パンドラの箱
ー/ー
家に帰って、彼女のスマホとにらめっこする。ロック画面は花のイラストになっていて、あまり彼女らしくないと思った。
こういうのは、何度か繰り返すたびに再試行までの待ち時間が増えていくものだ。できれば試行回数を少なく突破したい。コードは数字四桁。普通にやれば一万通りか。不可能な数ではないだろうが、さすがに一つずつ試すのは待ち時間の制約もあって難しいだろう。
当然ながら、おばさんもこれの解錠は試みたのだろう。だから、おばさんが思いつくようなパスワードではないはずだ。そうなると、僕に関する情報である可能性は高い。けど、あれだけ必死に何かを隠そうとしていたおばさんのことだ。僕の誕生日みたいな簡単なことは、どうにかして調べて試しただろう。写真同様に彼女が僕に関するデータを集めていたとして、その情報を何らかの形でおばさんが入手できたとしたら、その辺りももう調べたと思った方がいい。僕が彼女と初めて会った日とか、そういう記念日のようなものも、彼女の手帳や、メインのスマホにメモしてあったなら、試している可能性はある。
彼女が考え得るありとあらゆる可能性を試して、それでも無理だったから、僕に託したのだろう。僕にこれを預けるというリスクを負ってまで、もはやなりふり構っていられないという感じだ。
もし彼女が自分の意思で死んだのなら、この状況も想定していたはずだ。もう一台のスマホが僕の手に渡る可能性も。彼女はこれを、僕に開けてほしいと望むだろうか。もし望まないなら、僕にこれを解錠する術はないと思う。だけど、もし開けてほしいと望むなら、僕だけにわかるヒントがあるはずだ。
彼女が最期に言った言葉は、「私はこれから幸せになるから」だった。これを数字四桁にはできる気がしない。あとは、何度も思い返した、世界五分前仮説とコロンブスの卵だ。これも関係があるようには思えない。
僕は少し悩んだ末に、一つの考えに至った。至極単純なことだった。
ただこれは、もしそうだった時は彼女の恐ろしさに震え上がることになるだろう。逆転の発想、というわけでもないが、たしかにこれは、僕の発想の柔軟性の欠如が数時間もの悩みを生んだことになるだろう。気付けば簡単なことなのに。
彼女が知っている僕の情報ではない。僕だけが知っているはずの情報を、彼女が知っているのだ。共有したつもりがなくても、僕だけが知っている情報を彼女が一方的に知れば、それだけで二人だけの秘密の情報の出来上がりというわけだ。
ものは試しだ。これが外れてくれていた方が、僕としては嬉しいが。
僕は自分のスマホのパスワードと同じものを、彼女のスマホに打ち込んだ。
……開いた。開いてしまった。ロック画面から移り変わったホーム画面は、ロック画面と同じ柄の背景。アプリもほとんど入っていない。メッセージアプリや通話アプリの通知が何件も溜まっているのが目についたが、ロック画面には通知が出ないように設定されているらしかった。やり取りの中身をそこまでして隠す徹底ぶり。僕はもう、好奇心を抑えられなかった。
その夜、僕は彼女のスマホを持って、家を抜け出した。実は机の引き出しの中に、靴を一つ隠してある。僕の家はマンションの一階で、部屋の窓から外に出ることができた。それで何度か夜中に家を出たことがあるが、今のところ気付かれてはいないらしかった。
夜の風景も見慣れたものだ。もう何度も同じ道を通って、あの公園に行っている。そう、あの日の夜も。
彼女が話を切り上げてでも時間で僕を帰してくれるのには理由があった。続きが話したかったら、夜に会って話ができるからだ。その時の合図は決まっていた。夜に会わない日は、帰りに飲み物を買うようにと言って、お金をくれるのだ。くれなかった日は、夜に会いたいということだ。そして夜に会った時に、もう一本、飲み物をごちそうしてくれる。
あの日は帰りの飲み物を買うよう、100円玉をくれた。だから、夜に会いたくないということだ。あんな時間ギリギリに、わざと僕が答えに迷うような話をしておいて。でも彼女も迷っていたのだろう。本当は、答えが聞きたかったのだ。明日まで待てずに。だから、100円玉だった。一本分に満たない100円玉をくれたのだ。
そしてもう一つ、僕は100円玉に込められた意味を解読はしたが、理解はできなかった。
夜の公園には人は誰もいない。元々、ここはそんなに人通りが多い場所でもない。警察の封鎖も解けており、公園にも入れるようになっていた。彼女の遺体があったベンチだけは、いまだに近付けないようになっているが。
僕は100円の半分、50円玉を、手を伸ばしてベンチの上へ置いた。
「御寿縁とは、面白いジョークを考えますね。これが、婚約指輪のつもりですか。こんなに指の細い人います?」
こんなに格安の指輪、そうそうないでしょう? と彼女が笑う。
「5円玉の方が安くないですか?」
指輪は銀ピカがいいんだよ、と今度は口を尖らせる。
「これ、どうしましょうね。僕に預けられても困るんですけど」
それの扱いに困るのは私も同じだよ。君ならどうしたらいいと思う? 君の考えを聞かせてほしいな。いつかみたいに試すような口振りで言う。
「僕は……こんなものは消えてなくなればいいと思いますよ。だけど、それじゃああまりに悔しい。ちゃんと報いを受けさせてやりたいとも思います。……僕の考えは、過激すぎでしょうか」
いいや、君の愛を充分感じられて嬉しいよ。彼女はそう満足そうに微笑む。
「そういえば、ちゃんと言ってませんでしたね。一晩寝かせるだけのつもりが、もう一日余計に発酵させてしまいました。だからこんなに重くなってしまったのかもしれません」
ねちっこいのは嫌だと言ったのに。でもいいや、聞かせて。
「僕も、あなたが好きですよ。その証に、今日ここに指輪を持ってきたんですから」
ありがとう、と彼女は微笑んだ。その微笑みははっきりと見えないけれど、微笑んでいるのだろうことだけがわかる。
「野次馬は適当なことばかり言いますね。首を切って死んだことになっているみたいですよ。本当は、心も身体もずたずたで、腹を裂いて死んでいたのに」
彼女は何も答えない。
「……僕はこれから、どうしたらいいですか。愛する人を失って、生きていけと言うんですか? そちらからこっちは観測できるんでしょうか。僕の声は、聞こえていますか?」
全部僕の妄想だ。彼女の声が聞こえた気になって、一人で喋っていたに過ぎない。だから、彼女がどう答えるか想像できない問いには、彼女の声は聞こえない。
結局僕は、家に帰ることにした。何も答えを得られないまま。彼女のスマホをどうしたらいいかの答えを出せないままで。この答えは早急に出さなくちゃならない。おばさんに何と言うかも考えなくちゃならない。何より僕は、これを持っていたくない。彼女の傷を、苦しみを、絶望を、僕が受け止めてやらなくちゃいけないのはわかっている。だけど、いざこれが僕の手元にあるとなると、僕は苦しくて仕方がなかった。
やっぱり、彼女の言った通りになった。
僕は彼女が死んでから、悲しく思うことは何度かあったけれど、驚いたことは何一つなかった。いや、あの猫が彼女の飼い猫だったことは驚いた。路脇に死んでいた雀は、あの猫の仕業だろう。猫の死体にも、羽毛がついていた。
殺す、殺される、死ぬ。もうたくさんだ。
そんな暗い気持ちで、家の窓から入ろうとした時、僕は異変に気付いた。窓が開かないのだ。鍵がかかっている。僕は一気に冷や汗をかき、心臓が急にバクバクと騒ぎ始めた。もしかしなくても、僕が夜中に抜け出していることに気付かれたのだろう。堂々と、玄関から入ってくるようにということだ。そして、怒られろ、と。
僕は慌てて来た道を引き返した。幸い、まだスマホのバッテリーはある。
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家に帰って、彼女のスマホとにらめっこする。ロック画面は花のイラストになっていて、あまり彼女らしくないと思った。
こういうのは、何度か繰り返すたびに再試行までの待ち時間が増えていくものだ。できれば試行回数を少なく突破したい。コードは数字四桁。普通にやれば一万通りか。不可能な数ではないだろうが、さすがに一つずつ試すのは待ち時間の制約もあって難しいだろう。
当然ながら、おばさんもこれの解錠は試みたのだろう。だから、おばさんが思いつくようなパスワードではないはずだ。そうなると、僕に関する情報である可能性は高い。けど、あれだけ必死に何かを隠そうとしていたおばさんのことだ。僕の誕生日みたいな簡単なことは、どうにかして調べて試しただろう。写真同様に彼女が僕に関するデータを集めていたとして、その情報を何らかの形でおばさんが入手できたとしたら、その辺りももう調べたと思った方がいい。僕が彼女と初めて会った日とか、そういう記念日のようなものも、彼女の手帳や、メインのスマホにメモしてあったなら、試している可能性はある。
彼女が考え得るありとあらゆる可能性を試して、それでも無理だったから、僕に託したのだろう。僕にこれを預けるというリスクを負ってまで、もはやなりふり構っていられないという感じだ。
もし彼女が|自分の意思で死んだのなら《・・・・・・・・・・・・》、この状況も想定していたはずだ。もう一台のスマホが僕の手に渡る可能性も。彼女はこれを、僕に開けてほしいと望むだろうか。もし望まないなら、僕にこれを解錠する術はないと思う。だけど、もし開けてほしいと望むなら、僕だけにわかるヒントがあるはずだ。
彼女が最期に言った言葉は、「私はこれから幸せになるから」だった。これを数字四桁にはできる気がしない。あとは、何度も思い返した、世界五分前仮説とコロンブスの卵だ。これも関係があるようには思えない。
僕は少し悩んだ末に、一つの考えに至った。至極単純なことだった。
ただこれは、もしそうだった時は彼女の恐ろしさに震え上がることになるだろう。逆転の発想、というわけでもないが、たしかにこれは、僕の発想の柔軟性の欠如が数時間もの悩みを生んだことになるだろう。気付けば簡単なことなのに。
彼女が知っている僕の情報ではない。僕だけが知っているはずの情報を、彼女が知っているのだ。共有したつもりがなくても、僕だけが知っている情報を彼女が一方的に知れば、それだけで二人だけの秘密の情報の出来上がりというわけだ。
ものは試しだ。これが外れてくれていた方が、僕としては嬉しいが。
僕は自分のスマホのパスワードと同じものを、彼女のスマホに打ち込んだ。
……開いた。開いてしまった。ロック画面から移り変わったホーム画面は、ロック画面と同じ柄の背景。アプリもほとんど入っていない。メッセージアプリや通話アプリの通知が何件も溜まっているのが目についたが、ロック画面には通知が出ないように設定されているらしかった。やり取りの中身をそこまでして隠す徹底ぶり。僕はもう、好奇心を抑えられなかった。
その夜、僕は彼女のスマホを持って、家を抜け出した。実は机の引き出しの中に、靴を一つ隠してある。僕の家はマンションの一階で、部屋の窓から外に出ることができた。それで何度か夜中に家を出たことがあるが、今のところ気付かれてはいないらしかった。
夜の風景も見慣れたものだ。もう何度も同じ道を通って、あの公園に行っている。そう、あの日の夜も。
彼女が話を切り上げてでも時間で僕を帰してくれるのには理由があった。続きが話したかったら、夜に会って話ができるからだ。その時の合図は決まっていた。夜に会わない日は、帰りに飲み物を買うようにと言って、お金をくれるのだ。くれなかった日は、夜に会いたいということだ。そして夜に会った時に、もう一本、飲み物をごちそうしてくれる。
あの日は帰りの飲み物を買うよう、100円玉をくれた。だから、夜に会いたくないということだ。あんな時間ギリギリに、わざと僕が答えに迷うような話をしておいて。でも彼女も迷っていたのだろう。本当は、答えが聞きたかったのだ。明日まで待てずに。だから、100円玉だった。一本分に満たない100円玉をくれたのだ。
そしてもう一つ、僕は100円玉に込められた意味を解読はしたが、理解はできなかった。
夜の公園には人は誰もいない。元々、ここはそんなに人通りが多い場所でもない。警察の封鎖も解けており、公園にも入れるようになっていた。彼女の遺体があったベンチだけは、いまだに近付けないようになっているが。
僕は100円の半分、50円玉を、手を伸ばしてベンチの上へ置いた。
「|御寿縁《ごじゅえん》とは、面白いジョークを考えますね。これが、婚約指輪のつもりですか。こんなに指の細い人います?」
こんなに格安の指輪、そうそうないでしょう? と彼女が笑う。
「5円玉の方が安くないですか?」
指輪は銀ピカがいいんだよ、と今度は口を尖らせる。
「|これ《・・》、どうしましょうね。僕に預けられても困るんですけど」
|それ《・・》の扱いに困るのは私も同じだよ。君ならどうしたらいいと思う? 君の考えを聞かせてほしいな。いつかみたいに試すような口振りで言う。
「僕は……こんなものは消えてなくなればいいと思いますよ。だけど、それじゃああまりに悔しい。ちゃんと報いを受けさせてやりたいとも思います。……僕の考えは、過激すぎでしょうか」
いいや、君の愛を充分感じられて嬉しいよ。彼女はそう満足そうに微笑む。
「そういえば、ちゃんと言ってませんでしたね。一晩寝かせるだけのつもりが、もう一日余計に発酵させてしまいました。だからこんなに重くなってしまったのかもしれません」
ねちっこいのは嫌だと言ったのに。でもいいや、聞かせて。
「僕も、あなたが好きですよ。その証に、今日ここに|指輪《・・》を持ってきたんですから」
ありがとう、と彼女は微笑んだ。その微笑みははっきりと見えないけれど、微笑んでいるのだろうことだけがわかる。
「野次馬は適当なことばかり言いますね。首を切って死んだことになっているみたいですよ。本当は、心も身体もずたずたで、腹を裂いて死んでいたのに」
彼女は何も答えない。
「……僕はこれから、どうしたらいいですか。愛する人を失って、生きていけと言うんですか? そちらからこっちは観測できるんでしょうか。僕の声は、聞こえていますか?」
全部僕の妄想だ。彼女の声が聞こえた気になって、一人で喋っていたに過ぎない。だから、彼女がどう答えるか想像できない問いには、彼女の声は聞こえない。
結局僕は、家に帰ることにした。何も答えを得られないまま。彼女のスマホをどうしたらいいかの答えを出せないままで。この答えは早急に出さなくちゃならない。おばさんに何と言うかも考えなくちゃならない。何より僕は、これを持っていたくない。彼女の傷を、苦しみを、絶望を、僕が受け止めてやらなくちゃいけないのはわかっている。だけど、いざこれが僕の手元にあるとなると、僕は苦しくて仕方がなかった。
やっぱり、彼女の言った通りになった。
僕は彼女が死んでから、悲しく思うことは何度かあったけれど、驚いたことは何一つなかった。いや、あの猫が彼女の飼い猫だったことは驚いた。路脇に死んでいた雀は、あの猫の仕業だろう。猫の死体にも、羽毛がついていた。
殺す、殺される、死ぬ。もうたくさんだ。
そんな暗い気持ちで、家の窓から入ろうとした時、僕は異変に気付いた。窓が開かないのだ。鍵がかかっている。僕は一気に冷や汗をかき、心臓が急にバクバクと騒ぎ始めた。もしかしなくても、僕が夜中に抜け出していることに気付かれたのだろう。堂々と、玄関から入ってくるようにということだ。そして、怒られろ、と。
僕は慌てて来た道を引き返した。幸い、まだスマホのバッテリーはある。