散歩道の消失点
ー/ー ー*ー*ー*ー
夕まぐれ 犬だけが知る 道の先
現実はまだ 追いつけずいて
ー*ー*ー*ー
柴犬のハチが立ち止まったのは、いつもの公園へ続く遊歩道の入り口だった。
リードを引く私の手に応じず、ハチは低く唸り声を上げている。鼻先に皺を寄せ、路上の「何か」を執拗に嗅いでいた。
「どうしたの、ハチ。早く行かないと日が暮れちゃうよ」
時刻は午後五時。
夕焼けが住宅街をオレンジ色に染めているが、ハチの視線は前方の一点から動かない。
普段なら近所の猫を追いかける元気な彼が、今は尻尾を股の間に巻き込み、震えていた。
私はハチが凝視する先を見た。
そこには、何の変哲もないアスファルトの道が続いているだけだ。街灯が等間隔に並び、遠くで子供たちの遊ぶ声が聞こえる。
だが、ハチは頑なに一歩も進もうとしない。それどころか、じりじりと後退りし始めた。
その時だ。私の鼻腔を、妙な匂いがかすめた。
それは、雨上がりの土の匂いに、錆びた鉄のような生臭さが混じった、嗅いだことのない異臭だった。
おかしい。
視界の端で、街灯の影が不自然に伸びている。太陽の位置からすれば、影は右側に落ちるはずなのに、足元の影はすべて遊歩道の奥、ハチが怯えている方向へと吸い込まれるように伸びていた。
「ハチ……?」
嫌な予感がして、私はスマホを取り出し、地図アプリを開いた。現在地を示す青いドットが、激しく点滅している。
ふと前方に目を戻すと、そこを歩いていたはずの老夫婦の姿が消えていた。
数秒前まで、確かに十メートルほど先をゆっくり歩いていたはずなのに。
私はようやく理解した。ハチが怯えていたのは「敵」ではなく「欠落」だったのだ。
遊歩道の先、空間がわずかに波打っている。そこにはもう、街も、公園も、現実も存在していない。ただ、景色を模した「書きかけの背景」のような何かが、だらりと垂れ下がっているだけだった。
「帰ろう、ハチ!」
私は短く叫び、リードを強く引いた。ハチは待ってましたと言わんばかりに、脱兎のごとく来た道を駆け出した。
背後で、パリン、と薄いガラスが割れるような音がした。振り返る勇気はなかった。
翌朝、昨日の遊歩道は、老朽化による「陥没の恐れ」を理由に、高いフェンスで完全に封鎖されていた。
ハチは二度と、その道の方へ行こうとはしなかった。
ー*ー*ー*ー
立ち止まる その鼻先に 欠けた街
名前のない穴 風だけが鳴る
ー*ー*ー*ー
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