午後三時過ぎの住宅街は、水槽の底のように静まり返っていた。
庭のゼラニウムにジョウロで水をやっていると、ふと足が止まる。ブロック塀の上に、近所の飼い猫であるトラが座っていた。
いつもなら私を見て、ごろごろ喉を鳴らすトラなのに、今日は琥珀色の瞳でじっと私を凝視して、明瞭な日本語を放った。
「ここは危ない。すぐに離れろ」
ジョウロの先から水が溢れ、私の靴を濡らす。空耳ではない。トラの口元は確かに動き、その声は不思議な響きをともなって耳の奥まで届いた。
「トラ、今、喋ったの?」
「個体識別名は不要だ。演算の結果、この座標の重力臨界点が間もなく破綻する。今すぐ逃げろ」
トラは淡々と言い捨てると、軽やかな身のこなしで塀から飛び降り、路地の向こうへ消えた。
ーーSF小説の読み過ぎだろうか。
だが、彼の瞳に宿っていた理知的な光は、野生のそれとは明らかに異なっていた。
私は半信半疑のまま家の中にいた家族を強引に連れ出し、近所の公園まで走った。
数分後、轟音も振動もなく「それ」は起きた。
私の家のあった場所を中心に、半径十メートルほどの空間が、まるで大きなスプーンでえぐり取られたように消失したのだ。
そこには底の見えない、滑らかな球状の穴が口を開けていた。切り取られた断面からは、切断された水道管の水が虚しく流れ落ちている。
夕暮れの空から、キラキラと光る塵が降ってきた。それは消えた家々の成れの果てか、あるいは異次元からの観測データだろうか。
ふと見ると、公園の茂みにあのトラがいた。彼は一度だけ私を見て、小さく欠伸をする。その耳の裏に、銀色に光る極小のアンテナが埋め込まれているのを、私は見逃さなかった。
日常は、薄氷の上に成り立っている。明日から、どの顔をして彼に接すればいいのだろう。私はただ、震える手でスマートフォンの録画ボタンを探した。