東側の格子窓から朝日が染み込んでくる。
斜め格子の菱形の穴から、一匹のヤモリが顔を
覗かせた。そのままスルリと入り込み、窓の内側に貼り付く。ゴツゴツとした頭の大きさの割に、体が小さい。花崗岩の断面のような粒のある土色の肌に、緋色の斑点が並んでいる。
ハーリルの客室は王宮の十階にあるが、この二十階の部屋も荷物置き場として提供されていた。部屋の中には革箱が沢山積み重なっていたが、ハーリルが箱を二つ下ろすと、その下には棺のような衣装箱があった。
「兄上、御寝のところ申し訳ありません」
衣装箱の蓋を叩きながらハーリルが言うと、蓋が持ち上がり、横にずれて落ちた。
半身を起こしたのは、白い肌着のような
骸衣を
纏った
木乃伊であった。頭にも白い布を巻いている。肌の色は腐った葡萄の黒さで、頬のこけた顔には眼球がなく、鼻先も
刮げて小さな細長い二つ穴が見えていた。黒い肌は汗をかいたように、てらてらと光っている。
「さあさあ早く起きて、わたしのお願いを聞いてください。ヤラル兄がヘマをして、わたしを助けてくれないのです。シェルバの兵装など、さぞご不満でしょうが、可愛い弟を助けると思って我慢してください」
木乃伊は立ち上がり、衣装掛けに吊るしてある兵服を身に着け始めた。見た目は衛兵とあまり変わらないが、胸当てに薄い鉄片を編み込んであり、小隊長に相当する装備だ。
「重いですか? あの女と戦う時は、脱ぎ捨ててしまっても構いませんよ」
ハーリルは、夜のサルームで剣を合わせた奇怪な女のことを思い出していた。
幼い頃から訓練を積んだハーリルの目には、女は隙だらけだった。速くて重い。ただ、それだけの剣。それに打ち負けた。獅子やワニのような猛獣は、技術が無くても強い。ただ猛獣には殺気があるが、それさえもない異質さだ。
(人ではないのか?)
「そうだ、あれは異星の神、手を出さぬ方がよい」
心の内の問いに、窓の上のヤモリが答えた。尻尾を渦巻きに丸め、ピクピクと振る。
「アフべの神よ。あなたの力でも勝てないのか?」
「わからぬ。だが、あれは
蠍のようなもの。手を出さなければ刺されることもない」
(あの女はシャールを護衛していた。シャールを殺すには、あれも倒さなければ……)
「捨て置けばよい。お飾りの女王など、追い出してしまえばそれでよかろう?」
傍から見れば、ヤモリは、ゲッツ、ゲッツ、と鳴いているだけだ。しかしハーリルは、それを言葉として聞き取ることができた。
幼い頃ハーリルは、当時のハドラム王妃であった義理の母に殺されかけたことがあった。廃墟となった神殿の地下に三夜隠れ、生き延びた。地下の暗闇を飢えて
彷徨っていた時、彼は『忘れられた神』アフべを見出した。
「無能な女ですが王家の血を引いている。利用しようとする者もいるでしょう。操れないなら殺すしかない」
癪に触るのが、その点だった。労せずして王位が転がり込んできた女。たいして美しくもなく、王都スムラマウトに置いてきた愛人たちより数等劣る。女の魅力で生き抜く覚悟が無いから、磨かれていないのだ。かと言って、権力者として君臨する覚悟もない。そんな惰弱な女を、性と
香料の技術で操ることができなかった。
アフべの神はそれ以上話さず、ヤモリも格子窓から消えていた。
通路を歩いてくる足音が聞こえる。
長兄マスルの
木乃伊が抜けた衣装箱には、精油が満ちている。溢れ出た
没薬の香りが部屋を満たしていた。
没薬のほかにも
、丁子、目箒、香茅など、東方から伝わった様々な香草、香料も使われている。これらは秘術に欠かせない重要な要素ではあるが、香りの面では
没薬の背後で複雑さを添えるものに過ぎない。
ハーリルは急いで衣装箱の蓋を閉めた。
ハドラムの皇太子だったマスルの
木乃伊が、扉を開け、ふらつくように戸口から出て行く。頭に被ったドゥループの裾を顔に巻きつけていた。起きたばかりなので多少動きが不自然だが、すぐに馴染むだろう
。木乃伊に意思はないが、生前の記憶を利用することはできる。
シェルバの宰相ジャーフィルが入れ違いに入ってきたが、兵士の正体には気付かなかったようだ。それよりも部屋に満ちる
没薬の強い香りに圧倒され、体がのけ反っていた。老いた顔はやつれ、面長な頬がさらに細くこけていた。曇った目は幾重にも重なる皺に囲まれ、白く長い顎髭だけが普段と変わらず、むしろ目立って大きく見えた。
「お疲れのようですね」
ハーリルが衣装箱に腰掛け、声を掛ける。
ジャーフィルは、しばらく無言で部屋の中を見回してから言った。
「放火の犯人を見かけられたとか?」
「縄を使って城壁を下りてくるのを見かけ、追跡しましたが、逃げられました。面目もありません」
間を置いてジャーフィルが絞り出した声は、少し震えていた。
「……シャール様が亡くなられた」
「なんと!」
ハーリルは驚愕の表情で両目を見開き、顔を両手で覆って泣いた。
(だめだ……)
微塵も悲しくないので、上手く演じられない。何かの役に立つかもしれないと思い、シャールに似た奴隷女を連れてきていたが、その女を手にかけた時のことを思い出すと、ようやく涙が出た。本人よりも気立ての良い女だった。替え玉にすることも考えたが、周囲を完全に騙すのは無理がある。残念だが、死体役がせいぜいだった。
ハーリルの演技を見抜いたのか、ジャーフィルは婚約者に慰めの言葉をかけることも無く言った。
「いつスムラマウトにお帰りになられるか?」
ハーリルは顔を上げて涙を拭った。
「そんな悲しいことを仰らないでください。わたしはこの国の
王配となるつもりでサルームに来たのですよ。女王陛下亡き後は、ジャーフィル殿、わたしはあなたのお力になりたい」
ハーリルは立ち上がり、ジャーフィルに歩み寄った。ハーリルは笑顔を浮かべたが、ジャーフィルは無表情だ。
「残された王族は遠縁の者ばかりでしょう? シェルバを背負っていけるのは、あなたしかいません」
ジャーフィルは返事をしなかった。ハーリルは彼の背後に回り込み、背中を抱くように首に腕を回した。
「何を……!?」
振り解こうとジャーフィルはハーリルの腕に手をかけたが、力無く弱々しい。
ジャーフィルの首に回したハーリルの手の中には、二枚貝で作られた香料入れがあり
、没薬の香りの奥から
麝香とイランイランの粘るような甘い香りが立ち上った。ジャーフィルは眉間に皺を寄せたが、顔をそむけはしない。
香料入れの中には黄色く固形化した精油が詰まっており、ハーリルはそれを指先に載せて、ジャーフィルの首筋に塗った。
「本当はこれが欲しくて来たんでしょう?」
ジャーフィルの耳元で
囁く。首から胸元へ、香料の入った精油を塗り広げていく。
「大丈夫、あなたにはいくらでも差し上げますよ」
うう……と
唸り、ジャーフィルは喉に絡んだような声を出した。
「何がお望みか?」
「小麦と香料の交換比率を変えていただきたい。ハドラムは貧しいのです……」
胸を
弄ると、ジャーフィルは腰砕けになって崩れた。
(この頑固な老人でさえ、わたしの虜になったというのに……)
ハーリルは冷ややかな目で、ジャーフィルの白い頭頂を見下ろした。