それとも、弟の死を終わらせたいのか。
ミュールは答えられなかった。
――きみの弟は、復讐なんて望んでいないよ。
勇斗たちを匂いで追い、ギナスの姿を目にした時、ミュールの心は怒りで支配された。その瞬間、鎧がぐっと重くなった。
これでは、あいつを殺せない。
いや、その前に、友達を助けられない。
――守るために牙を持つんだ。殺すためだけの牙は、いずれ主を喰ってしまう。
その言葉を聞いた瞬間、ミュールははっとした。
ガロは、オレが獣になることを望んでいない。ギナスを殺しても、ガロは戻らない。オレがギナスみたいになることこそ、最大の敗北だ。
自分が戦ってきたのは弟のためではなく、弟を言い訳にした怒りだったのだと、ミュールはようやく理解した。
その瞬間、鎧はすっと身体に馴染んだ。
ミュールは、ギナスを許したわけではなかった。とどめを刺さなかったのは、復讐に呑まれない強さを選んだからだった。
「お前は、いい族長になるよ」
タイカはミュールの肩に手を置き、ふっと笑った。
◆
ランパはムカルと共に、火山帯の裂け谷を歩いていた。地面の割れ目から、時折ぬるい蒸気が噴き上がる。足元の岩は熱を帯び、長く立ち止まると靴越しにもじわりと熱が伝わってきた。
「本当にこんなところに虫なんているのか?」
「本当だぜ。すっげーカッコイイ虫がいるんだよ」
「嘘だったらお前の今日のメシ、オイラによこせよな」
「嘘じゃないから、お前にはゴハンよこさない」
「というか、こんなところまで来て、魔族に襲われたらどうすんだ。お前、戦えるのか?」
「火山狩人なめんなよ。オレの弓の腕前は大人顔負けなんだ!」
ムカルは空を鋭く見上げた。
弓筒から矢を抜き、素早く弓に番えて放つ。ギャッという鳴き声と同時に、鳥形の魔族が地面へ落下した。さらにもう一発。矢が頭部を貫き、魔族は砂のように崩れて消える。
「な? オレ、強いだろ」
「スッゲーな、お前」
「だろ、だろ?」
二人は顔を見合わせた次の瞬間、同時に笑い出した。笑い声が谷の奥へ抜けていった。
やがて、谷の深部へたどり着く。不思議なことに、そこだけ熱が和らいでいた。
「あれ見ろ」
ムカルが顎をしゃくる。
壁面に張りついていたのは、太い角を持つ虫だった。甲殻は黒曜石のように黒く、縁だけが赤く光っている。だが背中には、青白い霜がうっすらと付着していた。
「なんだあの虫! スッゲー! モガッ」
ムカルは右手でランパの口を塞ぎ、左手の人差し指を自分の口元に当てた。
「あれは炎冷カブト。とっても臆病で、音に敏感なんだ。近づくとすぐ逃げちゃう。だからこれまで誰も捕まえたことがない」
「へぇ~」
目を輝かせたランパは、炎冷カブトに向かって駆け出した。
「バカ、オレの話ちゃんと聞いてなかっただろ!」
だが、ムカルの心配をよそに、ランパは炎冷カブトを片手でひょいと捕まえた。炎冷カブトは暴れるどころか、ランパの体温に呼応するように角を揺らした。
「うおっ、何だこの感覚。暖かくて冷たい!」
呆気にとられたムカルのもとへ、ランパは胸を張って戻ってくる。
ランパの手の甲には、炎冷カブトが静かに乗っていた。
「なんなんだよー、お前。やるじゃん」
「へへん、どんなもんだい」
炎冷カブトは、どうやらランパになついたらしかった。
ランパは炎冷カブトをポーチにそっと入れた。
「で、この虫は何を食うんだ?」
◆
チカップは、プヤル村のはずれにある崩れた塔の前に立っていた。
月明かりが、塔を静かに照らしている。
塔は上半分が完全に崩落しており、残っているのは円筒状の基部と、半壊した一階部分だけだった。扉は瓦礫で完全に塞がれていた。
火山地帯の塔の地下には、コタが残した宝具がある。昔、親から何度も聞かされた話だった。チカップは、どうしてもその宝具を一目見たかった。
「正面がダメなら、上からっス」
チカップの体が変化する。骨の重さが抜け、風の流れが一気に近づいた。視界がわずかに高くなる。
次の瞬間、少年の姿は小さなフクロウへと変わっていた。
羽ばたき、塔の内部へ滑り込む。
内部は暗く、崩れた石材が折り重なっていた。地下へ続く入口は見当たらない。
チカップは内壁に沿って旋回し、三つの目を動かしながら注意深く観察を続けた。やがて、壁の一部に横長の裂け目があることに気づく。そこからは冷たい空気が静かに吐き出されていた。
チカップは裂け目に顔を近づけ、瞬きをする。
「通れるっスね」
翼を畳み、体を細くする。石の腹を擦りながら、息を詰めるように闇の中を進んだ。次の瞬間、支えの感触が消える。チカップはすぐに翼を広げ、音を立てずに滑空した。
下方に見えたのは、円形の小さな空間だった。
変身を解き、地下空間へ降り立つ。魔法で小さな火の玉を作り出し、明かりにした。
空間にあるのは、一つの扉だけだった。手をかけて押すと、抵抗もなく静かに開く。
扉の先には台座があり、その上に美しい鎧が安置されていた。
紺色の金属は、光を跳ね返すのではなく、静かに抱え込むような色合いをしていた。表面には細い茶色のラインが走り、装甲板の継ぎ目をなぞるように刻まれている。腰回りには、美しい布が垂れていた。
チカップは無意識に手を伸ばしていた。
――私はコタ。我が力を受け継ぐ者よ、この鎧を授けます。
脳内に、静かな声が流れ込む。
鎧が動いた。台座の上で静止していた装甲が、わずかに浮かび、分解される。
次の瞬間、装甲がチカップの体全体を包み込んだ。
体を動かしてみる。見た目に反して驚くほど軽く、内側から静かに力が満ちてきた。
その瞬間、視界が暗転する。
気づけば、地上に立っていた。
月の光が、チカップのまとう鎧を静かに照らしていた。
◆
勇斗の意識が戻ったのは、プヤル村に運び込まれてから二日が経った朝だった。
胸の新しい皮膚の下で、青白い光がぼんやりと透けて見えた。呼吸は浅く、身体を起こすのがやっとで、歩くことはまだできない。
――早く治らないと。
焦りが、胸の奥で鈍く脈打った。
「まだだよ」
かすれた声が、すぐ近くから聞こえた。声の主は年老いた女性だった。
「はじめましてだね。私はウヌカ。湯治師さ」
勇斗は湯の気配だけを感じていた。診療所の奥から、かすかな水音と湿った温かさが流れてくる。だが身体は湯に沈められてはいない。足元にだけ、ぬるい湯が当てられている。腹の上には湯気を含んだ布が置かれ、肺に入る空気がわずかに楽になっていた。
「今、浸かれば血が動きすぎる」
ウヌカは鼓動を確かめるように、ゆっくりと勇斗の胸に手を当てた。
「生き延びる段階だ。焦るな」
その二日間、勇斗は湯に入らなかった。足を温められ、身体を拭われ、湯気に包まれるだけだった。意識が途切れ、目を覚ますたびに、身体の内側で何かが整えられていく感覚だけが残った。
三日目になって、ウヌカは短くうなずいた。
「肩まで浸かるなよ」
ムカルという少年に支えられ、勇斗は初めて湯に身を沈めた。熱は強くない。それでも、骨の奥までじわじわと染み込んだ。湯から上がった途端、視界が揺れ、強烈な眠気に襲われた。
三日目の夜から、ようやくドラシガーを吸えるようになった。それを境に、回復は目に見えて早まった。
身体の奥で、折れていた骨が少しずつ繋がり直し、潰れていた肺の感覚もわずかずつ戻ってくるのが、勇斗にははっきりとわかった。
四日目には、短時間なら会話ができるようになった。
仲間たちが、次々と見舞いに来た。
ミュールが戻ってきたことが、何より嬉しかった。彼はモッケ族の聖域での出来事を、噛みしめるように語ってくれた。
チカップは、塔の地下で見つけたという鎧を身にまとっていた。その美しさに、思わず目を凝らしてしまった。
ランパはいつもの調子で話しかけてきた。珍しい虫を、目を輝かせながら見せてきた。
五日後。痛みはまだ残っているが、自分の足で立ち、歩けるようになった。
あまりにも異常な勇斗の回復ぶりに、さすがのウヌカも言葉を失っていた。
◆
プヤル村を訪れてから一週間後の夜だった。
勇斗はどうしても寝つけなかった。
布団に横になっていても、目を閉じるたびに意識が冴えていく。やがて静かに身を起こし、宿を抜け出した。
夜の村は、ひどく静かだった。
歩いているうちに、高台に一本だけ立つ大樹が目に入った。周囲には他に木はない。夜風に揺れる葉の音だけが、そこだけ浮いて聞こえた。
勇斗は根元に腰を下ろし、額を押し当てた。
明日、プヤル村を立ち、魔神の居城へ向かう。今の自分で、本当に勝てるのか。もし負けたら、この世界は終わる。それだけじゃない。自分の住んでいた世界も、きっと無事では済まない。光太や美咲、母の顔が、次々と浮かんでは消えた。
指先が言うことをきかなくなった。胃がきりきりと痛んだ。
「こんな夜中に、何やってんだよ」
声がして、勇斗は顔を上げた。そこにいたのは、ランパだった。
「どうしてここに?」
「何度も言ってるだろ。オイラとユートはイッシンドータイだって」
ランパは勇斗の隣にちょこんと腰を下ろした。
分厚い葉が、かすかに鳴った。火山の熱を含んだ夜風が、大樹を揺らしていた。
二人は並んで座ったまま、しばらく黙っていた。
やがて、勇斗が重い口を開く。
「正直、魔神に勝てる気がしないんだ」
言葉にした瞬間、胸の奥の重さがほんの少しだけ緩んだ。
「僕だけが、足を引っ張る気がしてさ」
ランパはすぐには答えなかった。代わりに幹へ手を当て、目を閉じる。
「オイラはさ」
噛みしめるような、ゆっくりした声だった。
「みんなでやれば、なんとかなるって思ってる」
「根拠は?」
「ない」
即答だった。
「ユートが思ってるほど、オイラたちは弱くない」
勇斗は視線を地面へ落とす。
「もし魔神を倒せたとしても、元の世界に戻れるかはわからない。戻れなかったら、どうすればいい? 戻れたとしても……」
「大丈夫だって! オイラがなんとかしてやる。大船に乗った気でいろ」
笑顔とは裏腹に、ランパの指先は微かに震えていた。
「オイラ、ユートが辛いままなのは嫌だ。だから、なんとかしてやる。絶対にユートを助けてやる!」
「ランパ……」
ありがとう。
胸の奥から温かさがこみあげてきた。
葉が、また静かに鳴った。
出迎えたのは、ウヌカという女性だった。ムカルの祖母であり、湯治師を生業としている。ミュールに背負われた勇斗の姿を見るなり、「こりゃいかん」と言って、すぐさまムカルにベッドを用意させた。
ウヌカは勇斗の脈を取り、まぶたをめくり、胸に耳を当てる。その手つきに迷いは一切なかった。
「なぁ、トージシって何だ?」
首を傾げたランパが、チカップのコートの裾を引っ張る。
「湯治師は、一言で言うと温泉を使って体を整え、暮らしまで立て直す人っスね」
「こんな状態でフロに浸かれるわけねーだろ!」
「ちょいとお黙り!」
ウヌカの一声で、ランパはピシッと固まった。しゅんと肩を落とす。
「全く、この子、生きてるのが不思議なくらいだよ。応急措置をしたのは誰だい?」
「オイラだ!」
「アンタかい。ずいぶん妙な塞ぎ方をしたもんだ。これは……どうなってるんだい?」
勇斗の胸部を観察しながら、ウヌカは怪訝な顔をした。
「オイラの精霊術でやった」
「ほう、アンタ精霊なのかい。なるほど」
「で、ユートは治るのか?」
ミュールが浮かない表情で尋ねた。
「時間はかかるだろうけどね。なに、アタシに任せておきな。傷を塞ぐだけなら医者でもできる。でも、生きる気力まで戻すのは湯治師の仕事さ」
ウヌカの言葉はぶっきらぼうだったが、不思議とそれだけで場の空気が少し落ち着いた。
◆
勇斗が回復するまで、ミュールたちはプヤル村に滞在することになった。宿はウヌカが用意してくれた。
勇斗を預けたあと、ミュールはひとり村を歩いた。
プヤル村は、活火山群に囲まれた盆地の底にある小さな村だった。昼だというのに、空気は白い湯気でぼやけている。硫黄と土の匂いが鼻の奥にまとわりついた。
黒い岩と煤けた板で組まれた家々が、湯気の向こうに影のように並んでいる。屋根には灰がうっすらと積もり、少し強い風が吹くたびに白い粉となって舞い上がった。
村人の姿はまばらだった。家にこもっているのだろうか。頻繁に火山灰が降り注ぐ以上、あまり外へ出ないのかもしれない。この地で暮らすのは大変だろうとミュールは思った。
しばらく歩いていると、モッケ族の男性と出会った。タイカという名で、ミュールの父ウォルゼの古い親友だという。
「その鎧はもしかして」
タイカは鎧に向ける視線だけを、一瞬鋭くした。
「あぁ、これは」
ミュールはふと、自分の鎧へ目を落とした。
療養中、ミュールは身体よりも先に心の方が限界に近づいていた。呼吸は浅く、手は震え、リハビリをするたびにガロの最期が何度も脳裏に蘇った。眠れば、ギナスの笑い声で目が覚めた。
そんな中、聖域の深部にある祠――獣の魂が還る場所で、ミュールはレブンの残滓と接触した。
祠に祀られていたのは、深い黒を基調に紫の光彩が走る軽鎧だった。ウォルゼの話によると、この鎧には始祖精霊レブンの加護が宿っているらしい。ミュールが手を触れると、鎧は淡い光を放った。
着てみろと言われ、ミュールは鎧を身にまとった。驚くほど軽く、まるで何も着けていないようだった。
――復讐のためだけに強さを求めるなら、きみはギナスと同じ場所に立つことになるよ。
どこからともなく声が聞こえてきた。聞いたことのない声だったが、それが始祖精霊レブンのものだと直感でわかった。
レブンは鎧に宿ったまま、ミュールに問いかけた。
――きみはギナスを殺したいのか。それとも、弟の死を終わらせたいのか。
ミュールは答えられなかった。
――きみの弟は、復讐なんて望んでいないよ。
勇斗たちを匂いで追い、ギナスの姿を目にした時、ミュールの心は怒りで支配された。その瞬間、鎧がぐっと重くなった。
これでは、あいつを殺せない。
いや、その前に、友達を助けられない。
――守るために牙を持つんだ。殺すためだけの牙は、いずれ主を喰ってしまう。
その言葉を聞いた瞬間、ミュールははっとした。
ガロは、オレが獣になることを望んでいない。ギナスを殺しても、ガロは戻らない。オレがギナスみたいになることこそ、最大の敗北だ。
自分が戦ってきたのは弟のためではなく、弟を言い訳にした怒りだったのだと、ミュールはようやく理解した。
その瞬間、鎧はすっと身体に馴染んだ。
ミュールは、ギナスを許したわけではなかった。とどめを刺さなかったのは、復讐に呑まれない強さを選んだからだった。
「お前は、いい族長になるよ」
タイカはミュールの肩に手を置き、ふっと笑った。
◆
ランパはムカルと共に、火山帯の裂け谷を歩いていた。地面の割れ目から、時折ぬるい蒸気が噴き上がる。足元の岩は熱を帯び、長く立ち止まると靴越しにもじわりと熱が伝わってきた。
「本当にこんなところに虫なんているのか?」
「本当だぜ。すっげーカッコイイ虫がいるんだよ」
「嘘だったらお前の今日のメシ、オイラによこせよな」
「嘘じゃないから、お前にはゴハンよこさない」
「というか、こんなところまで来て、魔族に襲われたらどうすんだ。お前、戦えるのか?」
「火山狩人なめんなよ。オレの弓の腕前は大人顔負けなんだ!」
ムカルは空を鋭く見上げた。
弓筒から矢を抜き、素早く弓に番えて放つ。ギャッという鳴き声と同時に、鳥形の魔族が地面へ落下した。さらにもう一発。矢が頭部を貫き、魔族は砂のように崩れて消える。
「な? オレ、強いだろ」
「スッゲーな、お前」
「だろ、だろ?」
二人は顔を見合わせた次の瞬間、同時に笑い出した。笑い声が谷の奥へ抜けていった。
やがて、谷の深部へたどり着く。不思議なことに、そこだけ熱が和らいでいた。
「あれ見ろ」
ムカルが顎をしゃくる。
壁面に張りついていたのは、太い角を持つ虫だった。甲殻は黒曜石のように黒く、縁だけが赤く光っている。だが背中には、青白い霜がうっすらと付着していた。
「なんだあの虫! スッゲー! モガッ」
ムカルは右手でランパの口を塞ぎ、左手の人差し指を自分の口元に当てた。
「あれは炎冷カブト。とっても臆病で、音に敏感なんだ。近づくとすぐ逃げちゃう。だからこれまで誰も捕まえたことがない」
「へぇ~」
目を輝かせたランパは、炎冷カブトに向かって駆け出した。
「バカ、オレの話ちゃんと聞いてなかっただろ!」
だが、ムカルの心配をよそに、ランパは炎冷カブトを片手でひょいと捕まえた。炎冷カブトは暴れるどころか、ランパの体温に呼応するように角を揺らした。
「うおっ、何だこの感覚。暖かくて冷たい!」
呆気にとられたムカルのもとへ、ランパは胸を張って戻ってくる。
ランパの手の甲には、炎冷カブトが静かに乗っていた。
「なんなんだよー、お前。やるじゃん」
「へへん、どんなもんだい」
炎冷カブトは、どうやらランパになついたらしかった。
ランパは炎冷カブトをポーチにそっと入れた。
「で、この虫は何を食うんだ?」
◆
チカップは、プヤル村のはずれにある崩れた塔の前に立っていた。
月明かりが、塔を静かに照らしている。
塔は上半分が完全に崩落しており、残っているのは円筒状の基部と、半壊した一階部分だけだった。扉は瓦礫で完全に塞がれていた。
火山地帯の塔の地下には、コタが残した宝具がある。昔、親から何度も聞かされた話だった。チカップは、どうしてもその宝具を一目見たかった。
「正面がダメなら、上からっス」
チカップの体が変化する。骨の重さが抜け、風の流れが一気に近づいた。視界がわずかに高くなる。
次の瞬間、少年の姿は小さなフクロウへと変わっていた。
羽ばたき、塔の内部へ滑り込む。
内部は暗く、崩れた石材が折り重なっていた。地下へ続く入口は見当たらない。
チカップは内壁に沿って旋回し、三つの目を動かしながら注意深く観察を続けた。やがて、壁の一部に横長の裂け目があることに気づく。そこからは冷たい空気が静かに吐き出されていた。
チカップは裂け目に顔を近づけ、瞬きをする。
「通れるっスね」
翼を畳み、体を細くする。石の腹を擦りながら、息を詰めるように闇の中を進んだ。次の瞬間、支えの感触が消える。チカップはすぐに翼を広げ、音を立てずに滑空した。
下方に見えたのは、円形の小さな空間だった。
変身を解き、地下空間へ降り立つ。魔法で小さな火の玉を作り出し、明かりにした。
空間にあるのは、一つの扉だけだった。手をかけて押すと、抵抗もなく静かに開く。
扉の先には台座があり、その上に美しい鎧が安置されていた。
紺色の金属は、光を跳ね返すのではなく、静かに抱え込むような色合いをしていた。表面には細い茶色のラインが走り、装甲板の継ぎ目をなぞるように刻まれている。腰回りには、美しい布が垂れていた。
チカップは無意識に手を伸ばしていた。
――私はコタ。我が力を受け継ぐ者よ、この鎧を授けます。
脳内に、静かな声が流れ込む。
鎧が動いた。台座の上で静止していた装甲が、わずかに浮かび、分解される。
次の瞬間、装甲がチカップの体全体を包み込んだ。
体を動かしてみる。見た目に反して驚くほど軽く、内側から静かに力が満ちてきた。
その瞬間、視界が暗転する。
気づけば、地上に立っていた。
月の光が、チカップのまとう鎧を静かに照らしていた。
◆
勇斗の意識が戻ったのは、プヤル村に運び込まれてから二日が経った朝だった。
胸の新しい皮膚の下で、青白い光がぼんやりと透けて見えた。呼吸は浅く、身体を起こすのがやっとで、歩くことはまだできない。
――早く治らないと。
焦りが、胸の奥で鈍く脈打った。
「まだだよ」
かすれた声が、すぐ近くから聞こえた。声の主は年老いた女性だった。
「はじめましてだね。私はウヌカ。湯治師さ」
勇斗は湯の気配だけを感じていた。診療所の奥から、かすかな水音と湿った温かさが流れてくる。だが身体は湯に沈められてはいない。足元にだけ、ぬるい湯が当てられている。腹の上には湯気を含んだ布が置かれ、肺に入る空気がわずかに楽になっていた。
「今、浸かれば血が動きすぎる」
ウヌカは鼓動を確かめるように、ゆっくりと勇斗の胸に手を当てた。
「生き延びる段階だ。焦るな」
その二日間、勇斗は湯に入らなかった。足を温められ、身体を拭われ、湯気に包まれるだけだった。意識が途切れ、目を覚ますたびに、身体の内側で何かが整えられていく感覚だけが残った。
三日目になって、ウヌカは短くうなずいた。
「肩まで浸かるなよ」
ムカルという少年に支えられ、勇斗は初めて湯に身を沈めた。熱は強くない。それでも、骨の奥までじわじわと染み込んだ。湯から上がった途端、視界が揺れ、強烈な眠気に襲われた。
三日目の夜から、ようやくドラシガーを吸えるようになった。それを境に、回復は目に見えて早まった。
身体の奥で、折れていた骨が少しずつ繋がり直し、潰れていた肺の感覚もわずかずつ戻ってくるのが、勇斗にははっきりとわかった。
四日目には、短時間なら会話ができるようになった。
仲間たちが、次々と見舞いに来た。
ミュールが戻ってきたことが、何より嬉しかった。彼はモッケ族の聖域での出来事を、噛みしめるように語ってくれた。
チカップは、塔の地下で見つけたという鎧を身にまとっていた。その美しさに、思わず目を凝らしてしまった。
ランパはいつもの調子で話しかけてきた。珍しい虫を、目を輝かせながら見せてきた。
五日後。痛みはまだ残っているが、自分の足で立ち、歩けるようになった。
あまりにも異常な勇斗の回復ぶりに、さすがのウヌカも言葉を失っていた。
◆
プヤル村を訪れてから一週間後の夜だった。
勇斗はどうしても寝つけなかった。
布団に横になっていても、目を閉じるたびに意識が冴えていく。やがて静かに身を起こし、宿を抜け出した。
夜の村は、ひどく静かだった。
歩いているうちに、高台に一本だけ立つ大樹が目に入った。周囲には他に木はない。夜風に揺れる葉の音だけが、そこだけ浮いて聞こえた。
勇斗は根元に腰を下ろし、額を押し当てた。
明日、プヤル村を立ち、魔神の居城へ向かう。今の自分で、本当に勝てるのか。もし負けたら、この世界は終わる。それだけじゃない。自分の住んでいた世界も、きっと無事では済まない。光太や美咲、母の顔が、次々と浮かんでは消えた。
指先が言うことをきかなくなった。胃がきりきりと痛んだ。
「こんな夜中に、何やってんだよ」
声がして、勇斗は顔を上げた。そこにいたのは、ランパだった。
「どうしてここに?」
「何度も言ってるだろ。オイラとユートはイッシンドータイだって」
ランパは勇斗の隣にちょこんと腰を下ろした。
分厚い葉が、かすかに鳴った。火山の熱を含んだ夜風が、大樹を揺らしていた。
二人は並んで座ったまま、しばらく黙っていた。
やがて、勇斗が重い口を開く。
「正直、魔神に勝てる気がしないんだ」
言葉にした瞬間、胸の奥の重さがほんの少しだけ緩んだ。
「僕だけが、足を引っ張る気がしてさ」
ランパはすぐには答えなかった。代わりに幹へ手を当て、目を閉じる。
「オイラはさ」
噛みしめるような、ゆっくりした声だった。
「みんなでやれば、なんとかなるって思ってる」
「根拠は?」
「ない」
即答だった。
「ユートが思ってるほど、オイラたちは弱くない」
勇斗は視線を地面へ落とす。
「もし魔神を倒せたとしても、元の世界に戻れるかはわからない。戻れなかったら、どうすればいい? 戻れたとしても……」
「大丈夫だって! オイラがなんとかしてやる。大船に乗った気でいろ」
笑顔とは裏腹に、ランパの指先は微かに震えていた。
「オイラ、ユートが辛いままなのは嫌だ。だから、なんとかしてやる。絶対にユートを助けてやる!」
「ランパ……」
ありがとう。
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