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3 スナリス

ー/ー



 風がない朝には、天幕(テント)の外に毛織の絨毯(じゅうたん)を敷いて、冷たい空気を楽しみながら朝食をとった。慣れれば夜明け前に起きるのも苦ではなく、東のアズラ砂漠が白み、西の台地の上に残った星が小さく消えていく様子を眺めながら飲むコーヒーは美味しかった。

 幼い頃、母の友人の天幕(テント)で過ごした日を思い出す。自分たちの出自を忘れないため、形だけだが王族の者は遊牧の民(ワラフ)の暮らしを経験するのだ。街に帰らなくてもいい遊牧の民(ワラフ)の子供たちが、どんなに羨ましかったか。

 北にはタラム・ジャラムの岩山のギザついた稜線が寝そべり、それは西へと続き、幾重もの岩山を越えてワディ・アルマカのダムへ繋がっている。タラム・ジャラムの手前の砂漠には地面から突き出た岩が多く、竜駝(ティンタム)の囲いはその一角に作られていた。一方、羊の囲いは天幕(テント)を挟んだ南側、サルームとその手前の農地が見える方向に設けられている。

 東の砂漠側の地平線は見事に真っ直ぐだが、一か所だけ、三角の棘のような黒い岩が突き出ていた。それが岩ではないと気付くまでに何日か過ぎていたので、膝を抱えたアシュタルテの姿だとわかった時、シャールはとても驚いた。本当に、ピクリとも動かないのだ。

 気付いたのは昼食の時だったが、

「いったい何をしているのだ?」

「日に当たっているらしいよ。暑いのが好きらしいねえ」

 シャールの疑問に、ナツメヤシの葉を敷いて食事の支度をしていたギルヒバが事も無げに答えた。

 昼間、砂漠に放置されれば、わずかな間に干上がってしまう。しかしアシュタルテは水も飲まないという。夜になると、いつの間にか焚火の傍にいることもあった。ここに来た最初の夜、掌(てのひら)に穴の空いた左手を焚火に突っ込み、傷口が塞がっていくのも見た。

「本当に人ではないのだな……」

 ギルヒバが笑った。

「今頃かい! どう見ても魔女神(ジーニヤ)じゃないか」

「その魔女神(ジーニヤ)がどうしてこの家に居るんだ?」

「あれが盗賊に追われているところを、キリクが助けたそうだ。それで恩に着てるらしい」

「ふーん……で、魔女神(ジーニヤ)は恩返しに何をしてくれるのだ?」

「何もやってくれないねえ……腕は立つようだから、番犬代わりか。食べなくていいんだから悪かないよ」

 遊牧の民(ワラフ)の食事は質素で、朝はカルダモンを効かせたコーヒーと羊のチーズ、昼は野菜の煮込み料理などとパンを食べ、夕食は昼の残りをつまむ程度だ。

 朝のコーヒーは家長のヤザンが淹れてくれる。ヤザンは中肉中背だが、キリクよりも少し背が低い。細面の顔の下半分を、白髪交じりの短い髭が覆っている。無口で伏し目がち。いつの間にか来ていて、気付けば消えている。

 キリクの家族は、食事時でもあまり会話をしなかった。時間になると集まって食事をし、終わるとそれぞれの仕事に戻っていく。

 放牧の仕事があるキリクとは顔を合わせる機会が減り、会っても他の家族が一緒なので、ほとんど話すことができなかった。

 ようやく人のいない時を見計らい、気になっていたことを尋ねてみた。

「また王宮に侵入するつもりか?」

 キリクの返事は素っ気無かった。

「いや、あんな危ない目はこりごりだぜ」




 水汲みは近くの畑の用水路まで行く。

 王宮を脱出した夜に体を洗うのに利用した水甕(みずがめ)と同じようなものが、大きな畑には設置されているのだ。一番近い水甕(みずがめ)まで往復半サード(約三十分)。大した距離ではないが、水を汲んで戻る道のりは、やはりきつい。

「どうして竜駝(ティンタム)を、いや駱駝(らくだ)を使わないのだ?」

 シャールがナディヤに尋ねると、

「駱駝(らくだ)は放牧に使ってるわ。竜駝(ティンタム)は戦士の乗り物だから……と父は言っているけど、本当はすぐに暴れるから。それに二本足だから、駱駝(らくだ)驢馬(ろば)ほど重いものを乗せられないし」

「そうなのか? 以前二人乗りをしたが……」

「そのくらいが限度ね。大人二人乗ったら、荷物は載せられないわ。でも水場がこれ以上遠くなったら使ってしまうかも」

 絞って輪にしたドゥループを頭に載せ、その上に水瓶を据えるが、両手で支えていないとグラついてしまう。シャールは首の痛みと腕の疲れに耐えて何とか運ぶのだが、ナディヤは頭に水瓶を載せたまま手を添えることもなく、腕にはもう一つ小振りの水瓶を抱えて歩いた。その状態で話しかけてくるのだが、シャールに答える余裕があるのは、往路の時だけだ。

 水汲みは一往復では終わらない。家族全員がその日に使う量の水を運ぶのに、シャールが手伝っても二往復、ナディヤ一人なら三往復は必要だった。

「女王様ってどんな人かしら?」

 水場に向かう二往復目、ひび割れた固い地面を歩きながら、ナディヤが言った。雨季の直後は砂漠が草原に一変するが、ひと月も経てば手近な草は羊に食べつくされ、男たちはだんだん遠くの草場へ放牧に行くようになる。

「……どんな人だと思う?」

 ナディヤは、シャールのことを「女王の侍女シャリマ」だと思っているはずだ。どう答えればいいか迷ったシャールは、問い返してみた。ナディヤは空の水瓶を頭に載せたまま肩をすくめる。

「意地悪な女だと思うわ」 

「な、なぜ?」

「だって、サルームの人々のことを思って進言したサリマ様を、鼻削ぎの刑にしたのよ?」

(サリマ様?)

 兄とはいえ、予言者だから気安くは呼ばないのか?

「アシュタルテが助けたので、刑は行われなかったのだろう?」

(実際に刑が執行されていたら……おそらく、キリクやナディヤはわたしを助けなかっただろう。いや……侍女だから助けたか?)

「もし本当に鼻を削がれていたら、わたしは許さなかったわ」

 言葉とは裏腹に、ナディヤの声は変わらず穏やかだ。

「許さなければ、どうするのだ?」

「竜駝(ティンタム)に喰わせます。女王様の鼻を」

(まさか、わたしが女王だと気付いているのか?)

 だが、ナディヤは子供っぽくペロリと舌を出して言い足した。

「お城に戻っても、女王様には内緒ですよ」




 小麦は腰ほどの高さで、出始めの穂はまだ軽く上を向いていた。

 遠くに畑を見回る農夫が見える。農地の持ち主に雇われた男で、こちらに手を振って挨拶していた。水場の利用は無料(タダ)ではなく、農地の所有者と契約して使っている。農地の所有者もまた、国王と用水路の利用契約を結び、使用料として収穫の一部を納めている。

 畑の中から、ぴょこっと丸いものが持ち上がった。斑の毛並みは地面と同じ色合いで、小麦が生えていなかったら見分けられなかっただろう。

(スナリス……?)

 言葉にする前に、小麦の穂先をかすめるように飛来した黒いものが、小柄な獣の首に突き刺さった。

 ギャウッ!

 黒いものには紐が付いており、地面の穴に逃げ帰ろうとしたスナリスが、激しく身を(よじ)りながら引きずり出される。イタチぐらいの大きさだが、顔はネズミに似ている。

 死んではいない。首に刺さったものが外れ、逃げられそうになった時、別の方向からもう一つ黒いものが飛んできて、今度はスナリスの顎の下あたりに突き刺さった。

 がばっと二つの姿が畑に現れる。土色のチャフィーブを着て、同じ色のドゥループで頭を覆っている。

 一人が紐を引っ張り、もう一人がスナリスに駆け寄った。

「ハキムとマリヤムじゃないか」

 後から黒いものを投げ、今その紐を引いているのが、双子の女の子マリヤムだ。傷つき暴れるスナリスの引く強さは八歳の子供の手には余るようで、体が大きく揺れ、ドゥループが頭から外れている。黒髪が首元まであるのがマリヤムの目印で、男の子のハキムは同じ黒髪だが短く刈っている。

 スナリスに飛びついたハキムが、小さい短剣(シャンビヤ)(とど)めを刺した。

 ハキムがスナリスの尻尾を持って掲げ、こちらを見た。ナディヤが手を振る。

 こちらに来るのかと思いきや、ハキムは遠くにいる農夫の方へ畑の中を走っていく。

「畑の持ち主にあげるのよ」

 尋ねる前にナディヤが答えた。スナリスが小麦の根を食べるので、農夫に頼まれて捕まえているそうだ。それも水場の契約の一部らしい。

 昼食にスナリスが食べられると思ったシャールは、がっかりした。そろそろ肉が食べたかった。スナリスの肉は脂が多くて匂いにクセがあるが、クミンと岩塩を()りこんで焼肉にすると、たまらなく美味しい。

 王宮では毎日のように羊肉を食べていたが、ギルヒバの天幕(テント)では、ほとんど肉を食べない。育てた羊はあくまで商品で、羊を売って小麦やナツメヤシや野菜を買い、それと羊や駱駝(らくだ)の乳を加工したものが、遊牧の民(ワラフ)の主食だった。

 一度だけモロヘイヤの煮込みで羊を食べた。煮溶けた粘り気のある汁をパンで(すく)って食べるのだが、思い出すだけで唾が出る。




 マリヤムがこちらにやってくる。

 腰紐にもう一匹のスナリスの尻尾を挟み、引きずっているのを見て、シャールは内心喜んだ。

「すごいじゃないか、マリヤムとハキムは狩りの名人だな」

 シャールが褒めても、マリヤムの表情は変わらない。卵型の顔で目が細い。鼻と口が何だか小さい。

「スナリスなんか簡単。もっと殺せたけど、一度に捕り過ぎるのは良くないって言われてるから」

 表情には出ないが、自慢しているのかもしれない。

 マリヤムの手には奇妙な道具があった。白い何かの骨にツヤのある薄黄の糸が巻き付いている。糸の先端には星形の尖った鉄片があり、真ん中に空いた穴に糸が結わえられていた。スナリスに突き刺さった黒いものは、その鉄片だった。

「変わった道具だ、見せておくれ」

 シャールが頼むとマリヤムは気乗りがしない様子だったが、ナディヤの顔を見てから渋々といった様子で渡してきた。

 骨で出来た持ち手は軽い。糸は想像より硬く、巻いた部分を押すとバネのように跳ね返った。星形の鉄片は全ての(ふち)が刃物のように研がれ、軽く触れただけで指が切れそうだ。

(子供には危なそうだが……)

 元々は武器や農具などに興味のなかったシャールだが、即位後は関心を持つようにしている。道具一つで生産性が大きく変わることを知ったからだ。

「東方の国で使われる武器だそうよ。糸は羊の腸で出来ているの」

「首も絞められるぞ」

 ナディヤの説明をマリヤムが補足する。

 武器の名は『五芒旋(ウブ・カース)』というそうだ。ナディヤが武器の使い方などを説明してくれている間に、ハキムも戻ってきてマリヤムの横に立った。

 近くで見るとハキムの方が眉や顎の線に若干硬さがあるが、マリヤムと身長も同じで、髪型の違いがなければ見分けがつかないだろう。

「二人がこんな凄い使い手なら、上の兄姉(きょうだい)たちはどんな名手なんだろうな」

 ハキムとマリヤムが顔を見合わせて、アハハッ、と笑った。

「この子たちが家族で一番狩りが上手なの。誰も敵わないわ。こんな武器、わたしは怖くて使えない」

 ナディヤも笑う。

「ウチの家族は皆、得意なことが違っているの」

「では、ナディヤの得意なことは何だ? 家事か、それとも竜駝(ティンタム)の操縦か?」

「竜駝(ティンタム)の世話が二番で、羊の毛刈りが三番かしら」

 マリヤムから受け取ったスナリスの尻尾を腰紐に挟み、ナディヤが水瓶をすいっと持ち上げて頭に載せた。ハキムとマリヤムはそれぞれ自分の五芒旋(ウブ・カース)を腰紐に差し、二人で一つの水瓶を持った。

 シャールは自分の分の水瓶を恨めし気に見下ろしてから、気合いを入れて頭上に持ち上げた。

「それじゃあ……一番は……?」

 ふらつく。やはり会話は厳しい。

「それは内緒」

 ナディヤは、すたすたと滑るように歩いていく。


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 風がない朝には、天幕《テント》の外に毛織の絨毯《じゅうたん》を敷いて、冷たい空気を楽しみながら朝食をとった。慣れれば夜明け前に起きるのも苦ではなく、東のアズラ砂漠が白み、西の台地の上に残った星が小さく消えていく様子を眺めながら飲むコーヒーは美味しかった。
 幼い頃、母の友人の天幕《テント》で過ごした日を思い出す。自分たちの出自を忘れないため、形だけだが王族の者は|遊牧の民《ワラフ》の暮らしを経験するのだ。街に帰らなくてもいい|遊牧の民《ワラフ》の子供たちが、どんなに羨ましかったか。
 北にはタラム・ジャラムの岩山のギザついた稜線が寝そべり、それは西へと続き、幾重もの岩山を越えてワディ・アルマカのダムへ繋がっている。タラム・ジャラムの手前の砂漠には地面から突き出た岩が多く、竜駝《ティンタム》の囲いはその一角に作られていた。一方、羊の囲いは天幕《テント》を挟んだ南側、サルームとその手前の農地が見える方向に設けられている。
 東の砂漠側の地平線は見事に真っ直ぐだが、一か所だけ、三角の棘のような黒い岩が突き出ていた。それが岩ではないと気付くまでに何日か過ぎていたので、膝を抱えたアシュタルテの姿だとわかった時、シャールはとても驚いた。本当に、ピクリとも動かないのだ。
 気付いたのは昼食の時だったが、
「いったい何をしているのだ?」
「日に当たっているらしいよ。暑いのが好きらしいねえ」
 シャールの疑問に、ナツメヤシの葉を敷いて食事の支度をしていたギルヒバが事も無げに答えた。
 昼間、砂漠に放置されれば、わずかな間に干上がってしまう。しかしアシュタルテは水も飲まないという。夜になると、いつの間にか焚火の傍にいることもあった。ここに来た最初の夜、掌《てのひら》に穴の空いた左手を焚火に突っ込み、傷口が塞がっていくのも見た。
「本当に人ではないのだな……」
 ギルヒバが笑った。
「今頃かい! どう見ても魔女神《ジーニヤ》じゃないか」
「その魔女神《ジーニヤ》がどうしてこの家に居るんだ?」
「あれが盗賊に追われているところを、キリクが助けたそうだ。それで恩に着てるらしい」
「ふーん……で、魔女神《ジーニヤ》は恩返しに何をしてくれるのだ?」
「何もやってくれないねえ……腕は立つようだから、番犬代わりか。食べなくていいんだから悪かないよ」
 |遊牧の民《ワラフ》の食事は質素で、朝はカルダモンを効かせたコーヒーと羊のチーズ、昼は野菜の煮込み料理などとパンを食べ、夕食は昼の残りをつまむ程度だ。
 朝のコーヒーは家長のヤザンが淹れてくれる。ヤザンは中肉中背だが、キリクよりも少し背が低い。細面の顔の下半分を、白髪交じりの短い髭が覆っている。無口で伏し目がち。いつの間にか来ていて、気付けば消えている。
 キリクの家族は、食事時でもあまり会話をしなかった。時間になると集まって食事をし、終わるとそれぞれの仕事に戻っていく。
 放牧の仕事があるキリクとは顔を合わせる機会が減り、会っても他の家族が一緒なので、ほとんど話すことができなかった。
 ようやく人のいない時を見計らい、気になっていたことを尋ねてみた。
「また王宮に侵入するつもりか?」
 キリクの返事は素っ気無かった。
「いや、あんな危ない目はこりごりだぜ」
 水汲みは近くの畑の用水路まで行く。
 王宮を脱出した夜に体を洗うのに利用した水甕《みずがめ》と同じようなものが、大きな畑には設置されているのだ。一番近い水甕《みずがめ》まで往復半サード(約三十分)。大した距離ではないが、水を汲んで戻る道のりは、やはりきつい。
「どうして竜駝《ティンタム》を、いや駱駝《らくだ》を使わないのだ?」
 シャールがナディヤに尋ねると、
「駱駝《らくだ》は放牧に使ってるわ。竜駝《ティンタム》は戦士の乗り物だから……と父は言っているけど、本当はすぐに暴れるから。それに二本足だから、駱駝《らくだ》や驢馬《ろば》ほど重いものを乗せられないし」
「そうなのか? 以前二人乗りをしたが……」
「そのくらいが限度ね。大人二人乗ったら、荷物は載せられないわ。でも水場がこれ以上遠くなったら使ってしまうかも」
 絞って輪にしたドゥループを頭に載せ、その上に水瓶を据えるが、両手で支えていないとグラついてしまう。シャールは首の痛みと腕の疲れに耐えて何とか運ぶのだが、ナディヤは頭に水瓶を載せたまま手を添えることもなく、腕にはもう一つ小振りの水瓶を抱えて歩いた。その状態で話しかけてくるのだが、シャールに答える余裕があるのは、往路の時だけだ。
 水汲みは一往復では終わらない。家族全員がその日に使う量の水を運ぶのに、シャールが手伝っても二往復、ナディヤ一人なら三往復は必要だった。
「女王様ってどんな人かしら?」
 水場に向かう二往復目、ひび割れた固い地面を歩きながら、ナディヤが言った。雨季の直後は砂漠が草原に一変するが、ひと月も経てば手近な草は羊に食べつくされ、男たちはだんだん遠くの草場へ放牧に行くようになる。
「……どんな人だと思う?」
 ナディヤは、シャールのことを「女王の侍女シャリマ」だと思っているはずだ。どう答えればいいか迷ったシャールは、問い返してみた。ナディヤは空の水瓶を頭に載せたまま肩をすくめる。
「意地悪な女だと思うわ」 
「な、なぜ?」
「だって、サルームの人々のことを思って進言したサリマ様を、鼻削ぎの刑にしたのよ?」
(サリマ様?)
 兄とはいえ、予言者だから気安くは呼ばないのか?
「アシュタルテが助けたので、刑は行われなかったのだろう?」
(実際に刑が執行されていたら……おそらく、キリクやナディヤはわたしを助けなかっただろう。いや……侍女だから助けたか?)
「もし本当に鼻を削がれていたら、わたしは許さなかったわ」
 言葉とは裏腹に、ナディヤの声は変わらず穏やかだ。
「許さなければ、どうするのだ?」
「竜駝《ティンタム》に喰わせます。女王様の鼻を」
(まさか、わたしが女王だと気付いているのか?)
 だが、ナディヤは子供っぽくペロリと舌を出して言い足した。
「お城に戻っても、女王様には内緒ですよ」
 小麦は腰ほどの高さで、出始めの穂はまだ軽く上を向いていた。
 遠くに畑を見回る農夫が見える。農地の持ち主に雇われた男で、こちらに手を振って挨拶していた。水場の利用は無料《タダ》ではなく、農地の所有者と契約して使っている。農地の所有者もまた、国王と用水路の利用契約を結び、使用料として収穫の一部を納めている。
 畑の中から、ぴょこっと丸いものが持ち上がった。斑の毛並みは地面と同じ色合いで、小麦が生えていなかったら見分けられなかっただろう。
(スナリス……?)
 言葉にする前に、小麦の穂先をかすめるように飛来した黒いものが、小柄な獣の首に突き刺さった。
 ギャウッ!
 黒いものには紐が付いており、地面の穴に逃げ帰ろうとしたスナリスが、激しく身を捩《よじ》りながら引きずり出される。イタチぐらいの大きさだが、顔はネズミに似ている。
 死んではいない。首に刺さったものが外れ、逃げられそうになった時、別の方向からもう一つ黒いものが飛んできて、今度はスナリスの顎の下あたりに突き刺さった。
 がばっと二つの姿が畑に現れる。土色のチャフィーブを着て、同じ色のドゥループで頭を覆っている。
 一人が紐を引っ張り、もう一人がスナリスに駆け寄った。
「ハキムとマリヤムじゃないか」
 後から黒いものを投げ、今その紐を引いているのが、双子の女の子マリヤムだ。傷つき暴れるスナリスの引く強さは八歳の子供の手には余るようで、体が大きく揺れ、ドゥループが頭から外れている。黒髪が首元まであるのがマリヤムの目印で、男の子のハキムは同じ黒髪だが短く刈っている。
 スナリスに飛びついたハキムが、小さい短剣《シャンビヤ》で止《とど》めを刺した。
 ハキムがスナリスの尻尾を持って掲げ、こちらを見た。ナディヤが手を振る。
 こちらに来るのかと思いきや、ハキムは遠くにいる農夫の方へ畑の中を走っていく。
「畑の持ち主にあげるのよ」
 尋ねる前にナディヤが答えた。スナリスが小麦の根を食べるので、農夫に頼まれて捕まえているそうだ。それも水場の契約の一部らしい。
 昼食にスナリスが食べられると思ったシャールは、がっかりした。そろそろ肉が食べたかった。スナリスの肉は脂が多くて匂いにクセがあるが、クミンと岩塩を擦《す》りこんで焼肉にすると、たまらなく美味しい。
 王宮では毎日のように羊肉を食べていたが、ギルヒバの天幕《テント》では、ほとんど肉を食べない。育てた羊はあくまで商品で、羊を売って小麦やナツメヤシや野菜を買い、それと羊や駱駝《らくだ》の乳を加工したものが、|遊牧の民《ワラフ》の主食だった。
 一度だけモロヘイヤの煮込みで羊を食べた。煮溶けた粘り気のある汁をパンで掬《すく》って食べるのだが、思い出すだけで唾が出る。
 マリヤムがこちらにやってくる。
 腰紐にもう一匹のスナリスの尻尾を挟み、引きずっているのを見て、シャールは内心喜んだ。
「すごいじゃないか、マリヤムとハキムは狩りの名人だな」
 シャールが褒めても、マリヤムの表情は変わらない。卵型の顔で目が細い。鼻と口が何だか小さい。
「スナリスなんか簡単。もっと殺せたけど、一度に捕り過ぎるのは良くないって言われてるから」
 表情には出ないが、自慢しているのかもしれない。
 マリヤムの手には奇妙な道具があった。白い何かの骨にツヤのある薄黄の糸が巻き付いている。糸の先端には星形の尖った鉄片があり、真ん中に空いた穴に糸が結わえられていた。スナリスに突き刺さった黒いものは、その鉄片だった。
「変わった道具だ、見せておくれ」
 シャールが頼むとマリヤムは気乗りがしない様子だったが、ナディヤの顔を見てから渋々といった様子で渡してきた。
 骨で出来た持ち手は軽い。糸は想像より硬く、巻いた部分を押すとバネのように跳ね返った。星形の鉄片は全ての縁《ふち》が刃物のように研がれ、軽く触れただけで指が切れそうだ。
(子供には危なそうだが……)
 元々は武器や農具などに興味のなかったシャールだが、即位後は関心を持つようにしている。道具一つで生産性が大きく変わることを知ったからだ。
「東方の国で使われる武器だそうよ。糸は羊の腸で出来ているの」
「首も絞められるぞ」
 ナディヤの説明をマリヤムが補足する。
 武器の名は『五芒旋《ウブ・カース》』というそうだ。ナディヤが武器の使い方などを説明してくれている間に、ハキムも戻ってきてマリヤムの横に立った。
 近くで見るとハキムの方が眉や顎の線に若干硬さがあるが、マリヤムと身長も同じで、髪型の違いがなければ見分けがつかないだろう。
「二人がこんな凄い使い手なら、上の兄姉《きょうだい》たちはどんな名手なんだろうな」
 ハキムとマリヤムが顔を見合わせて、アハハッ、と笑った。
「この子たちが家族で一番狩りが上手なの。誰も敵わないわ。こんな武器、わたしは怖くて使えない」
 ナディヤも笑う。
「ウチの家族は皆、得意なことが違っているの」
「では、ナディヤの得意なことは何だ? 家事か、それとも竜駝《ティンタム》の操縦か?」
「竜駝《ティンタム》の世話が二番で、羊の毛刈りが三番かしら」
 マリヤムから受け取ったスナリスの尻尾を腰紐に挟み、ナディヤが水瓶をすいっと持ち上げて頭に載せた。ハキムとマリヤムはそれぞれ自分の五芒旋《ウブ・カース》を腰紐に差し、二人で一つの水瓶を持った。
 シャールは自分の分の水瓶を恨めし気に見下ろしてから、気合いを入れて頭上に持ち上げた。
「それじゃあ……一番は……?」
 ふらつく。やはり会話は厳しい。
「それは内緒」
 ナディヤは、すたすたと滑るように歩いていく。