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22話 コナトゥスのための挽歌―8

ー/ー



 後ろ髪をくすぐる風が通り抜け、彼女は少し面倒くさそうに目を細めた。抜けてきた風は冷たくて僕も思わず顔をしかめてしまう。
 麗華の捨てられないものなんて、決まっていてそれに対して本人がどう折り合いを付けていくかが問題なんじゃないんだろうか。そりゃ誰だって大切なものを持っているさ。だけど、失う。そんなのは当たり前のことなんだ。
 
「それを乗り越えてみんな生きているんじゃないかな?」
「私だって思うわよ。でもそれって失うことを前提としている弱者の思考なのよ。ある哲学者はそれを奴隷道徳と言ったわ。それと同時に希望もね。まあ結局、私にとっては嘘だったのよ」
「僕だって失ってきたよ。失うなんて僕が口にしてはいけないんだけど……それでも、僕は変わっていかなくちゃって思えた」
「ピアノが全てだった。生まれてきて、たくさん与えられてきたものの一つだったけど、それは神様からのギフトで。私には特別な才能があった。それから才能を伸ばすだけに時間を使ってきた、だけど私はそこで弾く楽しさが消えたのよ」
「それでも続けたの?」

 首を振った次に僕を指さした。彼女ほどの才能がある人が僕のような凡人に影響を受けていたっていうのか? にわかに信じがたい。だって僕と麗華が会ったことがあるのは幼い頃と、今だけだ。

「芳が聴いてくれたから。ただそれだけで十分弾く理由になったのよ。あの引っ越しがなければ、私は今みたいな才能に目覚めていなかったのも確かなのだけど」
「そっか。それで麗華は僕と再会した時に覚えていてくれたんだね」
「大切だったからよ。でも私はピアノすら失った、何もない人になったのよ。そんなことない、なんて言葉はいらないわ。私が私を思う時になくしてはならない物を失ってしまったから。でもあなたはそれを見抜いてたのよね。だから私にあんなことを言ってくれたのよね」

 あんなこと……僕が勝手に勘違いして行ったあの言葉。今、麗華と会話して少しずつ考えがほぐれていった。あの行動をしてもよかったんじゃないかって思え始めてきた。

「見抜いたわけじゃないよ。僕の経験がそうさせてしまっただけだ。だから僕にとって最低で最悪な行為なんだよ」
「そうでしょうね、私はすっかり騙されてしまったわ。不満があるのはもちろんよ。でもあなたが完全に嘘を付いていたなんて思わないわ」
「違うよ」
「あなたはそういうでしょうね。弾くことが出来なくなったのを隠すようにしたあの告白。あなたはそう考えてしまう。私はもっと酷いわよ。だって、私は何もない人よ。そう分かってしまったから、だから……あなたがそうしてくれたことがかえって辛いのよ。あなたは善意で助けるようにしていたと気づく前に私は本当だと勘違いして、それも結局は才能に変わりなくて。やっぱり芳は優しくて。私は何も持っていなくて」
「善意じゃないよ、あれは僕のふざけた正義感。過去に似たことがあったから、そうしなくちゃならないってみんなが褒めるような道徳に過ぎないんだよ」
「だからよ。私のこれまでがより空っぽになってしまったのは。考えるにしてもピアノが前提にあった。それはピアノが出来ないからしたくないや、出来ないなんてワガママを受け入れてくれる環境だったから、いっそう私は何もないのよ。あの子だって私と同じように生きてきたはず。だけど、ピアノ以外がきちんとあったのよ。それが丸々全部! 私にはない! 同じ年なら知っていることも、経験することも、全部全部! 切り離してしまったの! ……だからあなたとの思い出が大切だったの」
「未練はないってこと……?」
「ええ、そうよ。弾けなくなることが哀しいんじゃないわ。私にはピアノだけしかないって、弾けなくなってようやく分かったのよ。それがどうしても惨めなのよ。芳は惨めな私を見抜いて手を差し伸べてくれる。でもね、私はそれでいいんだって思えてしまったのよ。これがどういうことか分かる?」

 ずっと窓の外を見ていた麗華が射抜くような視線で僕を見つめてくる。そんなことを言われても分からないよ、なんて口には出来ない。人生がピアノと共にあり、それを失って何も残らなくなった麗華が新しい道を発見できる機会だったんじゃないのか?

「……満足してしまうってことはね、私のピアノが代替可能なものだったってことなの。芳は簡単に捨てられないものってあるんでしょう? でも失いたくないって思いながら、私はあの瞬間には置換されていたのよ。これまでの人生が、あっという間に簡単に。恋心一つで。捨ててきた人生をすげ替えることが出来てしまったのよ」
「誰だってそうだよ。見たくないものには目を逸らして生きていっている。麗華だってそうなんだよ。ピアノが出来なくなるなんて思ってもみなかったから、いざその現実を目にすると怖いんだよ。簡単に変わってなんかいない。そうしないと壊れてしまうから。僕だってそうだったんだ……」
「あなたはどこまでいっても優しいのね。でもね、それすら持っている人の言葉なのよ。他のものを持っていない私は過去のものにしか目を逸らせない。それがあなた、芳なのよ。きっと誰だってよかったのよ。芳じゃない別の誰でも。ただ、私の知る世界はちいさくて、手に届くものがちょうどあなただったから。それだけなのよ。なのに、私はあなたを縛り付けるようにしてしまった。きっと芳は過去に似た経験をしているから手を差し伸べてくれた。こっちの世界に引きずり込んでしまったのよ」
「そうじゃないよ。どれもこれも僕が不甲斐ないから起こったことなんだよ。僕にもう少し力があれば、あんなことは起こらなかった。だけど結局起きてしまったんだよ」

 あの時、さくらのことをもっと見ていたら変わっていたかもしれない。握る手に力が入って爪が食い込んでしまう。冷ややかな風を額に受け、汗をかいていることに気付いた。

「どうして芳はここに来たの?」
「どうしても来たくなったからだよ。いや、僕も言わなくちゃならないことがあってここに来たんだよ」
「もう、何も言わなくとも分かっているわ。それでも聞かせてちょうだい」
「僕は麗華に嘘を付いていたんだよ。それは君も知っている通りのことで僕は麗華に恋心を抱いてはいないんだよ。別に嫌いってわけでもない。ただ分からないって感覚。だけど問題は動機だったんだよ。君がさくらのように、僕の妹のように見えたから、どんなことをしてでも助けなくちゃって考えなしにしたんだ」
「……そう。芳の妹、今はどうなのかしら?」
「少しずつ歩み始めたよ。それが正しいことかなんて分からないけど、ただ時間は着実に動き始めた。停滞していたって意味じゃない。循環から抜け出したようなものなんだよ」
「そうなのね、それはよかったわ。やっぱり持っている人の力は強いわね」
「麗華だって持っているさ。僕はずっと何も出来ないでいたんだから」
「いいえ、私をどんな形であれ助けてくれたじゃない」
「さくらが進んだからだよ。僕一人じゃ駄目だよ」
「ねえ、芳。もう一つだけ教えてくれないかしら?」

 席を立ち僕も元までゆっくりと歩み寄る。やはりその揺れる艷やかな髪と整った顔立ちと窓の外にある月の姿は幻想的で、一枚の絵として彼女がいるように思ってしまう。

「私がいなくなったら、困る?」
「だから来たんだよ」
「ありがとう、だったらもう少しだけ後にしておくわ」

 そのまま麗華は部屋を去っていった。解決したのか曖昧なまま流れた時間だけど、一つ区切りがついた。好転したわけじゃないことは分かっている。だけど、現状維持でもないことは確かなんだ。だから僕は彼女に僕の知る小さな世界を一緒に見ていきたいと思った。


 太陽が空の頂点に届こうとしている中、僕は教師の言葉を聞き流しながら机に突っ伏していた。
 昨日、夜に旧音楽室で麗華と会話してからまだ寝ていない。ずっとあれやこれやと考えていたらいつの間にか陽が昇り始めていた。
 彼女は何も持っていないと自分を卑下していたけど、僕にはやっぱりそうは思えない。過去にあるものに縛られていると言っていたけど、それは違う。手に届くような、身近なものにしか目が行き渡っていないだけなんだ。彼女はピアノ以外のものを持っている。どうすれば伝わるのか。ああ、それにしても頭が回らない。
 微睡む意識の中で一つ、手触りが確かにあるものがあった。それを手繰り寄せるとすんなりとまとまった思考になっていく。けど、その前に少しだけ眠ろう、後からでも遅くはない。
 
「羽野、起きろ」
 
 身体を揺すられて目が醒めた。声をかけているのは岡崎だけどちょっかいをかけるのとは違う調子だ。

「先生からいつものだぞ」
「え? って呼ばれてたの?」
「ああ、呼ばれてたけどお前が寝てるからプリントだけ貰ってお前に渡してくれってな。それにしても今回は何と言うかだな」
「見せてよ。児童……施設」

 見出しの部分だけでどんな場所か直ぐに分かった。気を引き締めて続きを読んでいく。内容は前回と同じようなものだった。特に劇をして欲しいって向こうからお願いされている。前回行った劇の評判が伝わってたのかな?
 それにしても劇か。前回は麗華のピアノがあったからよかったけど……どうしたものか。綾音が浮かんだけど、そればっかりは違う。これは僕に与えられてた試練なんだ。他の人からしてみれば違うかもしれない、だけど僕にとってはこれ以上ない機会だった。
 ここで麗華に、彼女にしか出来ないことを改めて気付いてもらおう。でも、それがどんなことなのか全く分からない。これは博打にしかならないだろうけど、とにかく出来ることをしてみよう。
 そのためにはまずは睡眠からだ。腕を組み眠りやすい態勢になる、そうするとあっという間に睡魔が僕を襲ってくる。だからそのまま流れに身を任せてしまえばいい。

「やあ一井さん」

 学校という場所じゃなかったら思う存分寝ていたけど、あいにくここは学校。スケジュールに基づいて何やらが執り行われているから結局、睡眠は途切れ途切れになってしまう。そうして記憶が曖昧のまま放課後を迎え、僕は早速、一井さんの所に赴いて例の件について相談を持ちかけた。
 
「どうしたの羽野くん? 何か奢ってくれるの」
「まあ、遠回しに言えばそうなるね」
「え? なになに! どんなの奢ってくれるの!?」
「あれを頼まれたんだ」
「……あれ、か。いいよ。手伝ってあげる、そんで今日はどんな内容なの?」
「今回は前回と同じように劇をすることになったんだけど、ちょっとお願いしたいことがあってね」

 僕の願いを聴いて小雪は微笑みながら、「大変だね」と云った。


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 麗華の捨てられないものなんて、決まっていてそれに対して本人がどう折り合いを付けていくかが問題なんじゃないんだろうか。そりゃ誰だって大切なものを持っているさ。だけど、失う。そんなのは当たり前のことなんだ。
「それを乗り越えてみんな生きているんじゃないかな?」
「私だって思うわよ。でもそれって失うことを前提としている弱者の思考なのよ。ある哲学者はそれを奴隷道徳と言ったわ。それと同時に希望もね。まあ結局、私にとっては嘘だったのよ」
「僕だって失ってきたよ。失うなんて僕が口にしてはいけないんだけど……それでも、僕は変わっていかなくちゃって思えた」
「ピアノが全てだった。生まれてきて、たくさん与えられてきたものの一つだったけど、それは神様からのギフトで。私には特別な才能があった。それから才能を伸ばすだけに時間を使ってきた、だけど私はそこで弾く楽しさが消えたのよ」
「それでも続けたの?」
 首を振った次に僕を指さした。彼女ほどの才能がある人が僕のような凡人に影響を受けていたっていうのか? にわかに信じがたい。だって僕と麗華が会ったことがあるのは幼い頃と、今だけだ。
「芳が聴いてくれたから。ただそれだけで十分弾く理由になったのよ。あの引っ越しがなければ、私は今みたいな才能に目覚めていなかったのも確かなのだけど」
「そっか。それで麗華は僕と再会した時に覚えていてくれたんだね」
「大切だったからよ。でも私はピアノすら失った、何もない人になったのよ。そんなことない、なんて言葉はいらないわ。私が私を思う時になくしてはならない物を失ってしまったから。でもあなたはそれを見抜いてたのよね。だから私にあんなことを言ってくれたのよね」
 あんなこと……僕が勝手に勘違いして行ったあの言葉。今、麗華と会話して少しずつ考えがほぐれていった。あの行動をしてもよかったんじゃないかって思え始めてきた。
「見抜いたわけじゃないよ。僕の経験がそうさせてしまっただけだ。だから僕にとって最低で最悪な行為なんだよ」
「そうでしょうね、私はすっかり騙されてしまったわ。不満があるのはもちろんよ。でもあなたが完全に嘘を付いていたなんて思わないわ」
「違うよ」
「あなたはそういうでしょうね。弾くことが出来なくなったのを隠すようにしたあの告白。あなたはそう考えてしまう。私はもっと酷いわよ。だって、私は何もない人よ。そう分かってしまったから、だから……あなたがそうしてくれたことがかえって辛いのよ。あなたは善意で助けるようにしていたと気づく前に私は本当だと勘違いして、それも結局は才能に変わりなくて。やっぱり芳は優しくて。私は何も持っていなくて」
「善意じゃないよ、あれは僕のふざけた正義感。過去に似たことがあったから、そうしなくちゃならないってみんなが褒めるような道徳に過ぎないんだよ」
「だからよ。私のこれまでがより空っぽになってしまったのは。考えるにしてもピアノが前提にあった。それはピアノが出来ないからしたくないや、出来ないなんてワガママを受け入れてくれる環境だったから、いっそう私は何もないのよ。あの子だって私と同じように生きてきたはず。だけど、ピアノ以外がきちんとあったのよ。それが丸々全部! 私にはない! 同じ年なら知っていることも、経験することも、全部全部! 切り離してしまったの! ……だからあなたとの思い出が大切だったの」
「未練はないってこと……?」
「ええ、そうよ。弾けなくなることが哀しいんじゃないわ。私にはピアノだけしかないって、弾けなくなってようやく分かったのよ。それがどうしても惨めなのよ。芳は惨めな私を見抜いて手を差し伸べてくれる。でもね、私はそれでいいんだって思えてしまったのよ。これがどういうことか分かる?」
 ずっと窓の外を見ていた麗華が射抜くような視線で僕を見つめてくる。そんなことを言われても分からないよ、なんて口には出来ない。人生がピアノと共にあり、それを失って何も残らなくなった麗華が新しい道を発見できる機会だったんじゃないのか?
「……満足してしまうってことはね、私のピアノが代替可能なものだったってことなの。芳は簡単に捨てられないものってあるんでしょう? でも失いたくないって思いながら、私はあの瞬間には置換されていたのよ。これまでの人生が、あっという間に簡単に。恋心一つで。捨ててきた人生をすげ替えることが出来てしまったのよ」
「誰だってそうだよ。見たくないものには目を逸らして生きていっている。麗華だってそうなんだよ。ピアノが出来なくなるなんて思ってもみなかったから、いざその現実を目にすると怖いんだよ。簡単に変わってなんかいない。そうしないと壊れてしまうから。僕だってそうだったんだ……」
「あなたはどこまでいっても優しいのね。でもね、それすら持っている人の言葉なのよ。他のものを持っていない私は過去のものにしか目を逸らせない。それがあなた、芳なのよ。きっと誰だってよかったのよ。芳じゃない別の誰でも。ただ、私の知る世界はちいさくて、手に届くものがちょうどあなただったから。それだけなのよ。なのに、私はあなたを縛り付けるようにしてしまった。きっと芳は過去に似た経験をしているから手を差し伸べてくれた。こっちの世界に引きずり込んでしまったのよ」
「そうじゃないよ。どれもこれも僕が不甲斐ないから起こったことなんだよ。僕にもう少し力があれば、あんなことは起こらなかった。だけど結局起きてしまったんだよ」
 あの時、さくらのことをもっと見ていたら変わっていたかもしれない。握る手に力が入って爪が食い込んでしまう。冷ややかな風を額に受け、汗をかいていることに気付いた。
「どうして芳はここに来たの?」
「どうしても来たくなったからだよ。いや、僕も言わなくちゃならないことがあってここに来たんだよ」
「もう、何も言わなくとも分かっているわ。それでも聞かせてちょうだい」
「僕は麗華に嘘を付いていたんだよ。それは君も知っている通りのことで僕は麗華に恋心を抱いてはいないんだよ。別に嫌いってわけでもない。ただ分からないって感覚。だけど問題は動機だったんだよ。君がさくらのように、僕の妹のように見えたから、どんなことをしてでも助けなくちゃって考えなしにしたんだ」
「……そう。芳の妹、今はどうなのかしら?」
「少しずつ歩み始めたよ。それが正しいことかなんて分からないけど、ただ時間は着実に動き始めた。停滞していたって意味じゃない。循環から抜け出したようなものなんだよ」
「そうなのね、それはよかったわ。やっぱり持っている人の力は強いわね」
「麗華だって持っているさ。僕はずっと何も出来ないでいたんだから」
「いいえ、私をどんな形であれ助けてくれたじゃない」
「さくらが進んだからだよ。僕一人じゃ駄目だよ」
「ねえ、芳。もう一つだけ教えてくれないかしら?」
 席を立ち僕も元までゆっくりと歩み寄る。やはりその揺れる艷やかな髪と整った顔立ちと窓の外にある月の姿は幻想的で、一枚の絵として彼女がいるように思ってしまう。
「私がいなくなったら、困る?」
「だから来たんだよ」
「ありがとう、だったらもう少しだけ後にしておくわ」
 そのまま麗華は部屋を去っていった。解決したのか曖昧なまま流れた時間だけど、一つ区切りがついた。好転したわけじゃないことは分かっている。だけど、現状維持でもないことは確かなんだ。だから僕は彼女に僕の知る小さな世界を一緒に見ていきたいと思った。
 太陽が空の頂点に届こうとしている中、僕は教師の言葉を聞き流しながら机に突っ伏していた。
 昨日、夜に旧音楽室で麗華と会話してからまだ寝ていない。ずっとあれやこれやと考えていたらいつの間にか陽が昇り始めていた。
 彼女は何も持っていないと自分を卑下していたけど、僕にはやっぱりそうは思えない。過去にあるものに縛られていると言っていたけど、それは違う。手に届くような、身近なものにしか目が行き渡っていないだけなんだ。彼女はピアノ以外のものを持っている。どうすれば伝わるのか。ああ、それにしても頭が回らない。
 微睡む意識の中で一つ、手触りが確かにあるものがあった。それを手繰り寄せるとすんなりとまとまった思考になっていく。けど、その前に少しだけ眠ろう、後からでも遅くはない。
「羽野、起きろ」
 身体を揺すられて目が醒めた。声をかけているのは岡崎だけどちょっかいをかけるのとは違う調子だ。
「先生からいつものだぞ」
「え? って呼ばれてたの?」
「ああ、呼ばれてたけどお前が寝てるからプリントだけ貰ってお前に渡してくれってな。それにしても今回は何と言うかだな」
「見せてよ。児童……施設」
 見出しの部分だけでどんな場所か直ぐに分かった。気を引き締めて続きを読んでいく。内容は前回と同じようなものだった。特に劇をして欲しいって向こうからお願いされている。前回行った劇の評判が伝わってたのかな?
 それにしても劇か。前回は麗華のピアノがあったからよかったけど……どうしたものか。綾音が浮かんだけど、そればっかりは違う。これは僕に与えられてた試練なんだ。他の人からしてみれば違うかもしれない、だけど僕にとってはこれ以上ない機会だった。
 ここで麗華に、彼女にしか出来ないことを改めて気付いてもらおう。でも、それがどんなことなのか全く分からない。これは博打にしかならないだろうけど、とにかく出来ることをしてみよう。
 そのためにはまずは睡眠からだ。腕を組み眠りやすい態勢になる、そうするとあっという間に睡魔が僕を襲ってくる。だからそのまま流れに身を任せてしまえばいい。
「やあ一井さん」
 学校という場所じゃなかったら思う存分寝ていたけど、あいにくここは学校。スケジュールに基づいて何やらが執り行われているから結局、睡眠は途切れ途切れになってしまう。そうして記憶が曖昧のまま放課後を迎え、僕は早速、一井さんの所に赴いて例の件について相談を持ちかけた。
「どうしたの羽野くん? 何か奢ってくれるの」
「まあ、遠回しに言えばそうなるね」
「え? なになに! どんなの奢ってくれるの!?」
「あれを頼まれたんだ」
「……あれ、か。いいよ。手伝ってあげる、そんで今日はどんな内容なの?」
「今回は前回と同じように劇をすることになったんだけど、ちょっとお願いしたいことがあってね」
 僕の願いを聴いて小雪は微笑みながら、「大変だね」と云った。