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賞味期限付きのごみ

ー/ー



「何年振りの母校だろうね。本当に入っちゃって大丈夫なのかな。って、待ってよ、ミチル……!」


 心配する私をよそに、ミチルは野球部のグラウンドの破れたフェンスをくぐり、敷地内に入っていった。
 もうすっかり夜は更け、人の気配などまったくない。寒々しい冬の空気は、コートを着てマフラーを巻いていても、肌を刺すように体温を奪っていく。
 私もすぐにミチルの後を追いかけて、人ひとりがようやく通れるくらいの穴を抜ける。


「大丈夫だよ。夜でも意外と警備甘いって、私たちならよく知ってるでしょう?」


「いやいや、あれから何年経ってると思ってるの? さすがにマズいよ……」


 現役の頃は、こうして何度もミチルと夜の学校に侵入した。最初は単に思いつきで、肝試しみたいな感覚だった。それが段々と、私とミチルの二人だけの世界でいられる気がして、昼の時よりも学校が好きになれた。


「もう、最後に一緒に思い出の教室行こうって決めたじゃん」


「そうだけど……ううん、そうだよね。ごめんね、弱音吐いちゃってさ」


 そう、これで最後だから。もうどうなったっていい。
 私が無理にでも微笑んで見せると、ミチルはその何倍も明るくニカっと笑う。昔から変わらない。その笑顔に、何度励まされてきたことか。


「大丈夫。さ、行こ?」


 私たちは、建て付けが悪く鍵がちゃんと閉まらない3-Cの教室の窓を開けて、学校内に侵入する。ここ、まだ直してなかったんだ。
 いざ入ってみると、自分でも驚くほど、さっきまでの不安はどこかへ行っていた。そんなことよりも、懐かしさと愛おしさが勝って、気にならなくなったのだろう。


 私たちは、三階に上がり、1-Aの教室に入った。
 私とミチルが出会った最初の教室。私たちは自然と、初めて会った日の席に座る。


「楽しかったねぇ、あの頃は。まあ、青春みたいなものはなかったけどさ」


「しょうがないよ。同性しかいなかったんだし」


「……うちに異性がいたら、また違ったと思う?」


「どうだろ。結局何も変わらなかったかもね。それに私にはミチルがいたから」


 嬉しいことを言ってくれるねぇ、と俄然にやにやするミチル。その顔が少しだけ、ほんの一瞬だけ曇ったのは、たぶん私しか気付けない。私だけが、ミチルのその変化を見逃さない。だけれど今は、それを口にしなかった。


「……ナッちゃんはさ、愛って何だと思う?」


 不意に、ミチルがそう口にする。ぼんやりとした月明かりが間接照明みたいに照らす天井を見上げながら。
 私もつられて天井を見上げて、だけれどそんなことで答えが浮かぶわけでもない。いや、その問いについての答えはもう出てる。だから、考える必要がなかっただけだ。


「私は……ごみだと思うよ」


「そっか……。そんなごみを捨てられなくて抱えてしまうから、苦しいんだね」


「苦しいわけじゃない。私はもう、それに価値を見出せなくなった。だから、ごみなんだ」


 廃棄してしまいたい。だけれどそんなごみを、いまだに手元に残したままになっている。だから今夜、それを手放すつもりだった。私にはもう、それは必要ない。もう二度と、私を縛るものであってほしくないから。


「あのね、ナッちゃん。ナッちゃんが抱えるごみを作ったのは私だってこと、わかってるよ。だからきっと、責任を持ってそのごみを処分してあげなきゃいけないってことも、わかってる。だけどさ……やっぱりそのごみは、今からでも宝物にはならない?」


 ふと視線を移せば、ミチルは泣いていた。こちらを向いていないけれど、肩を振るわせて、しきりに鼻を啜り、声がくぐもる。ミチルは泣いていた。


 愛というものは、賞味期限付きのごみだ。まだ食べられるかもしれないけれど、決して美味しくはない。私の舌はもう、それを受け入れない。だから、もし貴方が愛を食むと云うのならば私は其れを吐瀉物にしたかった。
 私の喉も通らないものを、貴方の喉に通すわけにはいかない。


「ごめん、ごめんね、ミチル。いつからこうなっちゃったんだろうね。でもね、もう終わりにしなきゃ。こういうのは、いつまでも続かないよ」


 そうだよね、とミチルは呟く。それがやけに冷たくて、冷えた教室に溶けていく。


「こんなこと、ずっとは続かないって、私も思ってたよ。だからこそ、今までずっと、夢みたいだったんだ。もう、夢から醒めなきゃいけないんだね……」


 そう、こんなものは幻想だ。現実なんかであっちゃいけない。私たちの関係は、きっと社会的には認められない。到底受け入れられるものじゃない。
 だけれどそれ以上に、私はごみを捨てたくて仕方なかった(・・・・・・・・・・・・・・)


 私は鞄の中に手を伸ばし、あるものを取り出した。それは月明かりを反射して、まるで水面を泳ぐ魚のような光の影を、天井に映し出す。
 ミチルもそれに気付いてか、もう言葉を交わさなくなった。ミチルなりの覚悟なのだろう。


 私はゆっくりミチルに近づいて、一思いに刺した。脂の多い身体に刃を突き立てて、力任せに押し込んだ。ミチルはすすり泣くばかりで、声を上げることもない。
 刃を引き抜いたところから、赤がどろどろとこぼれ出る。私はすかさず、再び刃を押し込んだ。これを、何度も何度も繰り返す。
 その度にミチルは声にならない呻き声を上げて、苦しそうに咳き込み始めた。


「ねぇ、ナッちゃん……。ナッちゃんは、私のこと、愛してる?」


 不意に振り返るミチルは、両の目にいっぱいの涙を湛えていた。もはやそこに罪悪感を覚えることもなかった。今私がやっていることも、繰り返しの作業に過ぎない。私の心はそれほどまでに、腐った愛によって壊されてしまっていたらしい。


「ミチルのことは……愛してたよ」


「そ、っか……」


 目も虚になっていくミチルは、最期にぼそりと、ごめんね、と呟いた。
 そしてそのまま、椅子の上で動かなくなった。


 私はしばらくその場に座り込んで、その言葉の意味を考えていた。


 私の目には、ミチルという存在がどう見えていたのだろう。
 ミチルがいなければ乗り越えられなかった時期は確かにあった。だけれど、だからといって、私がミチルの全てを受け入れられるわけじゃない。
 私の愛を貪り、食らい尽くしていくミチル。ミチルから与えられた愛を、大事に抱え込んで腐らせてしまった私。どちらが正しくて、どちらが間違いだったのか。きっとどちらとも正しくなくて、どちらとも間違っていなかったのだ。


 それなのに私は、どうして生きているのだろう。
 私だけが、どうして生きているのだろう。


 ここで死ぬのは、愛の証明になってしまう気がした。私の抱えたごみが愛であると認めてしまう気がした。
 私は、私とミチルが過ごした日々を、ごみにしなきゃいけないんだ。


 そうしないと、私の行いは、正しかったことにできないから。
 そうしないと、ミチルの望みを叶えてあげられないから。


 ああ、だけれど、ごめん。


 滴り落ちる赤は、一色じゃあないかもしれないね。




 ◇◆




『次のニュースです。今朝、都内の私立高校の教室で、40代の男性二人が遺体で発見されました。死亡していたのは渡見(わたみ)千留雄(ちるお)さん、43歳無職、佐竹(さたけ)夏彦(なつひこ)さん、43歳無職。二人は深夜の間に校内に侵入したと見られ、一方は何者かによる殺害、もう一方は自殺である可能性が高いということから、心中を図ったとみて、警察は捜査を進めています』


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「何年振りの母校だろうね。本当に入っちゃって大丈夫なのかな。って、待ってよ、ミチル……!」
 心配する私をよそに、ミチルは野球部のグラウンドの破れたフェンスをくぐり、敷地内に入っていった。
 もうすっかり夜は更け、人の気配などまったくない。寒々しい冬の空気は、コートを着てマフラーを巻いていても、肌を刺すように体温を奪っていく。
 私もすぐにミチルの後を追いかけて、人ひとりがようやく通れるくらいの穴を抜ける。
「大丈夫だよ。夜でも意外と警備甘いって、私たちならよく知ってるでしょう?」
「いやいや、あれから何年経ってると思ってるの? さすがにマズいよ……」
 現役の頃は、こうして何度もミチルと夜の学校に侵入した。最初は単に思いつきで、肝試しみたいな感覚だった。それが段々と、私とミチルの二人だけの世界でいられる気がして、昼の時よりも学校が好きになれた。
「もう、最後に一緒に思い出の教室行こうって決めたじゃん」
「そうだけど……ううん、そうだよね。ごめんね、弱音吐いちゃってさ」
 そう、これで最後だから。もうどうなったっていい。
 私が無理にでも微笑んで見せると、ミチルはその何倍も明るくニカっと笑う。昔から変わらない。その笑顔に、何度励まされてきたことか。
「大丈夫。さ、行こ?」
 私たちは、建て付けが悪く鍵がちゃんと閉まらない3-Cの教室の窓を開けて、学校内に侵入する。ここ、まだ直してなかったんだ。
 いざ入ってみると、自分でも驚くほど、さっきまでの不安はどこかへ行っていた。そんなことよりも、懐かしさと愛おしさが勝って、気にならなくなったのだろう。
 私たちは、三階に上がり、1-Aの教室に入った。
 私とミチルが出会った最初の教室。私たちは自然と、初めて会った日の席に座る。
「楽しかったねぇ、あの頃は。まあ、青春みたいなものはなかったけどさ」
「しょうがないよ。同性しかいなかったんだし」
「……うちに異性がいたら、また違ったと思う?」
「どうだろ。結局何も変わらなかったかもね。それに私にはミチルがいたから」
 嬉しいことを言ってくれるねぇ、と俄然にやにやするミチル。その顔が少しだけ、ほんの一瞬だけ曇ったのは、たぶん私しか気付けない。私だけが、ミチルのその変化を見逃さない。だけれど今は、それを口にしなかった。
「……ナッちゃんはさ、愛って何だと思う?」
 不意に、ミチルがそう口にする。ぼんやりとした月明かりが間接照明みたいに照らす天井を見上げながら。
 私もつられて天井を見上げて、だけれどそんなことで答えが浮かぶわけでもない。いや、その問いについての答えはもう出てる。だから、考える必要がなかっただけだ。
「私は……ごみだと思うよ」
「そっか……。そんなごみを捨てられなくて抱えてしまうから、苦しいんだね」
「苦しいわけじゃない。私はもう、それに価値を見出せなくなった。だから、ごみなんだ」
 廃棄してしまいたい。だけれどそんなごみを、いまだに手元に残したままになっている。だから今夜、それを手放すつもりだった。私にはもう、それは必要ない。もう二度と、私を縛るものであってほしくないから。
「あのね、ナッちゃん。ナッちゃんが抱えるごみを作ったのは私だってこと、わかってるよ。だからきっと、責任を持ってそのごみを処分してあげなきゃいけないってことも、わかってる。だけどさ……やっぱりそのごみは、今からでも宝物にはならない?」
 ふと視線を移せば、ミチルは泣いていた。こちらを向いていないけれど、肩を振るわせて、しきりに鼻を啜り、声がくぐもる。ミチルは泣いていた。
 愛というものは、賞味期限付きのごみだ。まだ食べられるかもしれないけれど、決して美味しくはない。私の舌はもう、それを受け入れない。だから、もし貴方が愛を食むと云うのならば私は其れを吐瀉物にしたかった。
 私の喉も通らないものを、貴方の喉に通すわけにはいかない。
「ごめん、ごめんね、ミチル。いつからこうなっちゃったんだろうね。でもね、もう終わりにしなきゃ。こういうのは、いつまでも続かないよ」
 そうだよね、とミチルは呟く。それがやけに冷たくて、冷えた教室に溶けていく。
「こんなこと、ずっとは続かないって、私も思ってたよ。だからこそ、今までずっと、夢みたいだったんだ。もう、夢から醒めなきゃいけないんだね……」
 そう、こんなものは幻想だ。現実なんかであっちゃいけない。私たちの関係は、きっと社会的には認められない。到底受け入れられるものじゃない。
 だけれどそれ以上に、私は|ごみを捨てたくて仕方なかった《・・・・・・・・・・・・・・》。
 私は鞄の中に手を伸ばし、あるものを取り出した。それは月明かりを反射して、まるで水面を泳ぐ魚のような光の影を、天井に映し出す。
 ミチルもそれに気付いてか、もう言葉を交わさなくなった。ミチルなりの覚悟なのだろう。
 私はゆっくりミチルに近づいて、一思いに刺した。脂の多い身体に刃を突き立てて、力任せに押し込んだ。ミチルはすすり泣くばかりで、声を上げることもない。
 刃を引き抜いたところから、赤がどろどろとこぼれ出る。私はすかさず、再び刃を押し込んだ。これを、何度も何度も繰り返す。
 その度にミチルは声にならない呻き声を上げて、苦しそうに咳き込み始めた。
「ねぇ、ナッちゃん……。ナッちゃんは、私のこと、愛してる?」
 不意に振り返るミチルは、両の目にいっぱいの涙を湛えていた。もはやそこに罪悪感を覚えることもなかった。今私がやっていることも、繰り返しの作業に過ぎない。私の心はそれほどまでに、腐った愛によって壊されてしまっていたらしい。
「ミチルのことは……愛してたよ」
「そ、っか……」
 目も虚になっていくミチルは、最期にぼそりと、ごめんね、と呟いた。
 そしてそのまま、椅子の上で動かなくなった。
 私はしばらくその場に座り込んで、その言葉の意味を考えていた。
 私の目には、ミチルという存在がどう見えていたのだろう。
 ミチルがいなければ乗り越えられなかった時期は確かにあった。だけれど、だからといって、私がミチルの全てを受け入れられるわけじゃない。
 私の愛を貪り、食らい尽くしていくミチル。ミチルから与えられた愛を、大事に抱え込んで腐らせてしまった私。どちらが正しくて、どちらが間違いだったのか。きっとどちらとも正しくなくて、どちらとも間違っていなかったのだ。
 それなのに私は、どうして生きているのだろう。
 私だけが、どうして生きているのだろう。
 ここで死ぬのは、愛の証明になってしまう気がした。私の抱えたごみが愛であると認めてしまう気がした。
 私は、私とミチルが過ごした日々を、ごみにしなきゃいけないんだ。
 そうしないと、私の行いは、正しかったことにできないから。
 そうしないと、ミチルの望みを叶えてあげられないから。
 ああ、だけれど、ごめん。
 滴り落ちる赤は、一色じゃあないかもしれないね。
 ◇◆
『次のニュースです。今朝、都内の私立高校の教室で、40代の男性二人が遺体で発見されました。死亡していたのは|渡見《わたみ》|千留雄《ちるお》さん、43歳無職、|佐竹《さたけ》|夏彦《なつひこ》さん、43歳無職。二人は深夜の間に校内に侵入したと見られ、一方は何者かによる殺害、もう一方は自殺である可能性が高いということから、心中を図ったとみて、警察は捜査を進めています』