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未送信の庭 前編

ー/ー




 庭の紫陽花が、低く平坦な合成音声で喋った。
「オミズが、ホシイ、デス」
「はいはい、今あげるわね」


私は霧吹きを手に取り、葉の一枚一枚に水をかけていく。首元に装着した『プランツ・トーク』の受信機が、シュッという音に反応し、「アリガトウ」と鳴った。


このデバイスが普及してから、庭仕事は孤独ではなくなった。


植物の蒸散量や土壌のpH値を解析し、それを「言葉」に変換してくれる装置だ。その無機質な声は、かつてこの庭を駆け回っていた愛犬の鳴き声や、まだ若かった頃の夫の穏やかな声に、どこか似ていた。


「今日は、ヒザシが、キモチイイ、デスネ」

リビングの窓越しに、夫がこちらを見ているのが分かった。

彼はもう、私に話しかけない。定年退職してからというもの、彼は書斎に籠もり、私は庭に籠もる。同じ屋根の下にいながら、私たちの間には、手入れされない雑草のような沈黙が茂っていた。

異変が起きたのは、夏の終わりの夕暮れだった。

「アイシテ、イマス」


向日葵に水をやっていると、唐突にその言葉が降ってきた。

「……え?」
「アイシテ、イマス。アイシテ、イマス」


バグだろう。

あるいは、AIの過学習による誤作動か。
それでも、その言葉は甘い毒のように、耳から脳へと染み渡った。


夫からは、もう十年以上も聞いていない言葉だった。私は夕闇の中で、狂ったように繰り返される合成音声を、ひとり、うっとりと聞き続けた。


それからというもの、私は庭から出なくなった。

夫が「夕飯はどうするんだ」とドアを開けても、私は受信機から流れる「アイシテ、イマス」に耳をかたむけ、彼を拒んだ。現実の夫の、しわがれた声よりも、機械が奏でる愛の言葉の方が、よほど真実味を帯びて感じられたのだ。


ある日、ついにデバイスの画面にエラーメッセージが表示された。
[未送信メッセージの再送完了:20✕✕年6月15日設定分]


指が止まった。





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 庭の紫陽花が、低く平坦な合成音声で喋った。
「オミズが、ホシイ、デス」
「はいはい、今あげるわね」
私は霧吹きを手に取り、葉の一枚一枚に水をかけていく。首元に装着した『プランツ・トーク』の受信機が、シュッという音に反応し、「アリガトウ」と鳴った。
このデバイスが普及してから、庭仕事は孤独ではなくなった。
植物の蒸散量や土壌のpH値を解析し、それを「言葉」に変換してくれる装置だ。その無機質な声は、かつてこの庭を駆け回っていた愛犬の鳴き声や、まだ若かった頃の夫の穏やかな声に、どこか似ていた。
「今日は、ヒザシが、キモチイイ、デスネ」
リビングの窓越しに、夫がこちらを見ているのが分かった。
彼はもう、私に話しかけない。定年退職してからというもの、彼は書斎に籠もり、私は庭に籠もる。同じ屋根の下にいながら、私たちの間には、手入れされない雑草のような沈黙が茂っていた。
異変が起きたのは、夏の終わりの夕暮れだった。
「アイシテ、イマス」
向日葵に水をやっていると、唐突にその言葉が降ってきた。
「……え?」
「アイシテ、イマス。アイシテ、イマス」
バグだろう。
あるいは、AIの過学習による誤作動か。
それでも、その言葉は甘い毒のように、耳から脳へと染み渡った。
夫からは、もう十年以上も聞いていない言葉だった。私は夕闇の中で、狂ったように繰り返される合成音声を、ひとり、うっとりと聞き続けた。
それからというもの、私は庭から出なくなった。
夫が「夕飯はどうするんだ」とドアを開けても、私は受信機から流れる「アイシテ、イマス」に耳をかたむけ、彼を拒んだ。現実の夫の、しわがれた声よりも、機械が奏でる愛の言葉の方が、よほど真実味を帯びて感じられたのだ。
ある日、ついにデバイスの画面にエラーメッセージが表示された。
[未送信メッセージの再送完了:20✕✕年6月15日設定分]
指が止まった。