表示設定
表示設定
目次 目次




4 市場

ー/ー



 ナディヤとキリク二人乗りのドニが、前を走っている。二人乗りなのに、気を抜くとすぐに置いて行かれそうになる。その度にシャールは(かかと)でバニの膨らんだ胸元を蹴り、「クォッ、クォッ」と声を掛けて急かすのだった。

 競争しているわけではなく、ドニの手綱を持つキリクは、たぶん普通の速さで走らせている。バニを乗りこなせないシャールが遅いだけだ。

 この数日で、シャールは大人しいバニなら一人で乗れるようになっていた。竜駝(ティンタム)は、口輪に繋がる手綱と胸元に伸ばした両足、そして掛け声を使って操作する。その背は傾いているため、騎乗の時に自然と体が()け反ることに慣れが必要だが、手綱の使い方は駱駝(らくだ)と大差ない。駱駝(らくだ)に乗れる者なら、訓練すれば誰でも乗れるようになるはずだ。

 だが「乗りこなす」となると別の話で、竜駝(ティンタム)は前後や上下に大きく揺れるため、その動きに乗り手が合わせないと、竜駝(ティンタム)に負担が掛かり速く走れない。自分でも動きにズレがあるのがわかっているが、わかっていても修正出来なかった。

 小麦畑の外側をなぞるように、天幕(テント)のあるサルームの北東から北西へと向かっていた。畑のむこうに、サルーム郊外の市街が熱気で揺らいで見える。その先には城壁代わりの高層建物、奥には更に高い大厦(たいか)に囲まれた王宮が、紺碧の空にそびえている。昼が近いので日差しは強く、王宮の漆喰の壁が白く輝いていた。

 畑のこちら側にも建物がちらほらと増え始め、ドニの走りが緩やかになったので、シャールはその横に並ぶことができた。

「シャリマさん、凄いじゃない!」

 ナディヤが声を掛けてくれる。その後ろでドニを操るキリクが、

「何が凄いんだ?」

 前を向いたまま言った。

「シャリマさんは、今日初めて遠乗りしたのよ」

「乗るだけなら誰でもできるさ。バニの口輪を()めたのはナディヤだろ?」

 キリクの素っ気無い口調にシャールはムッとしたが、言ってることは正しい。

 ナディヤによれば、竜駝(ティンタム)の扱いで一番危険で難しいのは口輪を()めることで、二番目は口輪を外すこと、だそうだ。そう説明してくれた時、彼女は長い髪をかき上げ、左右の耳を見せてくれた。右の耳には豊かな耳朶(みみたぶ)があるのに、左の耳には耳朶(みみたぶ)が欠けていた。

「バニに食べられちゃった」

「バニは大人しいのに?」

「ええ、だから油断しないで」

 ビクビクと気を張りながらバニに騎乗しているシャールには、まだ口輪の()め外しはできない。これができなければ餌を食べさせることができないので、竜駝(ティンタム)乗りとしては半人前以下だ。しかし、今まで天幕(テント)の周辺しか走らせたことがなかったシャールにとっては、市場(スーク)までの遠乗りは大きな成果だった。




 市場(スーク)はサルームの北西のはずれにある。タラム・ジャラムの岩山が迫り、日が陰りやすく、礫(れき)が多くて農地に向かない場所だ。

 サルームの門内には正式な市場(スーク)があるが、そちらは貴金属や宝石、服飾、香料や香水を商う店が多い。生活に必要な食料や日用品を扱う店もあるが、全般に高価で質の良いものを揃えている。街路に沿ってきっちりと区画が決められ、店の主が払う賃料も安くないので、高級品を扱う店でないと成り立たないのだ。

 庶民は、もっぱら郊外の市場(スーク)へ行く。乳香や没薬(ミルラ)などの高級品はこちらにはないが、日々の料理に使う香辛料や食材はこちらの方が豊富で安い。郊外の市場(スーク)は幾つかあるが、この北西の市場(スーク)は王宮から一番遠い。

 市場(スーク)に来たのは、今朝マリヤムとハキムが捕まえたスナリスを売るためだ。残念ながら昼食にスナリスの焼肉を食べることは叶わず、ギルヒバの一声で売ることになった。

 ミント入りのお茶を飲んでひと休みしていたところに、放牧地からキリクが戻ってきたので、交渉上手だというキリクに行ってもらうことになった。竜駝(ティンタム)に乗る練習も兼ねて、シャールとナディヤも同行することにしたのだ。

 昼食まで休むつもりだったキリクは嫌そうだったが、

「昼飯用に売らなきゃ値が下がるよ!」

 そうギルヒバに言われると逆らえない。




 郊外の市場(スーク)は、シャールには初めての場所だった。

 竜駝(ティンタム)を連れて市場(スーク)には入れないので、ナディヤと竜駝(ティンタム)たちは市場(スーク)の外で留守番だ。

「あんたも待っててくれ」

 キリクがシャールに言ったが、ナディヤがそれを断る。

「だめよ、キリクが代金を誤魔化さないように見張ってて」

 市場(スーク)は仮設の小屋が寄り集まっただけの簡素な作りなので、決まった入口があるわけではない。ただ、昼食用のパンや串焼きを売る店など、屋台が並び始める辺りから市場(スーク)になるようだ。人も大勢行き交っている。

「うまそうだな……」

 羊肉の脂とザアタルが焦げる匂いに、つい言葉が漏れる。それを聞きつけた屋台の男が、はじけるような笑顔で勧めてくる。

「美人のお姉さん、お昼にどうだい? ウチのザアタルは他所とは違うよ! 味見は無料(タダ)だ!」

 ザアタルは、乾燥したオレガノやタイムなど香草と香辛料、塩を混ぜた調味料で、様々な料理に使うが、ここでは肉に振りかけていた。店によって配合を工夫し味を競っているそうだ。

「え? 味見は無料(タダ)?」

 思わず足を止めたシャールの腕をキリクが引っ張り、にっこり笑顔で屋台の男に手を振る。

「また、今度な」

「なんだ、キリクの知り合いか」

 熱が引くように屋台の男の笑顔が消える。

「無料(タダ)のわけねーだろ」

 屋台から離れてから、キリクが小声で(ささや)く。

「嘘なのか?」

「半分な。味見の後、何本か倍の値段で買えば、味見の分は無料(タダ)さ」

「むぅ……」

「あんたトロそうだから、おれがいなきゃ五倍の値段を吹っ掛けられてたかもな」

「われのどこがトロそうじゃ!」

 思わず語気を強めたシャールを、キリクは笑った。

「そういう偉そうな言い方とかが、さ」

 人を掻き分け、二人は市場の奥へ進んだ。

 市場では顔を知られているようで、時々キリクには知り合いから声が掛かった。その度に如才のない返事をし、シャールには見せたことのない抜群の笑顔を振り撒いた。

「キリクは、わたしが嫌いか?」

 前を歩くキリクの背中に、シャールは問い掛けた。少し間を開けて、キリクは振り返らずに答えた。

「金持ちや偉そうな奴は全員嫌いだね」

「なぜ金持ちが嫌いなのだ?」

「楽して稼いで美味いもの食ってるからさ。おれたちが地面を這い回って、その日死なない程度の小銭しか稼げないってのに。おれたちが一生口にできないようなお菓子を、綺麗な指でつまんでる女を見るとムカつくよ」

「……そんなに貧しかったのか?」

 キリクがハッとした顔で振り返る。

「昔のことさ。今はそこまでじゃない」

 シャールには貧しさがわからない。食べ物の苦労などしたことがない。人には身分があり、貧富の差は当然のものと思っていた。もちろん自国の民が餓えて死ぬほど貧しくてもよいとは思っていない。そのため定期的にパンの配給を行い、裕福な者には(ほどこ)しを勧めている。

(それでは足りないのか?)

 シェルバは豊かな国だ。だが富は、交易や農地の利権を持つ者に集中している。

「わりぃ、あんたの指も綺麗だけど、お城で働いてたんだよな。王宮なんて我儘(わがまま)な連中ばっかりで、楽な仕事じゃないだろ?」

 キリクは頭を掻き、苦笑いを浮かべた。

「シャール様は我儘(わがまま)ではないぞ。公明正大で立派なお方だ」

「へー、そう? だといいけどな」




 肉屋の大柄な女主人が、ナツメヤシの葉を編んだ団扇(うちわ)で、肉にたかるハエを払っていた。

 キリクは団扇(うちわ)を持った無骨な手に自分の手を添え、耳もとで何やら(ささや)いている。そのうち、手を握り合ったまま団扇(うちわ)を持ち上げ、自分たちの顔を隠した。

 店先で待つように言われていたシャールだったが、肉を眺めるのにも飽きて、足音を忍ばせて店の裏手へ回ってみた。店といっても、四角い骨組みを麻布で囲っただけの小屋なので、布越しに二人の声が聞こえる。

 (ささや)きは他愛のない褒め言葉だったが、猫の顎の下を撫でるように女の自尊心をくすぐっていた。

 スナリスの値段が決まったところで、シャールは肉屋の店先へ戻った。

 金の入った革の小袋を懐に入れ、女主人に手を振るキリク。その場を離れてからシャールが尋ねた。

「いくらで売れた?」

「六十」

 銀貨(ディルハム)で六十では高すぎるから、銅貨(ファルス)だろう。

「串焼きはいくらだ?」

 急に何だ? と物問いたげに、キリクがシャールの顔を見る。

「安いとこなら一本四ファルスかな」

「わたしとナディヤに一本ずつ買ってくれ。二十ファルス余るなら、それくらい良かろう」

「聞いてたのか、金持ちのくせにせこいぞ!」

「今は一ファルスも持ってない。ギルヒバには八十で売れたことは黙っておくよ」

 しょうがねえな、と言いながらキリクが歩き出す。

「道が違うぞ?」

 キリクは来た道を戻らない。串焼き屋は市場(スーク)の入口にあったのに。

「市場(スーク)で働いている連中が使ってる店がある。そっちの方が安くて美味い」

 食材を商う店が集まる場所を通り抜け、十字路を右に曲がった時、シャールの足が止まった。

「おお、おお、美しいお姫様、哀れなしもべに、どうかお恵みを……」

 道端に座り込んだ半裸の男が、爪の伸びた汚れた(てのひら)を差し上げ、哀れみを誘う声で言った。日焼けと汚れで体は黒く、痩せてあばら骨が浮いているが腹は出ている。萎(しな)びた顔は老人のようだが、伸び放題の髭は真っ黒で、実際は若いのかもしれない。

「なんだ? 物乞いが珍しいのか?」

 シャールにとっては珍しい。父王の時代にサルーム門内の物乞いは一掃され、見かけることは無くなっていた。王位に就いた後、国内を視察して回ったことがあるが、その途上で目にしたことはある。だが今目の前にいる物乞いは、彼らとは違った。

 鼻がないのだ。



スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 5 銀貨


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 ナディヤとキリク二人乗りのドニが、前を走っている。二人乗りなのに、気を抜くとすぐに置いて行かれそうになる。その度にシャールは踵《かかと》でバニの膨らんだ胸元を蹴り、「クォッ、クォッ」と声を掛けて急かすのだった。
 競争しているわけではなく、ドニの手綱を持つキリクは、たぶん普通の速さで走らせている。バニを乗りこなせないシャールが遅いだけだ。
 この数日で、シャールは大人しいバニなら一人で乗れるようになっていた。竜駝《ティンタム》は、口輪に繋がる手綱と胸元に伸ばした両足、そして掛け声を使って操作する。その背は傾いているため、騎乗の時に自然と体が仰《の》け反ることに慣れが必要だが、手綱の使い方は駱駝《らくだ》と大差ない。駱駝《らくだ》に乗れる者なら、訓練すれば誰でも乗れるようになるはずだ。
 だが「乗りこなす」となると別の話で、竜駝《ティンタム》は前後や上下に大きく揺れるため、その動きに乗り手が合わせないと、竜駝《ティンタム》に負担が掛かり速く走れない。自分でも動きにズレがあるのがわかっているが、わかっていても修正出来なかった。
 小麦畑の外側をなぞるように、天幕《テント》のあるサルームの北東から北西へと向かっていた。畑のむこうに、サルーム郊外の市街が熱気で揺らいで見える。その先には城壁代わりの高層建物、奥には更に高い大厦《たいか》に囲まれた王宮が、紺碧の空にそびえている。昼が近いので日差しは強く、王宮の漆喰の壁が白く輝いていた。
 畑のこちら側にも建物がちらほらと増え始め、ドニの走りが緩やかになったので、シャールはその横に並ぶことができた。
「シャリマさん、凄いじゃない!」
 ナディヤが声を掛けてくれる。その後ろでドニを操るキリクが、
「何が凄いんだ?」
 前を向いたまま言った。
「シャリマさんは、今日初めて遠乗りしたのよ」
「乗るだけなら誰でもできるさ。バニの口輪を嵌《は》めたのはナディヤだろ?」
 キリクの素っ気無い口調にシャールはムッとしたが、言ってることは正しい。
 ナディヤによれば、竜駝《ティンタム》の扱いで一番危険で難しいのは口輪を嵌《は》めることで、二番目は口輪を外すこと、だそうだ。そう説明してくれた時、彼女は長い髪をかき上げ、左右の耳を見せてくれた。右の耳には豊かな耳朶《みみたぶ》があるのに、左の耳には耳朶《みみたぶ》が欠けていた。
「バニに食べられちゃった」
「バニは大人しいのに?」
「ええ、だから油断しないで」
 ビクビクと気を張りながらバニに騎乗しているシャールには、まだ口輪の嵌《は》め外しはできない。これができなければ餌を食べさせることができないので、竜駝《ティンタム》乗りとしては半人前以下だ。しかし、今まで天幕《テント》の周辺しか走らせたことがなかったシャールにとっては、市場《スーク》までの遠乗りは大きな成果だった。
 市場《スーク》はサルームの北西のはずれにある。タラム・ジャラムの岩山が迫り、日が陰りやすく、礫《れき》が多くて農地に向かない場所だ。
 サルームの門内には正式な市場《スーク》があるが、そちらは貴金属や宝石、服飾、香料や香水を商う店が多い。生活に必要な食料や日用品を扱う店もあるが、全般に高価で質の良いものを揃えている。街路に沿ってきっちりと区画が決められ、店の主が払う賃料も安くないので、高級品を扱う店でないと成り立たないのだ。
 庶民は、もっぱら郊外の市場《スーク》へ行く。乳香や没薬《ミルラ》などの高級品はこちらにはないが、日々の料理に使う香辛料や食材はこちらの方が豊富で安い。郊外の市場《スーク》は幾つかあるが、この北西の市場《スーク》は王宮から一番遠い。
 市場《スーク》に来たのは、今朝マリヤムとハキムが捕まえたスナリスを売るためだ。残念ながら昼食にスナリスの焼肉を食べることは叶わず、ギルヒバの一声で売ることになった。
 ミント入りのお茶を飲んでひと休みしていたところに、放牧地からキリクが戻ってきたので、交渉上手だというキリクに行ってもらうことになった。竜駝《ティンタム》に乗る練習も兼ねて、シャールとナディヤも同行することにしたのだ。
 昼食まで休むつもりだったキリクは嫌そうだったが、
「昼飯用に売らなきゃ値が下がるよ!」
 そうギルヒバに言われると逆らえない。
 郊外の市場《スーク》は、シャールには初めての場所だった。
 竜駝《ティンタム》を連れて市場《スーク》には入れないので、ナディヤと竜駝《ティンタム》たちは市場《スーク》の外で留守番だ。
「あんたも待っててくれ」
 キリクがシャールに言ったが、ナディヤがそれを断る。
「だめよ、キリクが代金を誤魔化さないように見張ってて」
 市場《スーク》は仮設の小屋が寄り集まっただけの簡素な作りなので、決まった入口があるわけではない。ただ、昼食用のパンや串焼きを売る店など、屋台が並び始める辺りから市場《スーク》になるようだ。人も大勢行き交っている。
「うまそうだな……」
 羊肉の脂とザアタルが焦げる匂いに、つい言葉が漏れる。それを聞きつけた屋台の男が、はじけるような笑顔で勧めてくる。
「美人のお姉さん、お昼にどうだい? ウチのザアタルは他所とは違うよ! 味見は無料《タダ》だ!」
 ザアタルは、乾燥したオレガノやタイムなど香草と香辛料、塩を混ぜた調味料で、様々な料理に使うが、ここでは肉に振りかけていた。店によって配合を工夫し味を競っているそうだ。
「え? 味見は無料《タダ》?」
 思わず足を止めたシャールの腕をキリクが引っ張り、にっこり笑顔で屋台の男に手を振る。
「また、今度な」
「なんだ、キリクの知り合いか」
 熱が引くように屋台の男の笑顔が消える。
「無料《タダ》のわけねーだろ」
 屋台から離れてから、キリクが小声で囁《ささや》く。
「嘘なのか?」
「半分な。味見の後、何本か倍の値段で買えば、味見の分は無料《タダ》さ」
「むぅ……」
「あんたトロそうだから、おれがいなきゃ五倍の値段を吹っ掛けられてたかもな」
「われのどこがトロそうじゃ!」
 思わず語気を強めたシャールを、キリクは笑った。
「そういう偉そうな言い方とかが、さ」
 人を掻き分け、二人は市場の奥へ進んだ。
 市場では顔を知られているようで、時々キリクには知り合いから声が掛かった。その度に如才のない返事をし、シャールには見せたことのない抜群の笑顔を振り撒いた。
「キリクは、わたしが嫌いか?」
 前を歩くキリクの背中に、シャールは問い掛けた。少し間を開けて、キリクは振り返らずに答えた。
「金持ちや偉そうな奴は全員嫌いだね」
「なぜ金持ちが嫌いなのだ?」
「楽して稼いで美味いもの食ってるからさ。おれたちが地面を這い回って、その日死なない程度の小銭しか稼げないってのに。おれたちが一生口にできないようなお菓子を、綺麗な指でつまんでる女を見るとムカつくよ」
「……そんなに貧しかったのか?」
 キリクがハッとした顔で振り返る。
「昔のことさ。今はそこまでじゃない」
 シャールには貧しさがわからない。食べ物の苦労などしたことがない。人には身分があり、貧富の差は当然のものと思っていた。もちろん自国の民が餓えて死ぬほど貧しくてもよいとは思っていない。そのため定期的にパンの配給を行い、裕福な者には施《ほどこ》しを勧めている。
(それでは足りないのか?)
 シェルバは豊かな国だ。だが富は、交易や農地の利権を持つ者に集中している。
「わりぃ、あんたの指も綺麗だけど、お城で働いてたんだよな。王宮なんて我儘《わがまま》な連中ばっかりで、楽な仕事じゃないだろ?」
 キリクは頭を掻き、苦笑いを浮かべた。
「シャール様は我儘《わがまま》ではないぞ。公明正大で立派なお方だ」
「へー、そう? だといいけどな」
 肉屋の大柄な女主人が、ナツメヤシの葉を編んだ団扇《うちわ》で、肉にたかるハエを払っていた。
 キリクは団扇《うちわ》を持った無骨な手に自分の手を添え、耳もとで何やら囁《ささや》いている。そのうち、手を握り合ったまま団扇《うちわ》を持ち上げ、自分たちの顔を隠した。
 店先で待つように言われていたシャールだったが、肉を眺めるのにも飽きて、足音を忍ばせて店の裏手へ回ってみた。店といっても、四角い骨組みを麻布で囲っただけの小屋なので、布越しに二人の声が聞こえる。
 囁《ささや》きは他愛のない褒め言葉だったが、猫の顎の下を撫でるように女の自尊心をくすぐっていた。
 スナリスの値段が決まったところで、シャールは肉屋の店先へ戻った。
 金の入った革の小袋を懐に入れ、女主人に手を振るキリク。その場を離れてからシャールが尋ねた。
「いくらで売れた?」
「六十」
 銀貨《ディルハム》で六十では高すぎるから、銅貨《ファルス》だろう。
「串焼きはいくらだ?」
 急に何だ? と物問いたげに、キリクがシャールの顔を見る。
「安いとこなら一本四ファルスかな」
「わたしとナディヤに一本ずつ買ってくれ。二十ファルス余るなら、それくらい良かろう」
「聞いてたのか、金持ちのくせにせこいぞ!」
「今は一ファルスも持ってない。ギルヒバには八十で売れたことは黙っておくよ」
 しょうがねえな、と言いながらキリクが歩き出す。
「道が違うぞ?」
 キリクは来た道を戻らない。串焼き屋は市場《スーク》の入口にあったのに。
「市場《スーク》で働いている連中が使ってる店がある。そっちの方が安くて美味い」
 食材を商う店が集まる場所を通り抜け、十字路を右に曲がった時、シャールの足が止まった。
「おお、おお、美しいお姫様、哀れなしもべに、どうかお恵みを……」
 道端に座り込んだ半裸の男が、爪の伸びた汚れた掌《てのひら》を差し上げ、哀れみを誘う声で言った。日焼けと汚れで体は黒く、痩せてあばら骨が浮いているが腹は出ている。萎《しな》びた顔は老人のようだが、伸び放題の髭は真っ黒で、実際は若いのかもしれない。
「なんだ? 物乞いが珍しいのか?」
 シャールにとっては珍しい。父王の時代にサルーム門内の物乞いは一掃され、見かけることは無くなっていた。王位に就いた後、国内を視察して回ったことがあるが、その途上で目にしたことはある。だが今目の前にいる物乞いは、彼らとは違った。
 鼻がないのだ。