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未送信の庭 後編

ー/ー




 それは、私たちの三十回目の結婚記念日だった。

その日、夫は慣れない手つきでこのデバイスを私にプレゼントしてくれた。

「サプライズの予約機能があるらしいんだ」と、照れくさそうに言っていた。
けれど、当日のデバイスは何も喋らなかった。


不具合だろうと笑い合い、そのまま忘れていたメッセージ。

「アイシテ、イマス」


今、足元で鳴り続けているのは、植物の意思でも、奇跡でもない。
まだ私を愛そうと努力していた「過去の夫」が、通信エラーの闇に放り込んだ残響だった。



ただ、システムの遅延が、あまりにも残酷な形で解消されただけなのだ。

不意に、リビングの掃き出し窓が開く音がした。
サンダルの足音が、湿った土を踏みしめ、こちらへ近づいてくる。


夫だった。

彼は、私の手元のデバイスから漏れ出る「アイシテ、イマス」という無機質な声を、確かに聞いたはずだ。


彼は何を言うだろう。謝るだろうか。あるいは、照れくさそうに笑うだろうか。

夫は私の傍らで立ち止まり、足元の枯れかけたプランターを見下ろした。


「……まだ、そんな壊れたものを使っているのか」
「アイシテ、イマス。アイシテ、イマス」
以前の彼の情熱が、空虚な電子音となってリピートされ続けている。


夫はそれに相槌を打つこともなく、ただ、ひどく邪魔なものを見るような目で私を見た。


「夕飯、まだだろう。腹が減ったんだが」
それだけ言うと、彼は背を向け、家の中へ戻っていった。


あとに残されたのは、私と、電子音の愛の告白だけだった。
私は震える指で、デバイスの電源をオフにした。 



庭は一瞬で、墓場のような静寂に包まれる。

今の彼にとって、あの言葉は「サプライズ」でも「愛」でもない。
ただの「システムの故障」に過ぎないのだ。


暗くなった庭で、私はもう二度と届くことのない言葉の種を、土に埋めるような気持ちで、立ち尽くしていた。






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 それは、私たちの三十回目の結婚記念日だった。
その日、夫は慣れない手つきでこのデバイスを私にプレゼントしてくれた。
「サプライズの予約機能があるらしいんだ」と、照れくさそうに言っていた。
けれど、当日のデバイスは何も喋らなかった。
不具合だろうと笑い合い、そのまま忘れていたメッセージ。
「アイシテ、イマス」
今、足元で鳴り続けているのは、植物の意思でも、奇跡でもない。
まだ私を愛そうと努力していた「過去の夫」が、通信エラーの闇に放り込んだ残響だった。
ただ、システムの遅延が、あまりにも残酷な形で解消されただけなのだ。
不意に、リビングの掃き出し窓が開く音がした。
サンダルの足音が、湿った土を踏みしめ、こちらへ近づいてくる。
夫だった。
彼は、私の手元のデバイスから漏れ出る「アイシテ、イマス」という無機質な声を、確かに聞いたはずだ。
彼は何を言うだろう。謝るだろうか。あるいは、照れくさそうに笑うだろうか。
夫は私の傍らで立ち止まり、足元の枯れかけたプランターを見下ろした。
「……まだ、そんな壊れたものを使っているのか」
「アイシテ、イマス。アイシテ、イマス」
以前の彼の情熱が、空虚な電子音となってリピートされ続けている。
夫はそれに相槌を打つこともなく、ただ、ひどく邪魔なものを見るような目で私を見た。
「夕飯、まだだろう。腹が減ったんだが」
それだけ言うと、彼は背を向け、家の中へ戻っていった。
あとに残されたのは、私と、電子音の愛の告白だけだった。
私は震える指で、デバイスの電源をオフにした。 
庭は一瞬で、墓場のような静寂に包まれる。
今の彼にとって、あの言葉は「サプライズ」でも「愛」でもない。
ただの「システムの故障」に過ぎないのだ。
暗くなった庭で、私はもう二度と届くことのない言葉の種を、土に埋めるような気持ちで、立ち尽くしていた。