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徳の年輪

ー/ー



​      ー*ー*ー*ー

  譲り合う 車列の先に 透けて見ゆ
  鏡を欲しがる 下心の影

       ー*ー*ー*ー

 鏡の中の自分は、今朝も二十代の肌艶を保っている。実年齢は五十を過ぎたはずだが、この世界では「暦」など何の意味も持たない。

​ 窓を開けると、隣の家の佐藤さんが庭の掃き掃除をしていた。彼は昨日、道端のゴミを拾い続けたらしく、昨晩より心なしか目尻の皺が薄くなっている。

「おはようございます、佐藤さん。また若返りましたね」

「いやあ、小さなことの積み重ねですよ」

 佐藤さんは照れくさそうに笑う。この世界では「若さ」は誠実さの証明だ。誰もが若々しくあろうと、競うように善行に励む。信号のない横断歩道では車が必ず止まり、重い荷物を持つ人がいれば四方八方から手が伸びる。

​ 私はガーデニングの手入れをしながら、ふと考えた。

 この「徳による若返り」が始まってから、世界は確かに平和になった。だが、それは本当に善意なのだろうか。

 以前、無理な割り込み運転をした男が、その瞬間に髪が白くなり、肌が枯れ木のようにひび割れるのを見た。


彼は悲鳴を上げ、すぐさま車を降りて周囲に謝罪して回った。失った「時間」を取り戻すために。

​ 午後、私は行きつけの古本屋へ向かった。

 店主の老人は、この街で一番の「高齢者」だ。腰は曲がり、深い皺が刻まれている。この世界において、老いていることは「悪人」か、あるいは「何もしなかった者」というレッテルを貼られるに等しい。

 けれど、彼はいつも穏やかだ。
私が本を買おうとするときには、震える手で丁寧に包んでくれる。

「ご主人、失礼ですが……もう少し『徳』を意識されては?」

 お節介だとは思ったが、つい口に出た。彼は微笑んで答えた。

「私はねえ、誰かに見せるための善行で若返るのが、どうも気恥ずかしくて。ただ、静かに本を愛し、ここで時を重ねる。それが私なりの誠実さなんです」

​ 店を出ると、街は「若返りたい」人々で溢れていた。

 誰かのために椅子を譲り、過剰に笑顔を振りまく若者たち。その背後にあるのは、純粋な慈悲か、それとも鏡に映る自分のための執着か。

​ 私は帰宅し、自分の瑞々しい手の甲を見つめた。

 明日、もしも私が誰にも気づかれない「悪意」を抱いたとして、この肌が老いたとき、私は笑っていられるだろうか。


本当の徳は、若さという報酬を拒んだ先にしかないのかもしれない。


      ー*ー*ー*ー

  庭仕事 土にまみれて ただひとり
  見返り持たぬ 明日を植えゆく

      ー*ー*ー*ー





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​      ー*ー*ー*ー
  譲り合う 車列の先に 透けて見ゆ
  鏡を欲しがる 下心の影
       ー*ー*ー*ー
 鏡の中の自分は、今朝も二十代の肌艶を保っている。実年齢は五十を過ぎたはずだが、この世界では「暦」など何の意味も持たない。
​ 窓を開けると、隣の家の佐藤さんが庭の掃き掃除をしていた。彼は昨日、道端のゴミを拾い続けたらしく、昨晩より心なしか目尻の皺が薄くなっている。
「おはようございます、佐藤さん。また若返りましたね」
「いやあ、小さなことの積み重ねですよ」
 佐藤さんは照れくさそうに笑う。この世界では「若さ」は誠実さの証明だ。誰もが若々しくあろうと、競うように善行に励む。信号のない横断歩道では車が必ず止まり、重い荷物を持つ人がいれば四方八方から手が伸びる。
​ 私はガーデニングの手入れをしながら、ふと考えた。
 この「徳による若返り」が始まってから、世界は確かに平和になった。だが、それは本当に善意なのだろうか。
 以前、無理な割り込み運転をした男が、その瞬間に髪が白くなり、肌が枯れ木のようにひび割れるのを見た。
彼は悲鳴を上げ、すぐさま車を降りて周囲に謝罪して回った。失った「時間」を取り戻すために。
​ 午後、私は行きつけの古本屋へ向かった。
 店主の老人は、この街で一番の「高齢者」だ。腰は曲がり、深い皺が刻まれている。この世界において、老いていることは「悪人」か、あるいは「何もしなかった者」というレッテルを貼られるに等しい。
 けれど、彼はいつも穏やかだ。
私が本を買おうとするときには、震える手で丁寧に包んでくれる。
「ご主人、失礼ですが……もう少し『徳』を意識されては?」
 お節介だとは思ったが、つい口に出た。彼は微笑んで答えた。
「私はねえ、誰かに見せるための善行で若返るのが、どうも気恥ずかしくて。ただ、静かに本を愛し、ここで時を重ねる。それが私なりの誠実さなんです」
​ 店を出ると、街は「若返りたい」人々で溢れていた。
 誰かのために椅子を譲り、過剰に笑顔を振りまく若者たち。その背後にあるのは、純粋な慈悲か、それとも鏡に映る自分のための執着か。
​ 私は帰宅し、自分の瑞々しい手の甲を見つめた。
 明日、もしも私が誰にも気づかれない「悪意」を抱いたとして、この肌が老いたとき、私は笑っていられるだろうか。
本当の徳は、若さという報酬を拒んだ先にしかないのかもしれない。
      ー*ー*ー*ー
  庭仕事 土にまみれて ただひとり
  見返り持たぬ 明日を植えゆく
      ー*ー*ー*ー