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悪天候

ー/ー



「やれやれ、こんな時に悪天候とは、困ったものだな」


 男は外出しようと敷地内から車を走らせ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。ただでさえ、ここのところ籠りきりで滅入っていたところに、この欝々とした雨。どうにも興が乗らないという様子である。


「……おや、爺、止めてくれ」


 外門を出てすぐ、男は何かに気付いたように、老爺に車を止めさせた。


「どうされました、坊ちゃま」


「爺、傘はあるか?」


「こちらに」


 男の要望に、老爺はすぐさま運転席から傘を一本差し出す。


「二つだ、二つ」


「た、ただいま」


 男の要望の真意がわからぬまま、老爺は予備の傘も男に差し出した。


「パーティーには遅れると連絡しておいてくれ」


 それだけ言い残して、男は車を出ていった。


「どうしたんだい? そんなところにいたら、風邪をひいてしまうよ」


 車から出た男は、雨に濡れている少女に傘を差し出した。何か善行を施して、いい気分に浸ろうという考えだった。しかし彼女は、彼のことなど気にも留めず、ただただアルミの鋳物フェンスの隙間から覗くように、中の様子を窺っている。微動だにすることもなく、傘を受け取る様子もまるでない。仕方なく、彼は傘を開いて少女の頭上を覆うように差してやった。


「中が気になるのか?」


 しかし、男の問いに、少女は言葉を返さない。どうしたものかと男が頭を抱えていると、少女は遅れて、わずかに首を縦に振った。反応してもらえたのが嬉しかったのか、男は得意げに彼女を中へ誘う。


「そうかそうか、良ければ見ていくといい。今日は生憎の雨だが、それでも花は美しいからね」


 男に案内されるままに、少女は敷地内にあるローズガーデンへと入っていった。しっとりとした雨の冷たさ、雨の中に紛れる土の匂い、灰色に褪せた視界。一歩一歩踏み進めるごとに、少女の記憶が呼び起こされていく。


「ここは元々、向日葵畑があったんだ。そこを丸ごと買い取ってローズガーデンに変えたんだけど、やっぱり自然に向日葵が群生するだけあって、土の質も良くてね。毎年この時期になると、綺麗なバラが咲くんだ」


 そう、この場所は昔、向日葵畑だった。こんな豪邸やローズガーデンなどない、ありふれた田舎の一角だった。この男が悪いわけではない。わかっている。わかってはいるが、……時間というのは、残酷だ。


 少女はそんな思いに打ちひしがれ、俯いてしまいそうになるのを必死で堪えていた。


「君は花が好きなのかい?」


 少女はすぐには答えなかったが、しばらくして重い口を開いた。


「……いえ。花は、嫌いです」


 男は彼女の答えに驚いたように目を見開き、その理由を問う。花が嫌いな君が何故ここにいるのか、と。


「……花は、咲いている時は美しいですが、散るのも劇的なほどあっという間。そして……雨に弱い」


 男には、彼女の目がどこか遠くを見ているような気がした。目の前の花ではなく、どこか遠い記憶の中にある景色を。


「なるほど、確かにそうだね。でも、その散る様も美しいと、私は思うけれどね。世の中は常に移りゆくものだ。変わらないものなどない。だからこそ、失われる最期のひと時まで美しくあるのは、実に優美なことだと思わないかい?」


「……どうでしょう。散るのがわかっていて、その美しさを愛でるというのは、わたしにはわかりません」


 男は言葉に詰まり、しばしの沈黙の後、彼女はこう続けた。
「太陽に向かって咲く向日葵も、雨の中では俯いてしまう。でも雨が止めば、また上を見上げて咲くんです。どれだけ辛いことや悲しいことがあっても、また上を見上げて咲けばいい。といってもこれは、わたしの言葉ではなくて、ただの受け売りなんですけど」


 この言葉をくれた、向日葵のような底抜けの明るい笑顔を思い出し、少女の双眸から大粒の滴が流れ落ちる。だが男は、彼女の眼鏡の奥にあるその瞳の色を見透かすことはできなかった。上を見上げた彼女の瞳は、眼鏡によって雨から守られているのに、どうしてこんなにも濡れてしまっているのか。その向こうに一体どんな想いが秘められているのか。男には思い至ることができない。


「でもそんな向日葵だって、なくなっちゃえば、どうしようもないですよね」


 そう言って男の方を振り返った彼女は、満面の笑顔を浮かべていた。それがぎこちないものでなく、ごく自然なものだったから、男は余計に悩ましくなってしまう。


「ごめんなさい。お引き留めしてしまって。案内してくれて、ありがとうございました」


 少女は男に一礼し、早足で立ち去ろうとする。男はそんな彼女にどうしても一言尋ねたくて、声を張り上げて呼び止めた。


「待ってくれ! 君は……あの向日葵畑を残してほしかったのか?」


「……どうでしょう。世の中は常に移りゆくもの、変わらないものなどないんですから」


 少し皮肉交じりに聞こえた彼女の言葉に、男はそれ以上の追求を躊躇った。出会った数分前とは違う、どこか吹っ切れたような様子で歩いていく彼女に、何も声をかけられなかった。声をかける必要がないとさえ思った。彼女は変わったのだ。男と出会って。この数分で。その事実だけで、男には充分満足のいく結果だった。少し、いい気分になれた。


 いつの間にか、雨は止んでいた。


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「やれやれ、こんな時に悪天候とは、困ったものだな」
 男は外出しようと敷地内から車を走らせ、ぼんやりと窓の外を眺めていた。ただでさえ、ここのところ籠りきりで滅入っていたところに、この欝々とした雨。どうにも興が乗らないという様子である。
「……おや、爺、止めてくれ」
 外門を出てすぐ、男は何かに気付いたように、老爺に車を止めさせた。
「どうされました、坊ちゃま」
「爺、傘はあるか?」
「こちらに」
 男の要望に、老爺はすぐさま運転席から傘を一本差し出す。
「二つだ、二つ」
「た、ただいま」
 男の要望の真意がわからぬまま、老爺は予備の傘も男に差し出した。
「パーティーには遅れると連絡しておいてくれ」
 それだけ言い残して、男は車を出ていった。
「どうしたんだい? そんなところにいたら、風邪をひいてしまうよ」
 車から出た男は、雨に濡れている少女に傘を差し出した。何か善行を施して、いい気分に浸ろうという考えだった。しかし彼女は、彼のことなど気にも留めず、ただただアルミの鋳物フェンスの隙間から覗くように、中の様子を窺っている。微動だにすることもなく、傘を受け取る様子もまるでない。仕方なく、彼は傘を開いて少女の頭上を覆うように差してやった。
「中が気になるのか?」
 しかし、男の問いに、少女は言葉を返さない。どうしたものかと男が頭を抱えていると、少女は遅れて、わずかに首を縦に振った。反応してもらえたのが嬉しかったのか、男は得意げに彼女を中へ誘う。
「そうかそうか、良ければ見ていくといい。今日は生憎の雨だが、それでも花は美しいからね」
 男に案内されるままに、少女は敷地内にあるローズガーデンへと入っていった。しっとりとした雨の冷たさ、雨の中に紛れる土の匂い、灰色に褪せた視界。一歩一歩踏み進めるごとに、少女の記憶が呼び起こされていく。
「ここは元々、向日葵畑があったんだ。そこを丸ごと買い取ってローズガーデンに変えたんだけど、やっぱり自然に向日葵が群生するだけあって、土の質も良くてね。毎年この時期になると、綺麗なバラが咲くんだ」
 そう、この場所は昔、向日葵畑だった。こんな豪邸やローズガーデンなどない、ありふれた田舎の一角だった。この男が悪いわけではない。わかっている。わかってはいるが、……時間というのは、残酷だ。
 少女はそんな思いに打ちひしがれ、俯いてしまいそうになるのを必死で堪えていた。
「君は花が好きなのかい?」
 少女はすぐには答えなかったが、しばらくして重い口を開いた。
「……いえ。花は、嫌いです」
 男は彼女の答えに驚いたように目を見開き、その理由を問う。花が嫌いな君が何故ここにいるのか、と。
「……花は、咲いている時は美しいですが、散るのも劇的なほどあっという間。そして……雨に弱い」
 男には、彼女の目がどこか遠くを見ているような気がした。目の前の花ではなく、どこか遠い記憶の中にある景色を。
「なるほど、確かにそうだね。でも、その散る様も美しいと、私は思うけれどね。世の中は常に移りゆくものだ。変わらないものなどない。だからこそ、失われる最期のひと時まで美しくあるのは、実に優美なことだと思わないかい?」
「……どうでしょう。散るのがわかっていて、その美しさを愛でるというのは、わたしにはわかりません」
 男は言葉に詰まり、しばしの沈黙の後、彼女はこう続けた。
「太陽に向かって咲く向日葵も、雨の中では俯いてしまう。でも雨が止めば、また上を見上げて咲くんです。どれだけ辛いことや悲しいことがあっても、また上を見上げて咲けばいい。といってもこれは、わたしの言葉ではなくて、ただの受け売りなんですけど」
 この言葉をくれた、向日葵のような底抜けの明るい笑顔を思い出し、少女の双眸から大粒の滴が流れ落ちる。だが男は、彼女の眼鏡の奥にあるその瞳の色を見透かすことはできなかった。上を見上げた彼女の瞳は、眼鏡によって雨から守られているのに、どうしてこんなにも濡れてしまっているのか。その向こうに一体どんな想いが秘められているのか。男には思い至ることができない。
「でもそんな向日葵だって、なくなっちゃえば、どうしようもないですよね」
 そう言って男の方を振り返った彼女は、満面の笑顔を浮かべていた。それがぎこちないものでなく、ごく自然なものだったから、男は余計に悩ましくなってしまう。
「ごめんなさい。お引き留めしてしまって。案内してくれて、ありがとうございました」
 少女は男に一礼し、早足で立ち去ろうとする。男はそんな彼女にどうしても一言尋ねたくて、声を張り上げて呼び止めた。
「待ってくれ! 君は……あの向日葵畑を残してほしかったのか?」
「……どうでしょう。世の中は常に移りゆくもの、変わらないものなどないんですから」
 少し皮肉交じりに聞こえた彼女の言葉に、男はそれ以上の追求を躊躇った。出会った数分前とは違う、どこか吹っ切れたような様子で歩いていく彼女に、何も声をかけられなかった。声をかける必要がないとさえ思った。彼女は変わったのだ。男と出会って。この数分で。その事実だけで、男には充分満足のいく結果だった。少し、いい気分になれた。
 いつの間にか、雨は止んでいた。