そのカフェは、路地裏の突き当たりにひっそりと佇んでいた。
看板にはただ、コーヒーカップのシルエットが描かれているだけだ。最近、SNSの一部で「絶対に写真に写らないカフェ」として、奇妙な噂が流れていた。
インフルエンサーを自称する莉央は、その噂を「絶好のネタ」だと確信していた。もし本当に写らないのなら、その不思議な現象を動画で公開すれば、瞬く間にバズるはずだ。
カラン、と乾いた鐘の音を鳴らして店内に入る。
内装は驚くほど普通だった。使い込まれた木のテーブル、静かに流れるジャズ。店主と思われる初老の男が、黙々と豆を挽いている。
莉央は窓際の席に座り、運ばれてきた琥珀色のコーヒーに早速スマートフォンを向けた。
「……あれ?」
画面越しに見るテーブルの上には、何もなかった。
肉眼では確かにそこにあるはずのカップが、スマートフォンのレンズを通すと、ただの木目模様に変わってしまう。
それどころか、窓の外の景色さえも、どこかぼやけて判別できない。
「すごい。本当に写らない……!」
莉央は興奮を抑えきれず、自撮りモードに切り替えた。自分の顔と、空っぽに見えるテーブルを一枚のフレームに収める。
シャッターを切ると、画面には「自分だけが、何もない空間で微笑んでいる」という、不気味でシュールな写真が保存された。
彼女はすぐさま、その写真をSNSにアップロードした。
『噂のカフェ、マジで何も写らないんだけど! 証拠の自撮りアップするね』
投稿ボタンを押した瞬間、店内に奇妙な静寂が訪れた。
それまで聞こえていたジャズも、豆を挽く音も、一切が消え失せた。
「……? すみません、お会計……」
莉央が顔を上げると、そこには店主も、テーブルも、壁さえもなかった。
足元から急速に色が失われていく。まるで、消しゴムで世界を消されているかのような感覚。
慌ててスマートフォンを確認する。
投稿した写真には、数秒で大量の「いいね」がついていた。しかし、コメント欄の言葉が目に入った瞬間、彼女の指先が震えた。
『え、何これ。誰も写ってないじゃん』
『椅子だけが浮いてる心霊写真?』
『投稿主、どこ行ったの?』
莉央が慌てて画面を凝視すると、そこには先ほどまで映っていたはずの「自分」の姿がなかった。
ただ、主のいない椅子と、湯気の立つコーヒーカップだけが、鮮明に写し出されていた。
「あ……」
声を出そうとしたが、もう喉がなかった。
彼女が最後に見たのは、自分のスマートフォンが誰もいない床に転がり、画面の中で「いいね」の数字が、無感情に増え続けていく光景だった。