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この口から出るものが愛だったら良かったのに

ー/ー



 教室中に充満する嘲笑。肉を抉るように刺さる視線。倒された机と椅子。上履きの跡が付いた教科書やノート。
 わたしという存在を否定するようなそのすべてが、教室の扉をくぐったわたしに突き付けられる。


 ズルいな、と思った。
 机をひっくり返して中身を吐き出してしまったのは、わたしがうっかりやってしまったこと。咄嗟のことに、避け切れずに踏んでしまった。口々にそう説明されたら、そうでないことをわたしは証明できない。わたしが違うのだと説明しても、先生はわたしのドジだと理解してしまうだろう。だから彼らは、それをわかった上でわたしに嫌がらせをしているのだ。本当に狡い。


 わたしは黙々と机を起こして、教科書やノートの汚れを払い、机に詰めていく。鞄から宿題のために持ち帰ったノートと筆箱を出して、鞄を机の脇に掛けた。最後に、倒れた椅子を起こそうとすると、目の前で机が再び倒れ、せっかく詰めた中身がまた飛び出てしまった。


「あ、悪ぃ」


 前の席の男子が口元に笑みを浮かべながら謝罪の言葉を口にした。
 椅子を傾けて座っていた彼は、倒れそうになって、咄嗟にわたしの机を掴んだ。しかしその勢いを殺せず、わたしの机を倒してしまった――ということになるのだろう。


 わたしは机を戻す気にもなれなくて、その場に呆然と座り込んでしまった。そんなわたしの元へ、クラスの女子たちが集まってくる。


中村(なかむら)さん、大丈夫?」


 掛けてくれる言葉だけは優しいけれど、それが上っ面だということを、わたしは知っている。その顔に貼り付いた嘲笑が剥がれない限り、わたしは彼女らを信用できない。


「……大丈夫です」


 そう呟くように答えても、彼女らの一人が散らばったわたしのノートを拾い上げようとする。それを見て、わたしは背筋が寒くなり、思わず目を瞑ってしまった。


「おい」


 怒気を含んだ、低く鋭い声だ。聞き覚えがない。先生ではない。その声は、わたしに向けられているのだろうか。何か答えなければ。
 そう思って慌てて目を開けると、そこに広がっていた光景に、わたしは口にしかけた言葉を飲み込んだ。


「もうやめろよ」


 わたしのノートを拾った女子からそれを奪い取った男子。名前はたしか……高山(たかやま)くん。話したことはほとんどなかったはずだけれど、何故だかこうしてわたしを庇うように立ちはだかっている。


「マジになんなよ、(かける)


「そうだよ~。何、中村さんのこと好きなん?」


「え~何それ、ウケる。高山くん趣味悪~い」


 わたしへ向いていた口撃が、高山くんの方へ向く。わたしのせいで。
 そんなのはいけない。わたしを庇ってくれたのは嬉しいけれど、その代わりに誰かが傷付いていいなんてことはない。


 だけど高山くんの言葉で、教室中は一瞬凍り付いた。


「好きだよ。好きな人が嫌がらせされてたら、キレて当然だろ」


 わたしも、他のクラスメートも、まさかの答えに面食らっていた。この状況で、何と言葉を発するのが正解なのか、誰もわからずにいた。


「ちょっと来いよ」


 高山くんがわたしの手を引いて、教室の外へ連れ出した。わたしの返事など聞かず、散乱した机の中身もそのままで。
 わたしは何かを言おうとしたけれど、言葉にならない。だから連れ出されるままに、彼についていくことしかできなかった。




 彼とやってきたのは、特別教室のある特別棟。教室のある本校舎とは渡り廊下で繋がっており、用のない生徒は立ち入らない寂れた場所だ。
 ようやく繋がれていた手が離されて、わたしは恐る恐る彼を見上げる。と、わたしを見下ろす視線と交わった。


「ごめん、勝手に連れ出して」


 わたしは口をぱくぱくして、でもそこから言葉は出てこず、静かに俯いた。
 結局のところ、わたしは彼の思惑がわからない。彼の言葉を信じていいものか、迷っている。それに、どうしてわたしをこんなところに連れてきたのだろう。わからない。わからないものは、怖い。


「それから、もう一つごめん。今の今まで、中村さんを助けなくて」


 彼はすっと、力が抜けたようにその場に座り込んだ。今度は逆に、わたしが彼を見下ろして、彼がわたしを見上げる立場になった。
 そしてさっきのわたしと同じように、彼も俯いてしまう。


「あ、の……どうして、助けたの?」


「中村さんのことが、好きだからだ」


 彼は即答した。改めて言われたその言葉に、偽りはない気がした。そう言う彼は、口元では笑みを作りながらも、瞳は揺れていたから。こんなわたし相手でも、拒絶されるかもしれないと、不安に思っているんだ。それが、偽りの告白であるはずがないと思った。


「ありがとう……でも、高山くんも一緒にいじめられちゃうよ。わたしと関わらない方がいい」


 わたしの絞り出すような声に、彼は努めて明るく振舞っているようだった。相変わらず笑みを湛えてはいても、その表情も声音もどこか力ない。


「俺はいいんだよ。最初は色々されても、ずっとはされないはずだから。中村さんが何であんな嫌がらせされてるか、知ってる?」


 わたしはふるふると首を振る。わかっていたら、変えようと思っただろう。でも、いくら考えてもわからなかった。わたしの何が気に入らないのか。
 彼は、それを知っているのだろうか。


「中村さん、あいつらにとって“いじめてもいい人”だからだよ」


 高山くんの言葉に、思わず涙をこぼしてしまった。


 わたしは声も小さくて、いつも挙動不審で何かに怯えているみたいで、何しても反抗してこない、脅かせばいくらでも黙らせられる都合のいいおもちゃなんだと、彼は教えてくれた。


「これからは、何があっても俺が代わりに戦うよ。中村さんに何かすると俺に仕返しされるってわかったら、あいつらももう中村さんに手出しできないだろうからさ」


「でも、高山くんは……」


 クラスの反感を買うことになるんじゃないか。わたしの代わりに何をされるかわからないのに。


「大丈夫。中村さんだけは俺の味方でいてくれるなら、俺は大丈夫だから」


 これ以上は何を言っても、たぶん彼は折れないだろうと思った。彼を犠牲にして平穏な生活を手に入れても、わたしは何も嬉しくない。けれど、彼は大丈夫だと言う。それを、信じてしまってもいいのだろうか。




 ホームルームの時間ギリギリに教室に戻ると、わたしの机と椅子はきちんと立たされ、教科書やノートも乱雑ながら机の中に詰め込まれていた。


 おおかた、先生が来るまでにわたしが戻らなかったら言い訳ができないと考えたのだろう。どこまでも自己保身のために清々しい。


 しかし今日一日に限っては、あれからわたしへの嫌がらせはなかった。陰で何を言われているかはわからないが、少なくとも表立ってわたしへ何かするということはなかった。
 それが少し不気味でもあったが、いつも騒がしいクラス内で、誰もが声を潜めて話していたのが気になった。


 たぶん、高山くんのことだ。高山くんはどちらかと言えばクラスでも人気のある方で、友達も多い。そんな人が、わたしを庇い立てた上に、わたしを好きだと宣言した。それも、この中学三年生の春になって急にだ。わたしへの嫌がらせはずっとあったはずなのに。
 クラスメートたちも高山くんの言動の意図がわからず、どうしていいかわからないのだろう。




 朝のことがあってから、高山くんはわたしに積極的に話しかけてくるようになった。それはまるで、他の人をわたしに近付けさせないようにしているようでもあったから、少なくとも彼の宣言は偽りではなかったのだと、クラス内では認知されているようだった。


 彼から聞くまで知らなかったが、彼の家はわたしの家と方向は同じらしく、登下校も一緒にするようになった。


 登下校の間や休み時間に、彼はたくさんわたしと話をしてくれた。わたしの話も聞いてくれた。
 彼は一度たりともわたしを否定したり、わたしを責めたりしなかった。わたしがどれだけ話すのに手間取っても、続きを待って、最後まで聞いてくれた。


 いつしかわたしは、彼の存在が支えになっていた。ようやく、彼の言っていたことがわかった気がする。
 今のわたしならきっと、嫌がらせをされたとしても、大丈夫。高山くんだけはわたしの味方でいてくれるなら、わたしは大丈夫。




 だけど、それが大丈夫じゃなくなる時もあるらしかった。


 しばらくして、クラスのみんなもわたしと高山くんの関係について理解してきたのだろう。夏休み前になって、わたしへの攻撃が再開されたのだ。といっても、前のように物を使った嫌がらせではなく、言葉で揶揄う程度。
 しかしそれだけではなく、高山くんも同じように、揶揄われるようになっていた。




 ある日の帰り道、わたしはそんな彼に話をした。話があると言った時の彼の顔は、いつか見た時みたいに不安でいっぱいで、やっぱり話さないでおこうかと思ってしまうほどだった。


「高山くん。……もう、やめようよ。わたしは充分救われたよ。だからわたしのことなんか放っておいて、高山くんは自分のために生きて。わたしのせいで迷惑かけるのは嫌だよ……」


 彼は何かを言おうとして、それを飲み込んだ。そして別の言葉を探るようにして、もう一度口を開いた。


「中村さんは……俺のこと、好き?」


 わたしは彼に、一度も気持ちを伝えていなかった。彼に好きだと言われた当初は、わたし自身が彼への気持ちをよく理解していなかったから、伝えることができなかった。
 それに彼は、わたしに好きだと伝えて、それ以上を求めなかった。友達のように何でもない日々を一緒に過ごすだけで、彼は何も不満を言わなかった。
 わたしはそれに甘えて、彼への気持ちをずっと伝えずにいたのだ。


 今ならわかる。わたしが彼に向けている気持ちが何なのか。でもそれを、今は言えない。


 初めて彼に伝えるわたしの気持ちが偽りのものになるなんて……わたしは最低だ。だからわたしは幸せになんてなれなくていい。罰を受けてしかるべきだ。


「わたしは……好きじゃないよ。別にわたしはあのままでよかったのに、余計なお節介だった。いじめられてるわたしを助けて、王子様にでもなったつもりなの? わたしに優しくしてるつもりで、自分に酔うのはやめなよ。はっきり言って、迷惑なの……!」


 心にもないことを吐いた。
 ここまで言えば、彼はもうわたしには関わらないだろうと思って。


 彼の顔は見れなかった。見れるわけがなかった。
 俯いたわたしの足元に、ぽたぽたと雨が降る。気持ちを隠すことを許さないように、こんなにも容赦なく太陽が照り付けるのに、雨は止まない。こんなんじゃ、逆にわたしを心配させてしまうってわかっているのに。


 わたしは彼が何か言う前に、彼を置いて走り去った。彼はついてこない。
 でも、これでいいんだ。わたしは彼の重石にしかなっていない。彼を傷付けながら縛る荊でしかない。だから、そこから彼を解き放たなきゃいけないんだ。




 わたしは家に帰ると、堰を切ったように声を上げて泣いた。お母さんが心配してくれたけれど、わたしは事情も話さずに泣き続けた。


 わたしを大切にしてくれた彼が、わたしを愛してくれた彼が、本当は大好きだったのに。
 あんなにひどいことを言ってしまった。わたしのことなんて、嫌いになっただろう。憎んですらいるかもしれない。


 彼のあの優しい笑顔は、もうわたしに向けられることがないのだと思うと、どうしようもなく悲しくて、落ち着いたはずの涙がまた溢れてきてしまう。


 これでよかったんだ。
 これで彼は、彼だけは救われる――。




 翌日、わざと時間をずらして学校に行った。
 あんなことがあっても、もしかしたら高山(たかやま)くんは待っていてくれるかもしれない。そしてきっと、彼に会って話をしてしまえば、わたしは本当の気持ちをさらけ出してしまうだろう。
 そう思ったから、徹底的に彼を避けることにした。


 久しぶりに、一人で通学路を歩く。
 世界はこんなにも静かだったのかと思えてしまう。ここ最近はずっと隣に彼がいて、話をして、笑わせてくれた。わたしの話を楽しそうに聞いてくれた。
 一人ぼっちじゃ、話もできない。


 心の中にぽっかりと穴が開いてしまったみたいに、わたしが世界から受け取る情報は、わたしをすり抜けていってしまう。それがあまりにも悲しくて、すべてを投げ出して泣き出してしまいそうになった。


——全部、自分のせいなのに。




 学校に着くと、やはり彼はまだ来ていなかった。他にクラスメートが何人かいたが、わたしを一瞥するだけで、特にそれ以上の反応はない。机も荷物も無事。
 これが、彼がわたしのために築いてくれた、わたしのクラス内での新しいポジションだ。だからって、それと引き換えに彼が傷付くなんてことは許されない。


 やがて彼が登校してくると、一度だけ目が合ったが、そのまま挨拶も交わさず席に着いた。この反応に、何かがおかしいと気付いたクラスメートが、わたしではなく高山くんの周りに集まり始める。


「え~なになに? カノジョとケンカでもした?」


「おいおい、まさかとは思うけど、フラれたとか?」


「あの中村(なかむら)にフラれるって……きっつ!」


 高山くんが否定をしないで黙り込んでいるもんだから、周りは口々に好き勝手に言い散らす。
 わたしは昨夜、考えてきたことがあった。こういう状況になった時に、彼を救う方法を。


「あ、あの……っ!」


 わたしが小さいながらも声を張ろうとすると、教室にいた全員の目が一斉にこちらを向いた。その視線に怖気づいてしまいそうになったが、意を決して考えてきた通りの言葉を吐き出す。


「悪いのは、わたし、なんです……! 本当は、わたしが自分を守るために、無理やり、高山くんを付き合わせた、んです。秘密をバラされたくなかったら、って脅して、わたしと仲良くするように、させたんです。だから、本当は高山くんは、わたしが好きじゃないし、わたしも、高山くんを利用してた、だけ。悪いのは、全部わたし、なんです……!」


 途切れ途切れでも、なんとか全部言い切った。
 胃がきゅっと痛くて、立っているのがつらい。何だか呼吸も苦しい。息が上手く吸えない。何だろう。周りの音が、ぼうっと遠くなっていく。どうして――。
 高山くんが顔を歪ませて、初めてわたしを庇ってくれた時のような、怒ったような、心配するような形相で、わたしに詰め寄ってくる。そして何かを言おうとしたところで——消えた。




 次に目を覚ました時、わたしは上を見上げていた。天井だ。布団を掛けられて、ベッドに横たわっている。鼻を突くのは、ほのかに香るアルコール。ここは、保健室……かな。何度か来たことがあって、この景色は覚えていた。
 ここにいるってことは、わたしは倒れでもしてしまったのだろう。まだ胃はきりきりと痛む。


 身体を起こすと、それに気付いたのか、白衣姿の妙齢の女性がカーテンの向こうからやってきた。


「目が覚めた? つらかったら横になっていていいからね」


「先生……わたし、あれからずっと?」


 時計を見上げれば、今はもう三時間目が終わろうという頃。
 先生はベッドの隣に椅子を持ってきて、腰を下ろした。


「そうだよ。先生も一応、簡単に事情は聞いたんだけど、よかったら中村さんからも聞かせてくれないかな」


「聞いたって……誰に、ですか?」


 わたしにとっては、それは重要なことだった。クラスの人たちは、わたしのことをあることないこと言うに決まっているから。先に聞いた事情で先入観を作られてしまえば、わたしがいくら話したところで、わたしの被害妄想だと突っぱねられてしまう可能性もある。


「高山くんだよ。彼、休み時間のたんびに様子を見に来てくれてね。すごく心配してたんだよ」


 どうして……あんなひどいことを言ったのに。
 ……いや、本当はわかっていた。期待していたんじゃないか。彼はわたしを嫌いにならないって。
 こんなにも彼を傷付けたわたしを、それでも彼は愛してくれるのかって、彼を試していたんだ。寝て起きて、落ち着いた頭で考えればそう思う。


 つくづく自分が嫌になる。彼に王子様でも気取ったつもりかなんて言ってしまったけれど、わたしこそ、悪者を気取ろうと過剰に悲劇ぶって……あんなのは、彼に助けを求めているのと同じじゃないか。


 先生には、全部打ち明けた。うんうん、それで? と優しく聞いてくれるから、話すつもりもなかった醜い本心でさえすべて、さらけ出してしまった。
 それでも先生は、決してわたしを否定したりはしなかった。


「中村さんは優しいんだね。でもね、もう少しわがままになってもいいんだよ。周りの目や人の言うことは気になるかもしれないけれど、それは大人になったって同じなんだ。悲しいことだけど、大人でも同じようなことをする人はいる」


 先生は視線を下げながら、少し声のトーンを落とした。先生にとっては、言いづらいことだったみたいだ。


「だからね、周りがどうかじゃなくて、自分がどうしたいのかを、もう少しよく考えてみたらいいと思うんだ。そしてそれを、ちゃんと高山くんに伝えてあげて? 高山くんは中村さんに告白してくれたんでしょう? ならちゃんと、ホントの気持ちを伝えてあげた方がいいよ。さっき先生に話してくれたみたいに」


「でも……わたし、高山くんにたくさんひどいこと言ったんです。今さら、わたしの気持ちを伝える資格なんて……」


「たしかに、中村さんは高山くんにひどいことを言ったかもしれない。だけど、それを許すか許さないかは、高山くんが決めることだよ。中村さんは、許してほしいんだったら、許してほしいってまずは言わなくちゃ。許さないってまだ言われたわけじゃないんだから、相手を勝手に決めつけちゃダメだよ。自分にちゃんと向き合ってくれる人なら、なおさらね」


 先生はそう言ってくれたけれど、わたしはなかなか踏ん切りがつかなかった。
 許してほしいなんて言ったって、許してくれるわけがない。それだけのことをしたと思ってる。
 それにわたしは、彼から罵倒されたくないのだ。あれだけ優しくしてくれた彼からひどいことを言われたら、耐えられない。自分は彼にそれをしたのに、随分と勝手な言い草だと思う。彼のためを思ってだなんてきれいごとだ。結局は、自分のことしか考えていない。


 そんな時、三時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。


「まずは二人でしっかり話しなさい。クラスでの嫌がらせは、自分たちで抱え込まず、先生に頼ってくれていいことだからね? 迷惑かけちゃうだなんて考えなくていいの。子供の内はたくさん迷惑かけて、大人になってから、今までかけた迷惑の分、誰かに優しくしてあげるんだよ」


 先生がそう言い終わる頃、一人の男子生徒が駆け込んでくる。その音を聞いて、先生はカーテンの向こうに戻っていった。


「こーら、駆け込み禁止だって言ったでしょう?」


「先生、志緒里(しおり)は?!」


 この声、高山くんだ。本当に、休み時間のたびに来てくれてたんだ。
 そっと、カーテンの隙間から彼が入り込んでくる。わたしの顔を見るなり、唇を噛みしめて、鼻息を荒くしてわたしの手を取った。


「志緒里……! 良かった……!!」


 わたしの手をぎゅっと握って、崩れるようにその手に縋りついた。まるで、死の瀬戸際から戻ってきた人にするみたいな反応だ。彼にとって、わたしが倒れたというのはそれほどのことだったのだろうか。


「あの……高山くん。ごめん、わたし……」


 わたしの言葉を遮って、高山くんは顔を上げずに呟いた。


「……わかってる。余計なお節介だってことは。でも、心配だったんだ」


「違う……違うの……っ」


 彼の言うことを否定しようとしても、彼は聞く耳を持ってくれない。わたしが話そうとするのを恐れているみたいに、頑なにわたしに話をさせてくれない。こんなの、彼らしくない。


「言われた通り、俺は自分に酔ってたんだと思う。勝手に、志緒里を助けた気になってた。志緒里の気持ちなんて、何も考えずに。ごめん。志緒里は俺に好きだなんて言ってくれてなかったもんな。よく考えればわかることなのに、勝手に舞い上がってた」


「だから……違うんだって! 話聞いてよっ‼」


 自分でも出したことないくらいの大声が出て、でもようやく彼は口を閉ざし、顔をあげてくれた。


「ごめん、大きな声出して……でも、わたしの話、聞いてほしい。いつもみたいに」


「……うん、わかった」


 泣きそうになっていた彼の顔も、少しだけ落ち着いたように笑みが戻っていた。
 わたしは一つ深呼吸をして、ゆっくりと口を開く。


「ごめんなさい。わたし、高山くんにたくさんひどいこと言った。高山くんが、わたしみたいな目に遭うのは嫌だったから、だから、わたしと関わらないでほしかったの。本当は、高山くんにしてもらったこと、全部、嬉しかったのに……嘘ついた。ごめん」


「朝のあれも?」


「……うん。あれが嘘だってわかるのは、高山くんとわたししかいないから。みんな信じると思って。ごめんなさい」


 あの後、彼はどうしたのだろう。わたしが倒れてしまって、それどころじゃなかったのだろうか。クラスメートに詰問されたのだろうか。
 いずれにせよ、大変だったのだろう。彼は脱力したように、天を仰いで大きく息を吐いていた。


「謝らないで。それが聞けて良かったよ。本当に、俺のしたことが嫌だったのかと思ってたから」


「ごめん……」


「謝らないでって。じゃあさ、もう一回聞いていい? 志緒里は……俺のこと、好き?」


 こんなこと言う資格はないってわかってる。でも、彼は改めてわたしにチャンスをくれた。やり直すチャンスを。だから、今回こそは、ちゃんと自分の本当の気持ちを伝えなくちゃ。
 そう思ったら、不思議と緊張はなかった。ずっと喉の奥にあった言葉がすっと出たように、吐き出してしまえば安堵すらあった。


「好き、だよ。高山くんは、こんなひどいことをしたわたしを、まだ好きでいてくれるの……?」


「当たり前だろ。正直に言うとさ、志緒里を好きになってから、結ばれたとしても苦労はしそうだなって思ってたんだ。それでも好きな気持ちは変わらなかったけどさ」


 そう言って無邪気に笑うから、失礼なことを言われた気がしたけれど、咎める気にはなれなかった。実際に、その通りになってしまったことだし。


「わたし、これからもこうやって迷惑かけちゃうかもしれないよ? すぐ悪い方に考えちゃうし。それにまた、嫌がらせされるかも……」


「言っただろ。何があっても俺が代わりに戦うって。迷惑なんていくらでもかけてくれよ。でも、今度からはちゃんと正直な気持ちを聞かせてくれると嬉しいかな」


 また、ごめんと言いそうになって、一度口をつぐんだ。彼に伝えるのは、もうこれじゃない。わたしは改めて、ありがとうと笑顔で答えた。


「あと、その……名前、で、呼んでくれるの?」


 名前で呼ばれたことは、今まで一度もなかったはずだけど、今日になっていきなりそう呼ばれた。いつもと違うことがあると、少し不安になる。もしかして、気を遣ってくれているのかも、無理させているのかも、なんて。


「あ……! いや、これは、その……ずっと、心の中ではそう呼んでたから、つい……。嫌だったら、直すよ」


「ううん、嫌じゃないよ。そっか……」


 もしかしたら彼は、わたしが思っている以上にわたしを大切に想ってくれていたのかもしれない。だからなおさら、わたしが彼にしたことは、一生をかけて償わなくちゃいけない。
 彼が許してくれるなら、わたしはいつまでも彼の傍にいて、彼の幸せのために精一杯尽くしたい。そしてそれが、わたしの幸せにもなったらいいなと、今は考えられる。
 少しだけわがままになってもいいって、こういうこと、なのかな。


 バカだな、わたし。最初からこうすればよかったのに。


「ヤベ、そろそろ四時間目始まるわ。俺行くから、志緒里はもう少し休んでな」


「ううん、わたしも行く。もう大丈夫。だから連れてって」


 彼は少し心配そうにわたしを見つめたが、すぐにふっと微笑んで、わたしの手を引いて起こしてくれた。


「じゃあ行くぞ。次社会だから、遅れたらめっちゃ怒られるしな」


「うん!」


 笑顔の裏で、またわたしは彼を傷付けるかもしれない選択をしたな、と思った。
 わたしのせいで、授業に遅刻して、先生に怒られるかもしれない。でも彼は、それを嫌だとは言わないんだろう。


 どこまでわたしは彼に甘えてもいいんだろう。こうやって彼に少しずつ付けた傷が、いつか彼への致命傷になってしまわないか、気が気でない。

 せめて、彼がわたしをずっと好きでい続けられるように、わたしは彼の望む姿であり続けたいな。


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 教室中に充満する嘲笑。肉を抉るように刺さる視線。倒された机と椅子。上履きの跡が付いた教科書やノート。
 わたしという存在を否定するようなそのすべてが、教室の扉をくぐったわたしに突き付けられる。
 ズルいな、と思った。
 机をひっくり返して中身を吐き出してしまったのは、わたしがうっかりやってしまったこと。咄嗟のことに、避け切れずに踏んでしまった。口々にそう説明されたら、そうでないことをわたしは証明できない。わたしが違うのだと説明しても、先生はわたしのドジだと理解してしまうだろう。だから彼らは、それをわかった上でわたしに嫌がらせをしているのだ。本当に狡い。
 わたしは黙々と机を起こして、教科書やノートの汚れを払い、机に詰めていく。鞄から宿題のために持ち帰ったノートと筆箱を出して、鞄を机の脇に掛けた。最後に、倒れた椅子を起こそうとすると、目の前で机が再び倒れ、せっかく詰めた中身がまた飛び出てしまった。
「あ、悪ぃ」
 前の席の男子が口元に笑みを浮かべながら謝罪の言葉を口にした。
 椅子を傾けて座っていた彼は、倒れそうになって、咄嗟にわたしの机を掴んだ。しかしその勢いを殺せず、わたしの机を倒してしまった――ということになるのだろう。
 わたしは机を戻す気にもなれなくて、その場に呆然と座り込んでしまった。そんなわたしの元へ、クラスの女子たちが集まってくる。
「|中村《なかむら》さん、大丈夫?」
 掛けてくれる言葉だけは優しいけれど、それが上っ面だということを、わたしは知っている。その顔に貼り付いた嘲笑が剥がれない限り、わたしは彼女らを信用できない。
「……大丈夫です」
 そう呟くように答えても、彼女らの一人が散らばったわたしのノートを拾い上げようとする。それを見て、わたしは背筋が寒くなり、思わず目を瞑ってしまった。
「おい」
 怒気を含んだ、低く鋭い声だ。聞き覚えがない。先生ではない。その声は、わたしに向けられているのだろうか。何か答えなければ。
 そう思って慌てて目を開けると、そこに広がっていた光景に、わたしは口にしかけた言葉を飲み込んだ。
「もうやめろよ」
 わたしのノートを拾った女子からそれを奪い取った男子。名前はたしか……|高山《たかやま》くん。話したことはほとんどなかったはずだけれど、何故だかこうしてわたしを庇うように立ちはだかっている。
「マジになんなよ、|駆《かける》」
「そうだよ~。何、中村さんのこと好きなん?」
「え~何それ、ウケる。高山くん趣味悪~い」
 わたしへ向いていた口撃が、高山くんの方へ向く。わたしのせいで。
 そんなのはいけない。わたしを庇ってくれたのは嬉しいけれど、その代わりに誰かが傷付いていいなんてことはない。
 だけど高山くんの言葉で、教室中は一瞬凍り付いた。
「好きだよ。好きな人が嫌がらせされてたら、キレて当然だろ」
 わたしも、他のクラスメートも、まさかの答えに面食らっていた。この状況で、何と言葉を発するのが正解なのか、誰もわからずにいた。
「ちょっと来いよ」
 高山くんがわたしの手を引いて、教室の外へ連れ出した。わたしの返事など聞かず、散乱した机の中身もそのままで。
 わたしは何かを言おうとしたけれど、言葉にならない。だから連れ出されるままに、彼についていくことしかできなかった。
 彼とやってきたのは、特別教室のある特別棟。教室のある本校舎とは渡り廊下で繋がっており、用のない生徒は立ち入らない寂れた場所だ。
 ようやく繋がれていた手が離されて、わたしは恐る恐る彼を見上げる。と、わたしを見下ろす視線と交わった。
「ごめん、勝手に連れ出して」
 わたしは口をぱくぱくして、でもそこから言葉は出てこず、静かに俯いた。
 結局のところ、わたしは彼の思惑がわからない。彼の言葉を信じていいものか、迷っている。それに、どうしてわたしをこんなところに連れてきたのだろう。わからない。わからないものは、怖い。
「それから、もう一つごめん。今の今まで、中村さんを助けなくて」
 彼はすっと、力が抜けたようにその場に座り込んだ。今度は逆に、わたしが彼を見下ろして、彼がわたしを見上げる立場になった。
 そしてさっきのわたしと同じように、彼も俯いてしまう。
「あ、の……どうして、助けたの?」
「中村さんのことが、好きだからだ」
 彼は即答した。改めて言われたその言葉に、偽りはない気がした。そう言う彼は、口元では笑みを作りながらも、瞳は揺れていたから。こんなわたし相手でも、拒絶されるかもしれないと、不安に思っているんだ。それが、偽りの告白であるはずがないと思った。
「ありがとう……でも、高山くんも一緒にいじめられちゃうよ。わたしと関わらない方がいい」
 わたしの絞り出すような声に、彼は努めて明るく振舞っているようだった。相変わらず笑みを湛えてはいても、その表情も声音もどこか力ない。
「俺はいいんだよ。最初は色々されても、ずっとはされないはずだから。中村さんが何であんな嫌がらせされてるか、知ってる?」
 わたしはふるふると首を振る。わかっていたら、変えようと思っただろう。でも、いくら考えてもわからなかった。わたしの何が気に入らないのか。
 彼は、それを知っているのだろうか。
「中村さん、あいつらにとって“いじめてもいい人”だからだよ」
 高山くんの言葉に、思わず涙をこぼしてしまった。
 わたしは声も小さくて、いつも挙動不審で何かに怯えているみたいで、何しても反抗してこない、脅かせばいくらでも黙らせられる都合のいいおもちゃなんだと、彼は教えてくれた。
「これからは、何があっても俺が代わりに戦うよ。中村さんに何かすると俺に仕返しされるってわかったら、あいつらももう中村さんに手出しできないだろうからさ」
「でも、高山くんは……」
 クラスの反感を買うことになるんじゃないか。わたしの代わりに何をされるかわからないのに。
「大丈夫。中村さんだけは俺の味方でいてくれるなら、俺は大丈夫だから」
 これ以上は何を言っても、たぶん彼は折れないだろうと思った。彼を犠牲にして平穏な生活を手に入れても、わたしは何も嬉しくない。けれど、彼は大丈夫だと言う。それを、信じてしまってもいいのだろうか。
 ホームルームの時間ギリギリに教室に戻ると、わたしの机と椅子はきちんと立たされ、教科書やノートも乱雑ながら机の中に詰め込まれていた。
 おおかた、先生が来るまでにわたしが戻らなかったら言い訳ができないと考えたのだろう。どこまでも自己保身のために清々しい。
 しかし今日一日に限っては、あれからわたしへの嫌がらせはなかった。陰で何を言われているかはわからないが、少なくとも表立ってわたしへ何かするということはなかった。
 それが少し不気味でもあったが、いつも騒がしいクラス内で、誰もが声を潜めて話していたのが気になった。
 たぶん、高山くんのことだ。高山くんはどちらかと言えばクラスでも人気のある方で、友達も多い。そんな人が、わたしを庇い立てた上に、わたしを好きだと宣言した。それも、この中学三年生の春になって急にだ。わたしへの嫌がらせはずっとあったはずなのに。
 クラスメートたちも高山くんの言動の意図がわからず、どうしていいかわからないのだろう。
 朝のことがあってから、高山くんはわたしに積極的に話しかけてくるようになった。それはまるで、他の人をわたしに近付けさせないようにしているようでもあったから、少なくとも彼の宣言は偽りではなかったのだと、クラス内では認知されているようだった。
 彼から聞くまで知らなかったが、彼の家はわたしの家と方向は同じらしく、登下校も一緒にするようになった。
 登下校の間や休み時間に、彼はたくさんわたしと話をしてくれた。わたしの話も聞いてくれた。
 彼は一度たりともわたしを否定したり、わたしを責めたりしなかった。わたしがどれだけ話すのに手間取っても、続きを待って、最後まで聞いてくれた。
 いつしかわたしは、彼の存在が支えになっていた。ようやく、彼の言っていたことがわかった気がする。
 今のわたしならきっと、嫌がらせをされたとしても、大丈夫。高山くんだけはわたしの味方でいてくれるなら、わたしは大丈夫。
 だけど、それが大丈夫じゃなくなる時もあるらしかった。
 しばらくして、クラスのみんなもわたしと高山くんの関係について理解してきたのだろう。夏休み前になって、わたしへの攻撃が再開されたのだ。といっても、前のように物を使った嫌がらせではなく、言葉で揶揄う程度。
 しかしそれだけではなく、高山くんも同じように、揶揄われるようになっていた。
 ある日の帰り道、わたしはそんな彼に話をした。話があると言った時の彼の顔は、いつか見た時みたいに不安でいっぱいで、やっぱり話さないでおこうかと思ってしまうほどだった。
「高山くん。……もう、やめようよ。わたしは充分救われたよ。だからわたしのことなんか放っておいて、高山くんは自分のために生きて。わたしのせいで迷惑かけるのは嫌だよ……」
 彼は何かを言おうとして、それを飲み込んだ。そして別の言葉を探るようにして、もう一度口を開いた。
「中村さんは……俺のこと、好き?」
 わたしは彼に、一度も気持ちを伝えていなかった。彼に好きだと言われた当初は、わたし自身が彼への気持ちをよく理解していなかったから、伝えることができなかった。
 それに彼は、わたしに好きだと伝えて、それ以上を求めなかった。友達のように何でもない日々を一緒に過ごすだけで、彼は何も不満を言わなかった。
 わたしはそれに甘えて、彼への気持ちをずっと伝えずにいたのだ。
 今ならわかる。わたしが彼に向けている気持ちが何なのか。でもそれを、今は言えない。
 初めて彼に伝えるわたしの気持ちが偽りのものになるなんて……わたしは最低だ。だからわたしは幸せになんてなれなくていい。罰を受けてしかるべきだ。
「わたしは……好きじゃないよ。別にわたしはあのままでよかったのに、余計なお節介だった。いじめられてるわたしを助けて、王子様にでもなったつもりなの? わたしに優しくしてるつもりで、自分に酔うのはやめなよ。はっきり言って、迷惑なの……!」
 心にもないことを吐いた。
 ここまで言えば、彼はもうわたしには関わらないだろうと思って。
 彼の顔は見れなかった。見れるわけがなかった。
 俯いたわたしの足元に、ぽたぽたと雨が降る。気持ちを隠すことを許さないように、こんなにも容赦なく太陽が照り付けるのに、雨は止まない。こんなんじゃ、逆にわたしを心配させてしまうってわかっているのに。
 わたしは彼が何か言う前に、彼を置いて走り去った。彼はついてこない。
 でも、これでいいんだ。わたしは彼の重石にしかなっていない。彼を傷付けながら縛る荊でしかない。だから、そこから彼を解き放たなきゃいけないんだ。
 わたしは家に帰ると、堰を切ったように声を上げて泣いた。お母さんが心配してくれたけれど、わたしは事情も話さずに泣き続けた。
 わたしを大切にしてくれた彼が、わたしを愛してくれた彼が、本当は大好きだったのに。
 あんなにひどいことを言ってしまった。わたしのことなんて、嫌いになっただろう。憎んですらいるかもしれない。
 彼のあの優しい笑顔は、もうわたしに向けられることがないのだと思うと、どうしようもなく悲しくて、落ち着いたはずの涙がまた溢れてきてしまう。
 これでよかったんだ。
 これで彼は、彼だけは救われる――。
 翌日、わざと時間をずらして学校に行った。
 あんなことがあっても、もしかしたら|高山《たかやま》くんは待っていてくれるかもしれない。そしてきっと、彼に会って話をしてしまえば、わたしは本当の気持ちをさらけ出してしまうだろう。
 そう思ったから、徹底的に彼を避けることにした。
 久しぶりに、一人で通学路を歩く。
 世界はこんなにも静かだったのかと思えてしまう。ここ最近はずっと隣に彼がいて、話をして、笑わせてくれた。わたしの話を楽しそうに聞いてくれた。
 一人ぼっちじゃ、話もできない。
 心の中にぽっかりと穴が開いてしまったみたいに、わたしが世界から受け取る情報は、わたしをすり抜けていってしまう。それがあまりにも悲しくて、すべてを投げ出して泣き出してしまいそうになった。
——全部、自分のせいなのに。
 学校に着くと、やはり彼はまだ来ていなかった。他にクラスメートが何人かいたが、わたしを一瞥するだけで、特にそれ以上の反応はない。机も荷物も無事。
 これが、彼がわたしのために築いてくれた、わたしのクラス内での新しいポジションだ。だからって、それと引き換えに彼が傷付くなんてことは許されない。
 やがて彼が登校してくると、一度だけ目が合ったが、そのまま挨拶も交わさず席に着いた。この反応に、何かがおかしいと気付いたクラスメートが、わたしではなく高山くんの周りに集まり始める。
「え~なになに? カノジョとケンカでもした?」
「おいおい、まさかとは思うけど、フラれたとか?」
「あの|中村《なかむら》にフラれるって……きっつ!」
 高山くんが否定をしないで黙り込んでいるもんだから、周りは口々に好き勝手に言い散らす。
 わたしは昨夜、考えてきたことがあった。こういう状況になった時に、彼を救う方法を。
「あ、あの……っ!」
 わたしが小さいながらも声を張ろうとすると、教室にいた全員の目が一斉にこちらを向いた。その視線に怖気づいてしまいそうになったが、意を決して考えてきた通りの言葉を吐き出す。
「悪いのは、わたし、なんです……! 本当は、わたしが自分を守るために、無理やり、高山くんを付き合わせた、んです。秘密をバラされたくなかったら、って脅して、わたしと仲良くするように、させたんです。だから、本当は高山くんは、わたしが好きじゃないし、わたしも、高山くんを利用してた、だけ。悪いのは、全部わたし、なんです……!」
 途切れ途切れでも、なんとか全部言い切った。
 胃がきゅっと痛くて、立っているのがつらい。何だか呼吸も苦しい。息が上手く吸えない。何だろう。周りの音が、ぼうっと遠くなっていく。どうして――。
 高山くんが顔を歪ませて、初めてわたしを庇ってくれた時のような、怒ったような、心配するような形相で、わたしに詰め寄ってくる。そして何かを言おうとしたところで——消えた。
 次に目を覚ました時、わたしは上を見上げていた。天井だ。布団を掛けられて、ベッドに横たわっている。鼻を突くのは、ほのかに香るアルコール。ここは、保健室……かな。何度か来たことがあって、この景色は覚えていた。
 ここにいるってことは、わたしは倒れでもしてしまったのだろう。まだ胃はきりきりと痛む。
 身体を起こすと、それに気付いたのか、白衣姿の妙齢の女性がカーテンの向こうからやってきた。
「目が覚めた? つらかったら横になっていていいからね」
「先生……わたし、あれからずっと?」
 時計を見上げれば、今はもう三時間目が終わろうという頃。
 先生はベッドの隣に椅子を持ってきて、腰を下ろした。
「そうだよ。先生も一応、簡単に事情は聞いたんだけど、よかったら中村さんからも聞かせてくれないかな」
「聞いたって……誰に、ですか?」
 わたしにとっては、それは重要なことだった。クラスの人たちは、わたしのことをあることないこと言うに決まっているから。先に聞いた事情で先入観を作られてしまえば、わたしがいくら話したところで、わたしの被害妄想だと突っぱねられてしまう可能性もある。
「高山くんだよ。彼、休み時間のたんびに様子を見に来てくれてね。すごく心配してたんだよ」
 どうして……あんなひどいことを言ったのに。
 ……いや、本当はわかっていた。期待していたんじゃないか。彼はわたしを嫌いにならないって。
 こんなにも彼を傷付けたわたしを、それでも彼は愛してくれるのかって、彼を試していたんだ。寝て起きて、落ち着いた頭で考えればそう思う。
 つくづく自分が嫌になる。彼に王子様でも気取ったつもりかなんて言ってしまったけれど、わたしこそ、悪者を気取ろうと過剰に悲劇ぶって……あんなのは、彼に助けを求めているのと同じじゃないか。
 先生には、全部打ち明けた。うんうん、それで? と優しく聞いてくれるから、話すつもりもなかった醜い本心でさえすべて、さらけ出してしまった。
 それでも先生は、決してわたしを否定したりはしなかった。
「中村さんは優しいんだね。でもね、もう少しわがままになってもいいんだよ。周りの目や人の言うことは気になるかもしれないけれど、それは大人になったって同じなんだ。悲しいことだけど、大人でも同じようなことをする人はいる」
 先生は視線を下げながら、少し声のトーンを落とした。先生にとっては、言いづらいことだったみたいだ。
「だからね、周りがどうかじゃなくて、自分がどうしたいのかを、もう少しよく考えてみたらいいと思うんだ。そしてそれを、ちゃんと高山くんに伝えてあげて? 高山くんは中村さんに告白してくれたんでしょう? ならちゃんと、ホントの気持ちを伝えてあげた方がいいよ。さっき先生に話してくれたみたいに」
「でも……わたし、高山くんにたくさんひどいこと言ったんです。今さら、わたしの気持ちを伝える資格なんて……」
「たしかに、中村さんは高山くんにひどいことを言ったかもしれない。だけど、それを許すか許さないかは、高山くんが決めることだよ。中村さんは、許してほしいんだったら、許してほしいってまずは言わなくちゃ。許さないってまだ言われたわけじゃないんだから、相手を勝手に決めつけちゃダメだよ。自分にちゃんと向き合ってくれる人なら、なおさらね」
 先生はそう言ってくれたけれど、わたしはなかなか踏ん切りがつかなかった。
 許してほしいなんて言ったって、許してくれるわけがない。それだけのことをしたと思ってる。
 それにわたしは、彼から罵倒されたくないのだ。あれだけ優しくしてくれた彼からひどいことを言われたら、耐えられない。自分は彼にそれをしたのに、随分と勝手な言い草だと思う。彼のためを思ってだなんてきれいごとだ。結局は、自分のことしか考えていない。
 そんな時、三時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「まずは二人でしっかり話しなさい。クラスでの嫌がらせは、自分たちで抱え込まず、先生に頼ってくれていいことだからね? 迷惑かけちゃうだなんて考えなくていいの。子供の内はたくさん迷惑かけて、大人になってから、今までかけた迷惑の分、誰かに優しくしてあげるんだよ」
 先生がそう言い終わる頃、一人の男子生徒が駆け込んでくる。その音を聞いて、先生はカーテンの向こうに戻っていった。
「こーら、駆け込み禁止だって言ったでしょう?」
「先生、|志緒里《しおり》は?!」
 この声、高山くんだ。本当に、休み時間のたびに来てくれてたんだ。
 そっと、カーテンの隙間から彼が入り込んでくる。わたしの顔を見るなり、唇を噛みしめて、鼻息を荒くしてわたしの手を取った。
「志緒里……! 良かった……!!」
 わたしの手をぎゅっと握って、崩れるようにその手に縋りついた。まるで、死の瀬戸際から戻ってきた人にするみたいな反応だ。彼にとって、わたしが倒れたというのはそれほどのことだったのだろうか。
「あの……高山くん。ごめん、わたし……」
 わたしの言葉を遮って、高山くんは顔を上げずに呟いた。
「……わかってる。余計なお節介だってことは。でも、心配だったんだ」
「違う……違うの……っ」
 彼の言うことを否定しようとしても、彼は聞く耳を持ってくれない。わたしが話そうとするのを恐れているみたいに、頑なにわたしに話をさせてくれない。こんなの、彼らしくない。
「言われた通り、俺は自分に酔ってたんだと思う。勝手に、志緒里を助けた気になってた。志緒里の気持ちなんて、何も考えずに。ごめん。志緒里は俺に好きだなんて言ってくれてなかったもんな。よく考えればわかることなのに、勝手に舞い上がってた」
「だから……違うんだって! 話聞いてよっ‼」
 自分でも出したことないくらいの大声が出て、でもようやく彼は口を閉ざし、顔をあげてくれた。
「ごめん、大きな声出して……でも、わたしの話、聞いてほしい。いつもみたいに」
「……うん、わかった」
 泣きそうになっていた彼の顔も、少しだけ落ち着いたように笑みが戻っていた。
 わたしは一つ深呼吸をして、ゆっくりと口を開く。
「ごめんなさい。わたし、高山くんにたくさんひどいこと言った。高山くんが、わたしみたいな目に遭うのは嫌だったから、だから、わたしと関わらないでほしかったの。本当は、高山くんにしてもらったこと、全部、嬉しかったのに……嘘ついた。ごめん」
「朝のあれも?」
「……うん。あれが嘘だってわかるのは、高山くんとわたししかいないから。みんな信じると思って。ごめんなさい」
 あの後、彼はどうしたのだろう。わたしが倒れてしまって、それどころじゃなかったのだろうか。クラスメートに詰問されたのだろうか。
 いずれにせよ、大変だったのだろう。彼は脱力したように、天を仰いで大きく息を吐いていた。
「謝らないで。それが聞けて良かったよ。本当に、俺のしたことが嫌だったのかと思ってたから」
「ごめん……」
「謝らないでって。じゃあさ、もう一回聞いていい? 志緒里は……俺のこと、好き?」
 こんなこと言う資格はないってわかってる。でも、彼は改めてわたしにチャンスをくれた。やり直すチャンスを。だから、今回こそは、ちゃんと自分の本当の気持ちを伝えなくちゃ。
 そう思ったら、不思議と緊張はなかった。ずっと喉の奥にあった言葉がすっと出たように、吐き出してしまえば安堵すらあった。
「好き、だよ。高山くんは、こんなひどいことをしたわたしを、まだ好きでいてくれるの……?」
「当たり前だろ。正直に言うとさ、志緒里を好きになってから、結ばれたとしても苦労はしそうだなって思ってたんだ。それでも好きな気持ちは変わらなかったけどさ」
 そう言って無邪気に笑うから、失礼なことを言われた気がしたけれど、咎める気にはなれなかった。実際に、その通りになってしまったことだし。
「わたし、これからもこうやって迷惑かけちゃうかもしれないよ? すぐ悪い方に考えちゃうし。それにまた、嫌がらせされるかも……」
「言っただろ。何があっても俺が代わりに戦うって。迷惑なんていくらでもかけてくれよ。でも、今度からはちゃんと正直な気持ちを聞かせてくれると嬉しいかな」
 また、ごめんと言いそうになって、一度口をつぐんだ。彼に伝えるのは、もうこれじゃない。わたしは改めて、ありがとうと笑顔で答えた。
「あと、その……名前、で、呼んでくれるの?」
 名前で呼ばれたことは、今まで一度もなかったはずだけど、今日になっていきなりそう呼ばれた。いつもと違うことがあると、少し不安になる。もしかして、気を遣ってくれているのかも、無理させているのかも、なんて。
「あ……! いや、これは、その……ずっと、心の中ではそう呼んでたから、つい……。嫌だったら、直すよ」
「ううん、嫌じゃないよ。そっか……」
 もしかしたら彼は、わたしが思っている以上にわたしを大切に想ってくれていたのかもしれない。だからなおさら、わたしが彼にしたことは、一生をかけて償わなくちゃいけない。
 彼が許してくれるなら、わたしはいつまでも彼の傍にいて、彼の幸せのために精一杯尽くしたい。そしてそれが、わたしの幸せにもなったらいいなと、今は考えられる。
 少しだけわがままになってもいいって、こういうこと、なのかな。
 バカだな、わたし。最初からこうすればよかったのに。
「ヤベ、そろそろ四時間目始まるわ。俺行くから、志緒里はもう少し休んでな」
「ううん、わたしも行く。もう大丈夫。だから連れてって」
 彼は少し心配そうにわたしを見つめたが、すぐにふっと微笑んで、わたしの手を引いて起こしてくれた。
「じゃあ行くぞ。次社会だから、遅れたらめっちゃ怒られるしな」
「うん!」
 笑顔の裏で、またわたしは彼を傷付けるかもしれない選択をしたな、と思った。
 わたしのせいで、授業に遅刻して、先生に怒られるかもしれない。でも彼は、それを嫌だとは言わないんだろう。
 どこまでわたしは彼に甘えてもいいんだろう。こうやって彼に少しずつ付けた傷が、いつか彼への致命傷になってしまわないか、気が気でない。
 せめて、彼がわたしをずっと好きでい続けられるように、わたしは彼の望む姿であり続けたいな。