エリシアは助手席に座り、車が走る音に身を委ねながら、窓の外の景色を眺めていた。
若い衆が運転する車は順調に進んでいるが、突然、何も言わずにすべての窓を開け始めた。
「ちょ!何してんですの!?寒いでしょ!」
エリシアは思わず声を上げた。寒風が一気に車内に流れ込み、顔に当たる冷たい空気に耐えられない。
「いや!姉さん!こうすると空気抵抗が減って、早く走れるんすよ!」
若い衆はニヤニヤしながら、窓を開け続ける。自信満々な顔にエリシアはさらに不快感を抱く。
「ふぅーん。あのねぇ、私もバカじゃないんですのよ……そんなんで騙されるわけないでしょ」
エリシアの声には、少しの冷たさと皮肉が混じっていた。若い衆はその言葉に驚いた様子で窓を閉め始めた。
「え、ええ、すみません……」
「そもそも、空気抵抗がどうだとか……あんた、ちょっと考えた方がいいんじゃないですの?」
エリシアはそう言って、窓を閉め終わるのを待ってから、静かに座り直した。再び温かい空気が車内に広がると、ようやくリラックスできる。
「こんなことで速度が変わると思ってるなんて……バカすぎですわよ」
エリシアは小さくため息をついて、車内に響くエンジン音に耳を澄ました。
——後日。
エリシアは朝の通勤時間帯、漆黒の愛車「ヴェスパー」を運転していた。陽光が車体に反射し、美しく輝く姿が誇らしい。だが、そんな余韻に浸る間もなく、事件が起こった。
交差点を直進しようとしたその瞬間——
——ガッシャーン!
脇見運転をしていた車が、一時停止を無視して飛び出してきたのだ。衝撃に車体が揺れ、エリシアのヴェスパーは助手席側のドアに大きなダメージを受けた。
事故の相手は、まだ若い少年だった。17か18歳くらいだろうか。制服姿があどけなく、慌てふためく様子は経験の浅さを物語っている。
「す、すみません!本当にすみません!どうしたら……」
エリシアは彼をじっと見つめた。その瞳には怒りとも呆れともつかない感情が宿っている。
「まあいいですわ。とりあえず車についてきなさいませ。」
そう言うとエリシアは無傷の運転席に乗り込み、少年に自分の軽自動車「ラパン」でついてくるよう指示した。
修理工場に着くと、エリシアは凹んだ助手席側のドアを指差して店員に状況を説明する。少年はその間も、何度も頭を下げ続けている。
「すみません、すみません……」
「謝るだけなら誰でもできますわよ。それより、あなたのお仕事は?」
少年は自分の仕事を説明した。
「まあいいですわ。ただこっちの車が使えませんので、ちょっと借りますわよ」
「えぇ!?そ、それは……」
「心配しなくてよろしいですわ。仕事が終わる時間にはきっちりお迎えに参りますから。えっと……5時?残業なんてしませんわよね。」
親切にも思えるが結局は「車ぶつけておいて逃げるとかまじ無理」ということで彼のラパンは彼女が預かるつもりだった
少年は言葉を失い、ただ小さく頷くことしかできなかった。
エリシアは少年のラパンに乗り込み、自分の屋敷へと戻った。漆黒のヴェスパーとは比べるべくもないその小さな車は、屋敷の駐車スペースで一際異彩を放っていた。
「え、その車……?」
若い衆たちが訝しげな視線を送る。いつもならエリシアが降り立つ車は高級車か彼女自身の愛車だったからだ。
「あ〜、事故ったから相手の車を借りてんですの。修理が終わるまでの代わりですわよ。」
エリシアは気にした様子もなく、手をひらひらさせながら軽く説明した。
その日の運転当番は、ため息をつきながらラパンの運転席に座った。注文しておいた魔道具をショップに取りに行くため、エリシアを送迎するのが彼の役目だった。
エリシアは後部座席に優雅に腰を下ろし、外の景色を眺める。その振る舞いは、軽自動車の狭さなど意に介していないかのようだった。
だが、運転当番は内心思っていた。
(いやいや、これラパンっすよ?こんな車で後部座席のドアを開けて降り立たせるなんて、格好がつかないにも程があるでしょ……。)
とはいえ、彼の仕事は決まっている。どんな車であれ、横付けして後部座席のドアを開け、エリシアをエスコートするのが役目だ。
やがて魔道具ショップの前に到着。ラパンをきっちりと横付けし、当番は後部座席のドアを開けた。
「お疲れ様です、エリシア様。」
エリシアはラパンから降り立つと、何事もないように店内へ向かった。その堂々たる姿は、彼女がどんな車に乗ろうと変わらない威厳を放っていた。
だが、通りすがりの人々の視線がラパンに集まるたび、当番の内心はざわついていた。
(せめてもう少し、貫禄のある車なら……。)
その背中を見送る当番のため息が、エンジン音に紛れて聞こえた気がした。
その日の昼過ぎ、屋敷の電話がけたたましく鳴った。電話番が手際よく受話器を取ると、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「おぉ〜ヴァイだけどよ、お前んとこ、今すげぇ噂になってるゼェ〜?」
その一言に電話番の顔が引きつった。
「噂……ですか?」
「そうよ。魔女のエリシア様がよぉ、なんか少年から車を奪い取って、それを乗り回してるって話だぜ。ハッハッハ!」
ヴァイの軽薄な笑い声が受話器越しに響く。
「……は、はぁ。」
電話番は眉をひそめた。この小さな街ではどんな些細なことでもすぐに噂が広まり、それが過剰に脚色されるのだ。だが、まさかエリシア様がそんな風に言われているとは。
「まあ、俺としては笑っちまう話だけどよ。お前らどうするんだよ?」
「えっと、その……対応を検討しますので……。」
電話を切った後、電話番はすぐにエリシアのもとへ向かった。
「エリシア様、お電話で……ヴァイ様から、噂の件についてお話が……。」
エリシアは紅茶を口に運びながら、軽く首を傾げた。
「噂?何のことですの?」
「えっと、エリシア様が少年から車を奪い取ったという……そのような話が……。」
エリシアは一瞬沈黙した後、紅茶のカップを静かにソーサーに戻した。
エリシアは電話番からヴァイの話を聞き、しばし困惑した様子を見せた。だが、すぐに椅子から立ち上がると、片手でスマホを取り出し、どこかへ電話をかけ始めた。
「もしもしぃ?あぁ、私ですわ。そういうわけで夕方……はい、迎えに行く予定ですの。えぇ、事件化とかしてませんわよね?ですわよね〜。じゃあ、そのように!」
電話を切ると、エリシアはすぐに運転当番を呼びつけ、指示を飛ばした。
「ラパンで迎えに行きますわよ。ちゃんと用意しておきなさいな!」
「は、はい……」
夕方、エリシアは運転当番に例のラパンを運転させて少年の職場へ向かった。
(助手席に姉さんが座るのか……いや、後部座席の方がいいな……)
運転当番はそんなことを考えつつ、目的地に到着した。少年を見つけると、エリシアが車から降りることなく、手を振りながら言った。
「あぁ、そこのあなた!早く乗りなさいな!」
少年は恐る恐る助手席に座った。
「あの……」
「はいはい。いいから早く当局に行きますわよ〜!」
「えぇ?」
少年の戸惑いをよそに、エリシアは当局、しかも「魔族対策課」のほうで手続きを済ませるつもりだった。
——魔族対策課
エリシアが事情を説明し、事故の経緯を話し終えると、担当者はやや呆れた様子でまとめた。
「……つまり、怪我人もいないし、修理の手配もついてるわけですね。で、事故の記録だけで終わり、と。」
「そうですわ。それで何の問題もありませんわね?」
「えぇ、問題ありません……ただ……」
担当者はラパンをチラリと見た。
「魔女のエリシア様がこんな車に乗ってたって噂のほうが、正直話題になりそうですね。」
エリシアはその一言に眉をひそめたが、あえて何も言わず、車に乗り込んだ。
「さ、これで噂も鎮火ですわね。」
助手席で縮こまる少年は、ただ黙って頷くことしかできなかった。
——それからしばらくしたある日。
その日の夕方。若い衆たちが集まる休憩室では、エリシアの噂話で持ちきりだった。
「いやいや、姉さんが若い男連れて歩いてたって、マジかよ?」
「デパートだのカフェだの、いろんなところで目撃されてんだってさ。」
「しかも、なんか楽しそうだったらしいぞ。」
噂の真偽を確かめるべく、一番年若い若い衆がエリシアに突撃した。
——執務室
「姉さん、最近変な噂がありまして……」
「はぁ!?」
エリシアが書類に目を落としたまま、怪訝そうに顔を上げる。
「いや、それがですねぇ……なんか男の子と歩いてたとか……」
「え、歩いてたらダメですの?」
エリシアの鋭い目が、若い衆に突き刺さる。
(まじで、そういうことなのか……)
「あ、あの……それってもしかして、例の事故の——」
「そうですわよ。それがどうかしましたの?」
さらりと答えるエリシア。
若い衆は、それ以上聞く勇気がなかった。
休憩室に戻ると、他の若い衆たちが待ち構えていた。
「どうだったんだよ?」
「いや……聞いたけどさ、確かにその事故の少年みたいだわ。」
「ってことは、なんだ、やっぱり?」
「……知らねえよ。ただ、姉さんがめっちゃ堂々としてたのは確かだ。」
結局、若い衆たちの間で噂が完全に払拭されることはなかった。
ある日、運転当番の若い衆が後輩に車を運転させていた。
助手席で腕を組みながら、後輩の運転技術を見守っていると——
——ウィイイイン!
後輩がいきなり全ての窓を開け放った。
「おいおい、寒いじゃねえかよ!閉めろよ、何やってんの?」
「あ、すいません。でも先輩……こうした方が空気抵抗が減って早く走れるって聞きました。」
「……お前、それ、誰から聞いた?」
後輩が運転しながら恥ずかしそうに答える。
「エリシアさんから……」
若い衆は思わず天を仰ぎ、大きなため息をついた。