好奇心旺盛な男③
ー/ー「うぅ……」
乱雑な部屋で男が一人呻きながら意識を取り戻した。
「ここ、は」
男の目に映ったのは、見覚えのない部屋だった。狭苦しい部屋いっぱいの本とCD。机の上の飲みかけのペットボトル。それからギターが一本。
男は見知らぬ部屋の見知らぬ場所で横たわっていたのだ。
ポロン……。
物を考えるより先に、目先のギターへ指が伸びた。弦を引っかけてみると、あたたかみのある美しい音がした。
「はぁ……」
言葉にならない感嘆の声が、静かに響いた。男は美しい音に鼓舞されたように、むくりと起き上がってギターを抱えた。
「はぁ……」
二度目の溜め息と同時にスマホが震えた。
男は驚いた拍子に画面を触り、遠くへ投げてしまった。
『おーいカイ太~? 今どこ~? 駅前で飲もうって言ったじゃん』
投げた向こうの壁際から声がしている。
『おーい? 寝ぼけてんの~? もしもーし』
男は相手に何を言われているのか、よくわからなかった。
スマホ、というものすらわからなくなっていたのだ。
『なぁ、まだ寝てんの? 起きろよー』
得体の知れないものから、得体の知れない声がすることにただただ驚いていた。
『ったく。とにかく待ってるから早く来いよー』
その後静かになった。
そろそろとスマホへ近づく男。
先ほど光っていた液晶はブラックアウトしている。つるつるとした表面が男の顔を映す。そこには無表情の青白い顔がぼんやりと映っていた。
ぼーっと見ていると、スマホがまた震えた。
今度は落ち着いた様子で、光っている所をそっと触る。
『あ、カイ太くん? あのさ明日のライブなんだけど、リハちょっと早く来てもらっていい? セッティングのスタッフが風邪引いちゃって三十九度も出たっていうからさ。……あれ、聞いてる? もしもーし?』
今度の相手はよく喋った。
『もしかしてカイ太くんも調子悪かったりする? いや、まさかね。どうせ二日酔いでしょ? まったく、相変わらずだよね~。ま、明日のセッティング手伝ってくれるお礼に、うんと酒奢るから頼むよ!』
その意味も理解できず、男はギターを見つめた。
手元のギターは、しっとりと濡れた色合いで怪しくこちらを見つめ返してくる。シンカーレッドウッドのくっきりとした筋が幾本も見られ、美しい濃淡のある杢目にうっとりと魅入ってしまった。
どのくらいの時間が経ったのか。
気がつくと通話は切れ、部屋はまた静まり返っていた。
液晶を見つめてみるものの、今度はもう何も起こらなかった。
ポロン……。
男はつま弾いたギターの、静かに鳴る余韻に耳をそばだてた。
その最後の響きが聞こえなくなると遠くの方で人々の声や車の走行音など、生活の音が途切れ途切れに聞こえてきた。
ポロロン……。
しばらくそうして部屋で音を堪能していたが、男は立ち上がった。
ギターを抱えたまま、居心地の悪い部屋を出た。
外は夕焼けで赤く染まり、木枯らしが身に染みる寒さだった。
行くあてもなく、男はただフラフラと街を彷徨う。
ポロロン、ポロン、ポロロロン……。
怪訝そうな視線や歩き去る人々を横目に、ギターをつま弾く。何もわからないことなんかより、自分のギターから鳴る音色の美しさにただ心を奪われていた。
「はは、ははははは」
何が可笑しいのかわからない。ここがどこだかわからない。自分が何者かもわからない。それでもただ、音の鳴るひとときが幸せだった。
公園で将棋を指す老人たちのパチパチという音を通り過ぎ。
ポロン。
歩道を駆けていく子供たちの笑い声に音色を合わせ。
ポロロリロン。
駅前のたむろする大学生たちの煙草の煙を吸い込み。
ポロリン。
住宅の中から香る夕食のみそ汁を嗅ぎ。
ポロポロン。
暗闇が濃くなる電灯の間を歩き。
ポロン。
男は薄ら笑いを浮かべ、いつまでもただ、ギターを鳴らしていた。
―――
おやおや。
―――
おやおや。
あれほど剥がしてはいけないと言ったのに、好奇心とは恐ろしいものですねえ。
どうやらお札を自分で剥がすと記憶まで失われてしまうようです。
それでも彼はその好奇心のあまり、好きなものも記憶もたくさん持っていたんですねえ。あれほどのお札をも上回る数というのは、たいしたもんです。
そのおかげで、好きな音色のことだけは忘れなかったみたいですなあ。
何も知らない世界でも、好きなものが残っていたのは幸せなことかもしれません。
それにしても自分の名前すらわからなくなったのに、好みのギターの音色を覚えているなんて、とんだギター馬鹿ですねえ。
ヒトの欲望とは恐ろしいものです。
それでも、この世にギター馬鹿が居る限り、わたくしはその哀しみをお聞きしていきたいと思います。
さあ、明日はどんなギター馬鹿でしょうか。
ほーっほっほっほっほ。
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