最後の日
ー/ー
僕はできるだけ遠くへと思って、夜通し走り続けた。こんなことをすれば、後で余計に怒られるだけだとわかっていたが、怒られるにしても今じゃない。今は彼女のスマホも持っているし、それが両親に見つかるわけにはいかなかった。
隣町まで行って、いつもの公園とは比べ物にならないくらいの広大な公園に辿りついた。敷地内に野球場やらテニスコートなんかがある国立公園だ。僕はその中に入って、ベンチに腰掛ける。ようやく座れて、疲れた足腰からすっと力が抜けた。
僕は彼女のスマホをくまなく覗いて、何か見落としていることがないか、改めて確認してみる。でも大体は、既に知っていることだ。彼女の口から聞いたことがある話だった。
しかし、ボイスメモに一つだけデータがあるのを見つけた。作成日付は、一昨日の朝。僕が彼女と最後にあった日の朝だ。彼女が一体何を残したのか、僕は迷いなくそれを再生した。
『君がどのタイミングでこれを聞くかはわからないけれど、きっと君はこれを聞くことになると思う。だからあえて言おう。君はこれを聞き始めた瞬間に、生まれたのだ。君のこれまでは無だ。今この瞬間に作られたもので、実際に君が辿ったものじゃない。君の責任じゃないんだ。だから何も気にするな』
また世界五分前仮説か。彼女もこの説がよほど好きと見える。
『私もそうでありたかった。自分のすべてを否定して、今生まれたばかりの私として、君に関われたらどんなによかったか。きっと君にはつらい選択を迫ると思う。私のことだ、かなり強引に、君を呪うと思う。でも気にするな。私は君の婚約者だ。都合がいい時だけ、君がそう望んだ時だけその関係になれる、君だけの婚約者だ。私はいつでも君の味方でいる。何があってもだ。君が私を殺すという選択をしたとしても』
あの日も彼女はそんなことを言っていた。その意味を、あの時の僕はちゃんとわかっていなかった。でも、今ならわかる。彼女を殺すという意味も、今ならわかる。
『最後の引き金は君が引くんだ。それで完成する。私の君へのプレゼントが。私を恨んでくれるなよ。私は幸せなんだ。私は君にこう言わなかったかい? これから幸せになるから、と』
最後まで聞き終えた僕は、この端末を初期化した。
データが消えていく端末を見ながら、僕はあの日の夜の光景を重ねていた。またこうして、彼女は死んでいく。
どんな彼女も彼女だ。ここに残されていた彼女の生きた証は、僕が取り込んだ。誰にも渡さない。彼女の母が彼女にさせたことも、僕は受け入れよう。それで彼女の母が罰せられなくても、彼女を汚した何人もの男たちが罰せられなくても、僕はそれを受け入れよう。彼女を殺したすべてを、僕は受け入れよう。今となってはそれも、彼女が生きていたという大切な記録だ。それを僕は消した。もう彼女を観測できるのは僕だけだ。彼女の記憶を、記録を引き継いだのは僕だけだ。もう誰にも彼女を観測させやしない。僕だけの彼女だ。これが、彼女が僕にくれたものだ。なんて重いのだろう。ねちっこいのは嫌だなんて、よく言えたものだ。
夜が明けていく。なんだか清々しい気持ちだ。
のどが渇いた。僕はポケットに入っていた100円玉と、50円玉を自販機に吸い込ませた。選んだのは、ペットボトルのスポーツドリンク。それを一気に飲み干した。
家に帰れば両親にひどく怒られたけれど、気にならなかった。初期化した彼女のスマホにパスワードを再設定して、結局開けられなかったとおばさんに返したけれど、おばさんは何も言わなかった。
彼女を殺した僕は、一日を過ごしてみた。彼女がいなくなったと頭が理解して、心が納得してから初めて一日を過ごしてみた。学校の帰りにあの公園に足が向くこともなかった。
でも考えているのは結局彼女のことばかり。こんな僕を、どうか許してほしい。僕は彼女の期待には応えられない。僕は彼女を愛しすぎた。きっと、彼女が想定していたよりもずっと、僕自身が思っていたよりもずっと、僕は彼女を愛していたらしいのだ。
彼女の声を聞いたことで、僕の中の思いは一つに決まってしまった。もう一度、彼女に会いたい。それを叶えるには、一つしかないとわかっていた。確実ではないとしても、あくまで会える可能性に過ぎないとしても、何もしないではいられなかった。
だからこの日の晩、僕は死んだ。
——————————————————
あの日の夜、僕は家を抜け出して公園に向かった。お金をもらった日は夜に会わない約束だったが、僕はどうしても彼女に会いたくて、行けば会えるような気がして、足が自然と向いた。
思った通り、彼女はそこにいた。というより、僕と別れたままずっとそこにいたかのように、制服姿のままで、ぼんやりと月夜空を見上げていた。傍らには、ぶどうジュースも置かれたままだ。
僕の存在に気付いたのか、彼女は苦笑いを浮かべて「来ちゃったんだ」と言った。
「何となく、会いたくなって」
「答えを聞かせてくれるの?」
「一晩寝かせたらって言ったじゃないですか。まだ発酵の途中です」
「なぁんだ、つまんないの」
僕は自然に彼女の隣に座る。
「ねえ、今日、君が五分前に生まれたばかりだったらって話をしたでしょう? あれは本当は、私自身がそうだったらいいなと思ったからなんだ」
「そうだったらいいな、なんですか?」
「そう。そうしたら、今までのことは全部、なかったことにできるじゃない。私がやってきたことは、すべてそういう記憶があるだけで、実際にはしてないってことになるじゃない?」
それはそうなのかもしれないが、それが嬉しいことなのか。そう判断するということは、よっぽど消してしまいたい過去があるのだろう。
「これから私はとてもひどいことを言うよ。道徳的にも、君に対しても。それを聞く気はある?」
僕は無言で頷いた。彼女が言う道徳的にひどいこととは何だろうと思った。彼女は突拍子もなく変なことを話しだしたりするが、間違ったことは言わなかった。それが、自ら間違ったことを言うと宣言したのだ。そしてそれは、僕に対してもひどいことだと。
「君に告白した女が言うことじゃないと思うんだけどね。私、妊娠してるんだ」
思わず息を飲んだ。信じられない。信じたくない。どちらかわからないけれど、これが夢か冗談であってほしいと強く願った。そしてこの後に続く言葉に、僕はなおも言葉を失った。
「この子、殺そうと思って」
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隣町まで行って、いつもの公園とは比べ物にならないくらいの広大な公園に辿りついた。敷地内に野球場やらテニスコートなんかがある国立公園だ。僕はその中に入って、ベンチに腰掛ける。ようやく座れて、疲れた足腰からすっと力が抜けた。
僕は彼女のスマホをくまなく覗いて、何か見落としていることがないか、改めて確認してみる。でも大体は、既に知っていることだ。彼女の口から聞いたことがある話だった。
しかし、ボイスメモに一つだけデータがあるのを見つけた。作成日付は、一昨日の朝。僕が彼女と最後にあった日の朝だ。彼女が一体何を残したのか、僕は迷いなくそれを再生した。
『君がどのタイミングでこれを聞くかはわからないけれど、きっと君はこれを聞くことになると思う。だからあえて言おう。君はこれを聞き始めた瞬間に、生まれたのだ。君のこれまでは無だ。今この瞬間に作られたもので、実際に君が辿ったものじゃない。君の責任じゃないんだ。だから何も気にするな』
また世界五分前仮説か。彼女もこの説がよほど好きと見える。
『私もそうでありたかった。自分のすべてを否定して、今生まれたばかりの私として、君に関われたらどんなによかったか。きっと君にはつらい選択を迫ると思う。私のことだ、かなり強引に、君を呪うと思う。でも気にするな。私は君の婚約者だ。都合がいい時だけ、君がそう望んだ時だけその関係になれる、君だけの婚約者だ。私はいつでも君の味方でいる。何があってもだ。君が私を殺すという選択をしたとしても』
あの日も彼女はそんなことを言っていた。その意味を、あの時の僕はちゃんとわかっていなかった。でも、今ならわかる。彼女を殺すという意味も、今ならわかる。
『最後の引き金は君が引くんだ。それで完成する。私の君へのプレゼントが。私を恨んでくれるなよ。私は幸せなんだ。私は君にこう言わなかったかい? これから幸せになるから、と』
最後まで聞き終えた僕は、この端末を初期化した。
データが消えていく端末を見ながら、僕はあの日の夜の光景を重ねていた。またこうして、彼女は死んでいく。
どんな彼女も彼女だ。ここに残されていた彼女の生きた証は、僕が取り込んだ。誰にも渡さない。彼女の母が彼女にさせたことも、僕は受け入れよう。それで彼女の母が罰せられなくても、彼女を汚した何人もの男たちが罰せられなくても、僕はそれを受け入れよう。彼女を殺したすべてを、僕は受け入れよう。今となってはそれも、彼女が生きていたという大切な記録だ。それを僕は消した。もう彼女を観測できるのは僕だけだ。彼女の記憶を、記録を引き継いだのは僕だけだ。もう誰にも彼女を観測させやしない。僕だけの彼女だ。これが、彼女が僕にくれたものだ。なんて重いのだろう。ねちっこいのは嫌だなんて、よく言えたものだ。
夜が明けていく。なんだか清々しい気持ちだ。
のどが渇いた。僕はポケットに入っていた100円玉と、50円玉を自販機に吸い込ませた。選んだのは、ペットボトルのスポーツドリンク。それを一気に飲み干した。
家に帰れば両親にひどく怒られたけれど、気にならなかった。初期化した彼女のスマホにパスワードを再設定して、結局開けられなかったとおばさんに返したけれど、おばさんは何も言わなかった。
彼女を殺した僕は、一日を過ごしてみた。彼女がいなくなったと頭が理解して、心が納得してから初めて一日を過ごしてみた。学校の帰りにあの公園に足が向くこともなかった。
でも考えているのは結局彼女のことばかり。こんな僕を、どうか許してほしい。僕は彼女の期待には応えられない。僕は彼女を愛しすぎた。きっと、彼女が想定していたよりもずっと、僕自身が思っていたよりもずっと、僕は彼女を愛していたらしいのだ。
彼女の声を聞いたことで、僕の中の思いは一つに決まってしまった。もう一度、彼女に会いたい。それを叶えるには、一つしかないとわかっていた。確実ではないとしても、あくまで会える可能性に過ぎないとしても、何もしないではいられなかった。
だからこの日の晩、僕は死んだ。
——————————————————
あの日の夜、僕は家を抜け出して公園に向かった。お金をもらった日は夜に会わない約束だったが、僕はどうしても彼女に会いたくて、行けば会えるような気がして、足が自然と向いた。
思った通り、彼女はそこにいた。というより、僕と別れたままずっとそこにいたかのように、制服姿のままで、ぼんやりと月夜空を見上げていた。傍らには、ぶどうジュースも置かれたままだ。
僕の存在に気付いたのか、彼女は苦笑いを浮かべて「来ちゃったんだ」と言った。
「何となく、会いたくなって」
「答えを聞かせてくれるの?」
「一晩寝かせたらって言ったじゃないですか。まだ発酵の途中です」
「なぁんだ、つまんないの」
僕は自然に彼女の隣に座る。
「ねえ、今日、君が五分前に生まれたばかりだったらって話をしたでしょう? あれは本当は、私自身がそうだったらいいなと思ったからなんだ」
「そうだったらいいな、なんですか?」
「そう。そうしたら、今までのことは全部、なかったことにできるじゃない。私がやってきたことは、すべてそういう記憶があるだけで、実際にはしてないってことになるじゃない?」
それはそうなのかもしれないが、それが嬉しいことなのか。そう判断するということは、よっぽど消してしまいたい過去があるのだろう。
「これから私はとてもひどいことを言うよ。道徳的にも、君に対しても。それを聞く気はある?」
僕は無言で頷いた。彼女が言う道徳的にひどいこととは何だろうと思った。彼女は突拍子もなく変なことを話しだしたりするが、間違ったことは言わなかった。それが、自ら間違ったことを言うと宣言したのだ。そしてそれは、僕に対してもひどいことだと。
「君に告白した女が言うことじゃないと思うんだけどね。私、妊娠してるんだ」
思わず息を飲んだ。信じられない。信じたくない。どちらかわからないけれど、これが夢か冗談であってほしいと強く願った。そしてこの後に続く言葉に、僕はなおも言葉を失った。
「この子、殺そうと思って」