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5

ー/ー



 ほんの少し口元に笑みを(たた)えただけで、基の印象はぐっと柔らかくなる。
 最初からこういう顔してればいいのに、と少しそわそわする気持ちを誤魔化すように、詩鶴は軽く息を吐いた。
 「…今度こそ瀬尾さんの話を聞きたいです」
 「あぁ、何で登録したのかって話?」
 自分の話は充分にした、充分過ぎるほど話して、若干疲弊しているくらいだ。
 詩鶴が頷くと、基は顎に手を当ててまた少し考え込んだ。
 「何でそんな勿体ぶるんですか?」
 はぐらかされて焦らされて、詩鶴は唇を尖らせて不満を漏らす。
 「勿体ぶってる訳じゃないんだ。ただ…今日君に会うまでは、結婚したい理由は相手に合わせてそれらしい作り話をしようと思ってた。適当に耳触りのいい話をして、それでスムーズに事が進むならその方が面倒がないなって。でも君の話を聞いてたら…なんだろうな。君には嘘をつきたくないような気がしてきた。でも本当の事を言ったら君は呆れるかもしれない。だから迷ってるんだ」
 基はテーブルに両肘を置いて、じっと詩鶴を見つめる。瞬きもほとんどせずに相手をじっと見詰めるのは、この人の癖なのだろうか。心の内側を暴こうとするような眼差しに、詩鶴は思わず俯いて目を逸らした。誤魔化すための憎まれ口が、口を()いて出る。
 「瀬尾さんの言うことは、いちいち回りくどくて…」
 言った後で、はっとする。今の言い方は相当感じ悪かった、と焦ったが、もう遅い。だが基は気を悪くする事もなく、喉の奥で小さく笑う。
 「君からしたらそうかもな。まぁいいや、君に(なら)って正直に話そう。僕が結婚して子供を持とうと思ったのは、仕事の為だ」
 「仕事?」
 詩鶴は首を傾げた。
 「瀬尾さんの仕事に結婚や子供が必要ですか?」
 基の仕事は作家業。光稀の家のように、子を()して後を継がせる必要のある職業ではなさそうに思える。
 「うん。僕は大学在学中にデビューして、卒業後はこの仕事一本で生計を立ててきた。芸術家じゃなくて、商業作家だ。得手不得手も好き嫌いもない。依頼があればどんなジャンルでも書いてきた。ホラーでも裏稼業でも、経験が無ければ難しいような専門的な業界話も、綿密な取材と調査で何とかしてきた。仕事を選り好みしなかったおかげで全方位作家とか呼ばれて、依頼は途切れたことがない。けど」
 けど、と繰り返して、基は窓の外を見た。つられて詩鶴も店の外に目を遣る。基は四指を握って立てた親指だけで、道路を歩く親子連れをそっけなく指し示した。
 「もう四年も前に企画を貰ったのに未だに手つかずの、どうしても書けないジャンルがある」
 「書けないもの?どんなのですか?」
 「家族小説」
 「家族小説?」
 詩鶴は首を捻った。小説なんて書いた事ないからわからないけれど、深い知識を必要とする医療ものとか歴史ものとかよりは、身近で書きやすそうに思える。
 「僕は多分、少し特殊な家庭で育った」
 基はテーブルに頬杖をついて、窓の外を眺めたまま話を続けた。
 「いや、別にそう複雑な事情がある訳じゃない。両親とも健在だし血の繋がりもある。虐待を受けた訳でも確執がある訳でもない。ただとにかく仕事に忙しい人たちで、家族と過ごした記憶があまりない。ごく幼い頃は一緒に暮らしてたらしいんだが、殆ど覚えてないんだ。それでも小学生くらいの頃は年に数回は会ってた気がするけど…年齢とともに会う回数が減っていって、中学生の時なんかは入学式と卒業式しか会ってない。最後に会ったのは、確か五年くらい前だ」
 「五年?それはちょっと…長すぎやしませんか」
 平然と話す基と対照的に、詩鶴は信じられないと目を丸くした。
 「一般的にはそうなんだろうな。でも僕にはそれが普通の生活だったんだ。家には家政婦(ハウスキーパー)がいたから不自由はなかった。親っていうのは時々遊びに来ては可愛がってくれる大人、くらいの感覚だったんだよ」
 「凄く遠い親戚みたいな?」
 「なのかな。それすら僕にはわからない。親戚付き合いもなかったからな。とは言え家政婦も長く勤めてくれてる人達だったから僕の事をよく理解してくれていたし、学校行事とかも来てくれてたから困った事はなかった。孤独だとかそういう気持ちもなかったんだよ。だからそこまで特殊だと感じた事もなくてね」
 「いや、でも…」
 詩鶴はそこで言い淀んだ。
 一概に否定的な事は言えない。
 沢山の子供、沢山の家庭を見てきたから、家族の関係性の良し悪しが、通り一遍の外枠を聞き齧っただけで判断出来るものではないとわかっている。一緒に過ごす時間の長さと愛情が比例する訳ではない事も。
 でも──
 「そう。でも、なんだよ。寂しくもなかったし親に対する恨み(つら)みもない。むしろ何不自由なく好きにさせてくれて感謝してるくらいだ。でも家族というものがどういうものなのか、そこに芽生える心の機微がどういうものなのか、僕には見当もつかない」
 基はふと詩鶴に視線を戻して、真面目な顔になった。
 「カマキリの雄の何割かは、交尾中に雌に喰われて生涯を終えるだろ?」
 「え?あ、はい。ちらっと聞いたことあります」
 「蛸やハサミムシの親は一歩も動かず絶食までして卵を守り続け、子供達が孵化するのを見届けた後、すぐに死ぬ」
 「え?あ、そうなんですか。知らなかった」
 「多くの動物はパートナーを得る事や出産や子孫に固執し、人生、及び生命を捧げるんだ。君は我が子に対する彼らの執念が理解できる?」
 「え?いや、どうかな。ちょっとわからないですね」
 「そうだろう。僕もわからない。それと同等に、人間が家族に対して感じる執着ってものもよくわからない。それが書けない理由じゃないかと思うんだ。しかも家族の問題は、ホームドラマが主軸じゃなくても小説を書く上で重要なファクターになることが多い。それをわからないで済ませちゃいけないような気がした。書けないから書かないってのは、作家としての矜持に反する」
 「……えーと、つまり…」
 未着手の仕事、特殊な家庭環境にカマキリに蛸にハサミムシに…小説の重要なファクターと作家の矜持?
 情報量の多さに混乱して、詩鶴は額を押さえた。
 「つまり、自分で所帯を構え身をもって家族というものを体験すれば、理解して書けるようになるだろうと思ったんだ」
 基は真顔でそう言って、氷が溶けて淡い色になったアイスコーヒーを、一口飲んだ。
 はぁ、と詩鶴は溜息なのか相槌なのかよくわからない、曖昧な発声をした。
 「今話したのは、僕が家族を持とうと思った理由だ。〈vita〉を使って相手を見つけようと思った理由は別にある」
 「え」
 まだ続きがあるのか、と詩鶴は身構えた。
 「これは言わなくても嘘にはならないから、話そうかどうか迷っているんだけど」
 「そこまで聞いたら全部聞きたいです。お願いします」
 「次が二度目だ」
 「何が二度目?」
 理解出来ず、詩鶴は眉を寄せて繰り返す。
 「結婚。僕のこの家族計画は、昨日今日思いついた話ではなくて以前から検討していたものだ。ある時期、僕と結婚したいとしつこくアプローチしてくる女性がいて、まぁ目的は一致するしちょうどいいかと思って結婚した事がある。彼女には最初から僕の目的を明確に伝えていた。正直なところ彼女に対して愛情を抱けるとはとても思えなかったから、それも伝えた。それでもいいと言うから結婚したんだ。けど彼女は、やっぱり自分を愛してない男の子供なんて産めないと言って、三ヶ月程度で離婚届を差し出してきた。お互いの求めるものが違ったんだなと思って、僕も同意して提出したよ。彼女だけを責めるつもりはないが、そんなのを繰り返すのは時間と労力の無駄だ。だから今度は目的の一致する相手を探そうと思った。恋愛云々(うんぬん)は置いといて、家族を、子供を作るという確固たる目的を持った同志を。それには〈vita〉のシステムを利用するのが手っ取り早いだろうと思ったんだ。君も──」
 「や、ちょっと待って待って」
 淡々と話を続けようとする基を、詩鶴は焦って止めた。
 「婚姻歴があるなんて聞いてません」
 「だから今伝えた。婚姻歴の有無については登録時の必須項目になかったから書かなかった。正直僕にとっては経験と呼ぶに足らないような出来事だったし、状況によっては相手が気付くまで黙っててもいいかと思ってた。でも君には話しておいた方がいい気がするから、一応初めに言っておく」
 「………」
 「『後々ボロ出して揉めるくらいなら駄目なら駄目で早い段階で見切り付けられた方がいい』んだろう?」
 基は口元を歪めて、先程の詩鶴の言葉を引用した。
 「…ちょっと…ちょっと待って。少し頭を整理させて貰ってもいいですか」
 「いくらでもご自由に。何か追加で頼む?」
 そう言って基はメニューを差し出したが、詩鶴にそれを受け取る精神的余裕はなかった。
 自分が登録した時の事を思い返してみるが、確かに基の言う通り婚姻歴の有無は任意項目だった気がする。そして詩鶴自身も、希望条件の欄に『初婚の人』とは書かなかった。だがそれは離婚歴を問わないという意味ではない。単にそこまで考えが及ばなかったというだけだ。

 未着手の仕事と特殊な家庭環境を持つ、誇り高き人気作家。
 カマキリと蛸とハサミムシに触発されて家庭を持つことを、子供を望み、愛なき結婚をし離婚して、再び伴侶を探している。

 更新された基のプロフィールが頭の中で渦巻く。トイレの水を流すかのように、勢いよく渦巻く。

 ──決めた。
 この話は、水に流そう。

 「ごめんなさい。瀬尾さんは…何ていうか、私には身に余るというか手に余るというか…とにかく、このお話はなかった事に」
 そうとなったら早く引き上げよう。詩鶴は財布を取り出そうと、鞄の中に手を突っ込む。
 その腕を、基がそっと押さえて止めた。
 「まぁそう結論を急がなくてもいい。もう少し話そう。僕がいかにも面倒臭そうな人間だって事は、自分でもわかっているつもりだ。ただ──」
 「ただ?」
 わかってるなら手を離してくれ、と言わんばかりの警戒心に満ちた目付きで、詩鶴は基を睨む。だが基は泰然としていた。
 「君も充分面倒臭い」
 「──えっ?」
 同レベルの扱いを受けた事に、詩鶴は心底驚いた。心外だった。少し傷付いたと言ってもいい。私はこんなに、風変わりじゃない。
 「君は長年付き合った男に結婚寸前で婚約破棄されたばかりだ。それもお互い嫌い合って別れた訳じゃない。そのせいか、それとも突然一方的な別れを告げられたせいかな。君は元の婚約者に、まだ気持ちを残してる」
 冷たい笑みを口元に浮かべて、基はきっぱりとそう言う。さっきの柔らかさは片鱗もない、肌寒い微笑み。
 詩鶴はぐっと息を詰めて、基を睨んだ。彼の無遠慮な発言はこれまでさほど気にならなかったけれど──今のは、かなり不快だった。
 「……未練なんてありません」
 「そうだな。彼と別れた事に関しては未練も後悔も無さそうだ。例え彼がよりを戻したいと言ってきたとしても、君は多分きっぱり突っ撥ねることが出来るだろう。でもそれとは別に──それでも君はまだ、彼を好きだった時の気持ちを、色鮮やかなまま、心に残してる」
 「──そんなこと──」
 ない、と言おうとしたのに。
 詩鶴の口からは、その二文字がどうしても出てこなかった。
 光稀に投げ付けた、大嫌いという言葉。
 勢いや負け惜しみで言ったわけじゃない。それはあの時腹の底から出てきた、詩鶴の本心だ。
 重くて強固なその気持ちは、長い時間を掛けて二人で築いてきた信頼を一瞬で打ち砕いた。以来ずっと、詩鶴の中に岩礁のようにどっしりと腰を下ろしている。
 なのに、それなのに。
 何故だろう。ふとした時に思い出すのは、光稀が与えてくれた優しさや、温かさばかりだった。
 疲れ果てて家に帰った時に、出迎えて抱き留めてくれた彼の腕。
 自信を失くした時に、詩鶴なら大丈夫だと背中を撫でてくれた彼の掌。
 「断言してもいい。結婚して子供を持つのが夢だなんて言ってはいても、今の君はまだ他の誰かと子供を作るなんて──セックスなんて出来やしない」
 断罪するような冷ややかな声が、無理矢理に記憶の瘡蓋(かさぶた)を剥がす。そこから溢れ出るように、生々しく甦る光稀の声。
 『──詩鶴。好きだよ。大好きだ』
 どこか苦しげで、それなのにひどく甘い、あの声が。
 どんなに聞こえない振りをしていても、それはまだ詩鶴の記憶の中に、確かな温度と柔らかさをもって、残っていた。
 詩鶴が突然ぼろりと大粒の涙を(こぼ)したので、基はほんの少し、怯んだ様子を見せた。
 「何も泣かなくてもいいだろ」
 「や…そんな、泣くつもりは、なかったんですけど…」
 抑えられるものなら初めからそうしている。けど、勝手に出てきてしまうものは仕方ないじゃないか。
 すんと鼻を啜って鞄を漁るが、いつも持ち歩いている筈のハンカチやティッシュが見当たらない。手間取っている間に、基がテーブルの上にあったペーパーナプキンを差し出した。受け取って涙を拭き、がさついた紙で鼻をかんで、ようやく、詩鶴の涙の放流は止まった。
 「…ありがとうございます。ごめんなさい、泣いたりして。目から出た鼻水みたいなものなので気にしないで下さい」
 詩鶴がちょこんと頭を下げると、基は「いや」と少し気まずそうな顔をして、目を逸らした。
 「…言い過ぎたな。悪かった」
 「言い過ぎなのは間違いないし腹も立ちますけど……実際、瀬尾さんの言う通りだと思います。私にはまだ婚活は早いのかもしれません。もう少し時間をおいてから出直します。今日はありがとうございました。それじゃあお仕事と婚活、頑張ってください」
 さっさと話を纏めて席を立とうとした詩鶴の腕を、基が再び掴んで引き留める。
 「その必要はない」
 「え…何?どの必要?」
 詩鶴はそれとなく基の腕を()けようとしたが、思いの外しっかり捕まえられていて、逃げられない。仕方なく浮かせた腰を座席に戻した。
 「時間を置く必要も出直す必要もない。僕と結婚しよう。君の心の準備が整うまで、子作りは待つから」
 「──は?」
 詩鶴の口から間の抜けた声が漏れ出る。
 つい今さっき、お前に子作りなんて出来るものかと嘲ったその口で、何を。
 「…何を言い出すんですか…」
 唖然として、詩鶴は瞬きするのも忘れて基を見つめた。
 「初心に帰って考えてみろ。目的の合致する相手と、手っ取り早く相手を見つけたい。そういう話だったろ?」
 「そうですけど、それを考え直そうと思ったんです。瀬尾さんだってそうしろって言ったでしょう」
 「そうしろとは言ってない。君の方針自体は正しいと思うしな。君もそこそこの年齢だ、夢を叶えるのに残された時間はそれほど長い訳じゃない。多少無理でもしなきゃ実現出来ないだろう。自然に心が癒えるのを待ってそれから相手を探して、なんて悠長な事をしてたら、あっという間にタイムアウトだ」
 嫌味っぽい言い方が癇に触るが、実際その通りだとは思う。今、動き出した勢いを逃してしまえば、次の恋人さえ見つからないまま、ずるずる何年も経ってしまうことだって充分あり得る。
 「今僕と結婚しておけば君は、君がその気になった時点ですぐに子作りを始める事が出来る。僕らは妊娠成功率の面で相性がいいんだろ?授かるのにそう時間は掛からない筈だから、ギリギリまで待てる時間の余裕もある。結婚後や出産後の事も考慮してみなよ。僕は経済的にも困っちゃいないし不倫に走るほど恋愛脳でも暇でもない。君は共働き希望だったな。僕は自由業だから子供の急なトラブルにも極力対応できる。産後はそれなりに役に立つだろう。どうかな、いい条件だと思わないか?」
 「…いや、でも…」
 詩鶴はただただ戸惑う。
 言われてみれば確かに、基はぴったり希望に沿う相手かもしれない。
 だが、基が急にセールストークを始めた理由がよくわからない。何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまう。
 「…私にとっては好条件でも、瀬尾さんにはそうじゃないでしょう?手っ取り早く相手を見つけたいって言ってたのに、何で、わざわざこんな…」
 「こんな?元彼を引き摺ってすぐには子作りする気になれないなんて言ってるこんなめんどくさい君と、何でわざわざ結婚しようと思うのかって事を訊いてる?」
 言い辛くて文末を濁したというのに、基は容赦なく畳みかけてくる。詩鶴は苦々しく頷いた。
 「…そうです。瀬尾さんが好条件なのはわかりますけど、だったら余計に、私よりいい相手なんていくらでもいるでしょう?」
 「まぁいるだろうな」
 基は憎たらしいほどあっさりと認めた。
 「ただ、僕にとっても君はさほど条件が悪い訳じゃないんだ。子供はすぐにでもと思ってだけど、君と話してる内に気が変わった。心の整理がつくのを待つって事は、夫婦二人だけで暮らす時間がそれなりにあるって事だ。夫婦きりっていうのも、それはそれで一つの家族の形だろ?子を持つ前にそれを体験しとくのもいいんじゃないかと思う。それに君は、仕事上で色んな家族や子供を見てるだろ。僕は子供って生き物を書くのも得意じゃないからさ。彼らの生態を身近で聞かせて貰えるのも、僕にとってはメリットだな。わざわざ取材しなくて済む」
 「………」
 頭痛がしてきた。
 誰か。知っている人がいたら、教えて欲しい。
 作家というのは──
 作家という人種は、みんなこういう生き物なのか?
 


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 ほんの少し口元に笑みを湛《たた》えただけで、基の印象はぐっと柔らかくなる。
 最初からこういう顔してればいいのに、と少しそわそわする気持ちを誤魔化すように、詩鶴は軽く息を吐いた。
 「…今度こそ瀬尾さんの話を聞きたいです」
 「あぁ、何で登録したのかって話?」
 自分の話は充分にした、充分過ぎるほど話して、若干疲弊しているくらいだ。
 詩鶴が頷くと、基は顎に手を当ててまた少し考え込んだ。
 「何でそんな勿体ぶるんですか?」
 はぐらかされて焦らされて、詩鶴は唇を尖らせて不満を漏らす。
 「勿体ぶってる訳じゃないんだ。ただ…今日君に会うまでは、結婚したい理由は相手に合わせてそれらしい作り話をしようと思ってた。適当に耳触りのいい話をして、それでスムーズに事が進むならその方が面倒がないなって。でも君の話を聞いてたら…なんだろうな。君には嘘をつきたくないような気がしてきた。でも本当の事を言ったら君は呆れるかもしれない。だから迷ってるんだ」
 基はテーブルに両肘を置いて、じっと詩鶴を見つめる。瞬きもほとんどせずに相手をじっと見詰めるのは、この人の癖なのだろうか。心の内側を暴こうとするような眼差しに、詩鶴は思わず俯いて目を逸らした。誤魔化すための憎まれ口が、口を衝《つ》いて出る。
 「瀬尾さんの言うことは、いちいち回りくどくて…」
 言った後で、はっとする。今の言い方は相当感じ悪かった、と焦ったが、もう遅い。だが基は気を悪くする事もなく、喉の奥で小さく笑う。
 「君からしたらそうかもな。まぁいいや、君に倣《なら》って正直に話そう。僕が結婚して子供を持とうと思ったのは、仕事の為だ」
 「仕事?」
 詩鶴は首を傾げた。
 「瀬尾さんの仕事に結婚や子供が必要ですか?」
 基の仕事は作家業。光稀の家のように、子を生《な》して後を継がせる必要のある職業ではなさそうに思える。
 「うん。僕は大学在学中にデビューして、卒業後はこの仕事一本で生計を立ててきた。芸術家じゃなくて、商業作家だ。得手不得手も好き嫌いもない。依頼があればどんなジャンルでも書いてきた。ホラーでも裏稼業でも、経験が無ければ難しいような専門的な業界話も、綿密な取材と調査で何とかしてきた。仕事を選り好みしなかったおかげで全方位作家とか呼ばれて、依頼は途切れたことがない。けど」
 けど、と繰り返して、基は窓の外を見た。つられて詩鶴も店の外に目を遣る。基は四指を握って立てた親指だけで、道路を歩く親子連れをそっけなく指し示した。
 「もう四年も前に企画を貰ったのに未だに手つかずの、どうしても書けないジャンルがある」
 「書けないもの?どんなのですか?」
 「家族小説」
 「家族小説?」
 詩鶴は首を捻った。小説なんて書いた事ないからわからないけれど、深い知識を必要とする医療ものとか歴史ものとかよりは、身近で書きやすそうに思える。
 「僕は多分、少し特殊な家庭で育った」
 基はテーブルに頬杖をついて、窓の外を眺めたまま話を続けた。
 「いや、別にそう複雑な事情がある訳じゃない。両親とも健在だし血の繋がりもある。虐待を受けた訳でも確執がある訳でもない。ただとにかく仕事に忙しい人たちで、家族と過ごした記憶があまりない。ごく幼い頃は一緒に暮らしてたらしいんだが、殆ど覚えてないんだ。それでも小学生くらいの頃は年に数回は会ってた気がするけど…年齢とともに会う回数が減っていって、中学生の時なんかは入学式と卒業式しか会ってない。最後に会ったのは、確か五年くらい前だ」
 「五年?それはちょっと…長すぎやしませんか」
 平然と話す基と対照的に、詩鶴は信じられないと目を丸くした。
 「一般的にはそうなんだろうな。でも僕にはそれが普通の生活だったんだ。家には家政婦《ハウスキーパー》がいたから不自由はなかった。親っていうのは時々遊びに来ては可愛がってくれる大人、くらいの感覚だったんだよ」
 「凄く遠い親戚みたいな?」
 「なのかな。それすら僕にはわからない。親戚付き合いもなかったからな。とは言え家政婦も長く勤めてくれてる人達だったから僕の事をよく理解してくれていたし、学校行事とかも来てくれてたから困った事はなかった。孤独だとかそういう気持ちもなかったんだよ。だからそこまで特殊だと感じた事もなくてね」
 「いや、でも…」
 詩鶴はそこで言い淀んだ。
 一概に否定的な事は言えない。
 沢山の子供、沢山の家庭を見てきたから、家族の関係性の良し悪しが、通り一遍の外枠を聞き齧っただけで判断出来るものではないとわかっている。一緒に過ごす時間の長さと愛情が比例する訳ではない事も。
 でも──
 「そう。でも、なんだよ。寂しくもなかったし親に対する恨み辛《つら》みもない。むしろ何不自由なく好きにさせてくれて感謝してるくらいだ。でも家族というものがどういうものなのか、そこに芽生える心の機微がどういうものなのか、僕には見当もつかない」
 基はふと詩鶴に視線を戻して、真面目な顔になった。
 「カマキリの雄の何割かは、交尾中に雌に喰われて生涯を終えるだろ?」
 「え?あ、はい。ちらっと聞いたことあります」
 「蛸やハサミムシの親は一歩も動かず絶食までして卵を守り続け、子供達が孵化するのを見届けた後、すぐに死ぬ」
 「え?あ、そうなんですか。知らなかった」
 「多くの動物はパートナーを得る事や出産や子孫に固執し、人生、及び生命を捧げるんだ。君は我が子に対する彼らの執念が理解できる?」
 「え?いや、どうかな。ちょっとわからないですね」
 「そうだろう。僕もわからない。それと同等に、人間が家族に対して感じる執着ってものもよくわからない。それが書けない理由じゃないかと思うんだ。しかも家族の問題は、ホームドラマが主軸じゃなくても小説を書く上で重要なファクターになることが多い。それをわからないで済ませちゃいけないような気がした。書けないから書かないってのは、作家としての矜持に反する」
 「……えーと、つまり…」
 未着手の仕事、特殊な家庭環境にカマキリに蛸にハサミムシに…小説の重要なファクターと作家の矜持?
 情報量の多さに混乱して、詩鶴は額を押さえた。
 「つまり、自分で所帯を構え身をもって家族というものを体験すれば、理解して書けるようになるだろうと思ったんだ」
 基は真顔でそう言って、氷が溶けて淡い色になったアイスコーヒーを、一口飲んだ。
 はぁ、と詩鶴は溜息なのか相槌なのかよくわからない、曖昧な発声をした。
 「今話したのは、僕が家族を持とうと思った理由だ。〈vita〉を使って相手を見つけようと思った理由は別にある」
 「え」
 まだ続きがあるのか、と詩鶴は身構えた。
 「これは言わなくても嘘にはならないから、話そうかどうか迷っているんだけど」
 「そこまで聞いたら全部聞きたいです。お願いします」
 「次が二度目だ」
 「何が二度目?」
 理解出来ず、詩鶴は眉を寄せて繰り返す。
 「結婚。僕のこの家族計画は、昨日今日思いついた話ではなくて以前から検討していたものだ。ある時期、僕と結婚したいとしつこくアプローチしてくる女性がいて、まぁ目的は一致するしちょうどいいかと思って結婚した事がある。彼女には最初から僕の目的を明確に伝えていた。正直なところ彼女に対して愛情を抱けるとはとても思えなかったから、それも伝えた。それでもいいと言うから結婚したんだ。けど彼女は、やっぱり自分を愛してない男の子供なんて産めないと言って、三ヶ月程度で離婚届を差し出してきた。お互いの求めるものが違ったんだなと思って、僕も同意して提出したよ。彼女だけを責めるつもりはないが、そんなのを繰り返すのは時間と労力の無駄だ。だから今度は目的の一致する相手を探そうと思った。恋愛|云々《うんぬん》は置いといて、家族を、子供を作るという確固たる目的を持った同志を。それには〈vita〉のシステムを利用するのが手っ取り早いだろうと思ったんだ。君も──」
 「や、ちょっと待って待って」
 淡々と話を続けようとする基を、詩鶴は焦って止めた。
 「婚姻歴があるなんて聞いてません」
 「だから今伝えた。婚姻歴の有無については登録時の必須項目になかったから書かなかった。正直僕にとっては経験と呼ぶに足らないような出来事だったし、状況によっては相手が気付くまで黙っててもいいかと思ってた。でも君には話しておいた方がいい気がするから、一応初めに言っておく」
 「………」
 「『後々ボロ出して揉めるくらいなら駄目なら駄目で早い段階で見切り付けられた方がいい』んだろう?」
 基は口元を歪めて、先程の詩鶴の言葉を引用した。
 「…ちょっと…ちょっと待って。少し頭を整理させて貰ってもいいですか」
 「いくらでもご自由に。何か追加で頼む?」
 そう言って基はメニューを差し出したが、詩鶴にそれを受け取る精神的余裕はなかった。
 自分が登録した時の事を思い返してみるが、確かに基の言う通り婚姻歴の有無は任意項目だった気がする。そして詩鶴自身も、希望条件の欄に『初婚の人』とは書かなかった。だがそれは離婚歴を問わないという意味ではない。単にそこまで考えが及ばなかったというだけだ。
 未着手の仕事と特殊な家庭環境を持つ、誇り高き人気作家。
 カマキリと蛸とハサミムシに触発されて家庭を持つことを、子供を望み、愛なき結婚をし離婚して、再び伴侶を探している。
 更新された基のプロフィールが頭の中で渦巻く。トイレの水を流すかのように、勢いよく渦巻く。
 ──決めた。
 この話は、水に流そう。
 「ごめんなさい。瀬尾さんは…何ていうか、私には身に余るというか手に余るというか…とにかく、このお話はなかった事に」
 そうとなったら早く引き上げよう。詩鶴は財布を取り出そうと、鞄の中に手を突っ込む。
 その腕を、基がそっと押さえて止めた。
 「まぁそう結論を急がなくてもいい。もう少し話そう。僕がいかにも面倒臭そうな人間だって事は、自分でもわかっているつもりだ。ただ──」
 「ただ?」
 わかってるなら手を離してくれ、と言わんばかりの警戒心に満ちた目付きで、詩鶴は基を睨む。だが基は泰然としていた。
 「君も充分面倒臭い」
 「──えっ?」
 同レベルの扱いを受けた事に、詩鶴は心底驚いた。心外だった。少し傷付いたと言ってもいい。私はこんなに、風変わりじゃない。
 「君は長年付き合った男に結婚寸前で婚約破棄されたばかりだ。それもお互い嫌い合って別れた訳じゃない。そのせいか、それとも突然一方的な別れを告げられたせいかな。君は元の婚約者に、まだ気持ちを残してる」
 冷たい笑みを口元に浮かべて、基はきっぱりとそう言う。さっきの柔らかさは片鱗もない、肌寒い微笑み。
 詩鶴はぐっと息を詰めて、基を睨んだ。彼の無遠慮な発言はこれまでさほど気にならなかったけれど──今のは、かなり不快だった。
 「……未練なんてありません」
 「そうだな。彼と別れた事に関しては未練も後悔も無さそうだ。例え彼がよりを戻したいと言ってきたとしても、君は多分きっぱり突っ撥ねることが出来るだろう。でもそれとは別に──それでも君はまだ、彼を好きだった時の気持ちを、色鮮やかなまま、心に残してる」
 「──そんなこと──」
 ない、と言おうとしたのに。
 詩鶴の口からは、その二文字がどうしても出てこなかった。
 光稀に投げ付けた、大嫌いという言葉。
 勢いや負け惜しみで言ったわけじゃない。それはあの時腹の底から出てきた、詩鶴の本心だ。
 重くて強固なその気持ちは、長い時間を掛けて二人で築いてきた信頼を一瞬で打ち砕いた。以来ずっと、詩鶴の中に岩礁のようにどっしりと腰を下ろしている。
 なのに、それなのに。
 何故だろう。ふとした時に思い出すのは、光稀が与えてくれた優しさや、温かさばかりだった。
 疲れ果てて家に帰った時に、出迎えて抱き留めてくれた彼の腕。
 自信を失くした時に、詩鶴なら大丈夫だと背中を撫でてくれた彼の掌。
 「断言してもいい。結婚して子供を持つのが夢だなんて言ってはいても、今の君はまだ他の誰かと子供を作るなんて──セックスなんて出来やしない」
 断罪するような冷ややかな声が、無理矢理に記憶の|瘡蓋《かさぶた》を剥がす。そこから溢れ出るように、生々しく甦る光稀の声。
 『──詩鶴。好きだよ。大好きだ』
 どこか苦しげで、それなのにひどく甘い、あの声が。
 どんなに聞こえない振りをしていても、それはまだ詩鶴の記憶の中に、確かな温度と柔らかさをもって、残っていた。
 詩鶴が突然ぼろりと大粒の涙を溢《こぼ》したので、基はほんの少し、怯んだ様子を見せた。
 「何も泣かなくてもいいだろ」
 「や…そんな、泣くつもりは、なかったんですけど…」
 抑えられるものなら初めからそうしている。けど、勝手に出てきてしまうものは仕方ないじゃないか。
 すんと鼻を啜って鞄を漁るが、いつも持ち歩いている筈のハンカチやティッシュが見当たらない。手間取っている間に、基がテーブルの上にあったペーパーナプキンを差し出した。受け取って涙を拭き、がさついた紙で鼻をかんで、ようやく、詩鶴の涙の放流は止まった。
 「…ありがとうございます。ごめんなさい、泣いたりして。目から出た鼻水みたいなものなので気にしないで下さい」
 詩鶴がちょこんと頭を下げると、基は「いや」と少し気まずそうな顔をして、目を逸らした。
 「…言い過ぎたな。悪かった」
 「言い過ぎなのは間違いないし腹も立ちますけど……実際、瀬尾さんの言う通りだと思います。私にはまだ婚活は早いのかもしれません。もう少し時間をおいてから出直します。今日はありがとうございました。それじゃあお仕事と婚活、頑張ってください」
 さっさと話を纏めて席を立とうとした詩鶴の腕を、基が再び掴んで引き留める。
 「その必要はない」
 「え…何?どの必要?」
 詩鶴はそれとなく基の腕を除《の》けようとしたが、思いの外しっかり捕まえられていて、逃げられない。仕方なく浮かせた腰を座席に戻した。
 「時間を置く必要も出直す必要もない。僕と結婚しよう。君の心の準備が整うまで、子作りは待つから」
 「──は?」
 詩鶴の口から間の抜けた声が漏れ出る。
 つい今さっき、お前に子作りなんて出来るものかと嘲ったその口で、何を。
 「…何を言い出すんですか…」
 唖然として、詩鶴は瞬きするのも忘れて基を見つめた。
 「初心に帰って考えてみろ。目的の合致する相手と、手っ取り早く相手を見つけたい。そういう話だったろ?」
 「そうですけど、それを考え直そうと思ったんです。瀬尾さんだってそうしろって言ったでしょう」
 「そうしろとは言ってない。君の方針自体は正しいと思うしな。君もそこそこの年齢だ、夢を叶えるのに残された時間はそれほど長い訳じゃない。多少無理でもしなきゃ実現出来ないだろう。自然に心が癒えるのを待ってそれから相手を探して、なんて悠長な事をしてたら、あっという間にタイムアウトだ」
 嫌味っぽい言い方が癇に触るが、実際その通りだとは思う。今、動き出した勢いを逃してしまえば、次の恋人さえ見つからないまま、ずるずる何年も経ってしまうことだって充分あり得る。
 「今僕と結婚しておけば君は、君がその気になった時点ですぐに子作りを始める事が出来る。僕らは妊娠成功率の面で相性がいいんだろ?授かるのにそう時間は掛からない筈だから、ギリギリまで待てる時間の余裕もある。結婚後や出産後の事も考慮してみなよ。僕は経済的にも困っちゃいないし不倫に走るほど恋愛脳でも暇でもない。君は共働き希望だったな。僕は自由業だから子供の急なトラブルにも極力対応できる。産後はそれなりに役に立つだろう。どうかな、いい条件だと思わないか?」
 「…いや、でも…」
 詩鶴はただただ戸惑う。
 言われてみれば確かに、基はぴったり希望に沿う相手かもしれない。
 だが、基が急にセールストークを始めた理由がよくわからない。何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまう。
 「…私にとっては好条件でも、瀬尾さんにはそうじゃないでしょう?手っ取り早く相手を見つけたいって言ってたのに、何で、わざわざこんな…」
 「こんな?元彼を引き摺ってすぐには子作りする気になれないなんて言ってるこんなめんどくさい君と、何でわざわざ結婚しようと思うのかって事を訊いてる?」
 言い辛くて文末を濁したというのに、基は容赦なく畳みかけてくる。詩鶴は苦々しく頷いた。
 「…そうです。瀬尾さんが好条件なのはわかりますけど、だったら余計に、私よりいい相手なんていくらでもいるでしょう?」
 「まぁいるだろうな」
 基は憎たらしいほどあっさりと認めた。
 「ただ、僕にとっても君はさほど条件が悪い訳じゃないんだ。子供はすぐにでもと思ってだけど、君と話してる内に気が変わった。心の整理がつくのを待つって事は、夫婦二人だけで暮らす時間がそれなりにあるって事だ。夫婦きりっていうのも、それはそれで一つの家族の形だろ?子を持つ前にそれを体験しとくのもいいんじゃないかと思う。それに君は、仕事上で色んな家族や子供を見てるだろ。僕は子供って生き物を書くのも得意じゃないからさ。彼らの生態を身近で聞かせて貰えるのも、僕にとってはメリットだな。わざわざ取材しなくて済む」
 「………」
 頭痛がしてきた。
 誰か。知っている人がいたら、教えて欲しい。
 作家というのは──
 作家という人種は、みんなこういう生き物なのか?