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ー/ー



 「──という経緯がありまして、もうすぐっていうところで結婚する当てがなくなってしまったんです。でもやっぱり子供を持つ夢は諦めきれないし、出来るなら三十くらいまでには一人目が欲しいし。〈vita〉に登録すれば、手っ取り早く同じような希望を持つ相手を見つけられるかなと思ったんです」
 長い話を終えた詩鶴は、ほとんど口をつけていなかったカップの中の紅茶を一息に飲み干した。ホットで頼んだそれはすっかり冷めきっていて、一気飲みするのにちょうどいい。
 「…成程」
 向かいの席に座った男は、組んだ脚を左右入れ替えて組み直しながら、そう呟く。
 「──思ったより長い話だった」
 「あ、すみません。ちょっと熱が入り過ぎちゃいましたね」
 要約すれば何百文字かで話せるものを、微に入り細に渡り細かく語ってしまったせいで、話し終えるのに三十分近くかかった。
 「いや、面白かったよ。物話(ストーリー)としてはチープだけど、その分わかりやすかった。元恋人の母親の顔真似声真似もなかなか秀逸だったな。元ネタは知る由もないが、きっと巧妙に寄せているんだろう」
 「……お褒めに(あずか)りまして、どうも…?」
 人の不幸に随分な言い草だと思わないでもなかったが、実際こうして話してみると確かに陳腐な話だな、といっそ笑いたくなる。
 「色々思うところはあるけど…なんて言うか、君は」
 詩鶴より少し年上のその男性は、口元に手を当てて少しの間言葉を選ぶように、考え込んだ。
 「……君は、案外頭が悪いな」
 「何ですって?」
 考えた末に出てきた言葉がそれかと、詩鶴は片眉を跳ね上げた。だが彼は平然として言い募る。
 「だってそうだろ。プロポーズされて婚約指輪渡されて式場まで探しておいて、一方的に婚約を破棄されたんだ。慰謝料として金くらい貰っとけよ」
 「そ…そういうものですかね」
 「そうだよ。指輪も返す必要ない。医者が渡した婚約指輪なんてそこそこいい物だろ?貰っといて転売すれば良かったんだ」
 「…や、そこまで頭回らなかった…怒りに任せて投げちゃいましたね」
 目を丸くする詩鶴に、彼はさらに言い募る。
 「怒れるだけのエネルギーが残ってたなら余計だよ。搾れるだけ搾り取ってやれば良かったんだ。いくら包んだのか知らないけど、倍額よこせって交渉したっていいくらいだよ」
 「えぇー…」
 淡白そうな顔をして言う事ががめついな、と詩鶴が少し引くと、彼はフンと鼻を鳴らした。
 「君の四年間を無駄遣いされたんだ。その時間は、それで補えるほど安いもんじゃないだろ」
 無駄遣い。そう言われて、喉の奥に軽い痛みとごろっとした違和感を感じた。
 光稀と一緒に過ごした四年間は、詩鶴にとって、概(おおむ)ね幸せと言っていい日々だった。あの一瞬でそのすべては、無駄な時間に姿を変えてしまったんだろうか。
 「安いものじゃない…というか…お金に換算できません」
 そう答えたきり黙ってしまった詩鶴をちらりと見て、彼ははぁと溜息を吐く。
 「それに普通はこんな話、見合い相手にしないだろ。面倒臭そうな奴だなって敬遠されて、上手くいくものもいかなくなるよ」
 そうだ。若干忘れかけていたが、眼の前にいるこの人は、先程挨拶を交わしたばかりの見合い相手。今日は詩鶴の人生初の、お見合いの日だった。

 〈vita〉に登録をしてから数週間。見合い相手は単純にランキング順で選んだ。
 沢山お相手見つかりますよ、と仲介のおじさんが言っていた通り、詩鶴のお相手候補はずらりと表示されていた。該当件数7898件。想像以上に多かった。スクロールバーの底が、いくら下がっても見えてこない。
 こんな数、全部に目を通せる訳がない。匙を投げて、一番上に表示された相手とのお見合いのセッティングを申請した。要するに、精査して選ぶのが面倒になったのだ。
 そうして会うことになったこの人は、名前は瀬尾(せお)(もとい)、年齢二十九歳。東京都文京区在住、職業は自由業。
 詩鶴もスタッフのおじさんから条件が大らかな方だと言われたが、彼はそれに輪をかけて緩かった。緩いというより希望条件はほとんどないに等しい。プロフィールには自己アピールや相手に望むものを書く箇所が沢山あるのに、必要最低限、必須項目の記載しかされていなかった。こだわりはただひとつ、在宅仕事なので仕事中は邪魔をしないこと。それだけだ。事前情報が少な過ぎる。
 彼の為人(ひととなり)を知るには、このお見合いで聞き出すしかない。
 そう考えていたのに、〈vita〉に登録した理由を先に()かれて、詩鶴は早々に自分語りを始めてしまったのだった。
 「そりゃ私だって、自分から()えて話そうとは思ってませんでしたけど。瀬尾さんが聞いたんじゃないですか。何で〈vita〉を使って結婚しようと思ったのかって」
 「そうだけど、何もここまで馬鹿正直に話す必要あるか?」
 「適当な作り話して後々ボロ出して揉めるくらいなら、駄目なら駄目で早い段階で見切り付けられた方がいいかなって思ったんです」
 「そういうとこだよ。多少は小賢しさってものも、必要だろう」
 彼は呆れたように嘆息して前髪を掻き上げた。
 その時ちらりと見えた素顔に、おや、と詩鶴は軽く目を(みは)った。
 そういうスタイルにこだわりがあるのか手入れを怠っているだけなのかわからないが、長めで多めの髪に隠れ、顔そのものがよく見えない、わからない。すらっとした長身でスタイルは良いものの、なんとなくもっさりしている、という曖昧な印象しか抱かなかった。が、それを取っ払って改めて見ると中々整った顔立ちをしている。隠しているのが勿体無い。
 (そっか。私のお見合い相手は、こんな顔をしてるんだ)
 初めは多少の緊張もあったし、光稀の話を始めてからはそちらに熱中してしまっていたから、今初めて彼という人にしっかり意識を向けた気がする。
 詩鶴はぺちぺちと自分の頬を叩いた。
 今はこちらに、お見合いに集中せねば。
 詩鶴が今、向き合わなければいけないのは、この人なのだ。

 よし。今度はこちらから質問する番だ。詩鶴は意気込んで軽く身を乗り出す。
 「次は瀬尾さんのことを聞かせて下さい。自由業ってありましたけど、具体的にはどんなお仕事されてるんですか?」
 「文筆業」
 「文筆業?ライターとかですか?」
 「いや。小説を書いてる」
 「…小説?」
 詩鶴は少なからず驚いた。詩鶴の交友関係といえば、半分は自分と同じような教育関係者。あとは一般的な会社員か、歯科医の光稀くらいしかいなかった。
 特別本嫌いというわけではないけれど、仕事関連の教育書や実用書くらいしか読まない。自分で物語を(つく)って生計を立てるなんて、遠い世界の話だった。
 「えぇと…私、映画とかドラマは多少観るんですけど、あんまり小説って読まないんです。そういう私でも知ってそうな作品、ありますか?」
 「実写化した作品ならあるよ。『下町ミサイル』とか『探偵と犬』とか『坂の上の雪』とか」
 「えっ。すごい話題になったやつばっかり。私、探偵のドラマ観てました」
 「あぁ。あれは視聴率良かったみたいだな」
 するすると出てきた有名タイトルに詩鶴は沸き立ったが、基は他人事のような顔をして頷いただけだった。
 実写作品自体は知っていても、原作者の名前までは知らなかった。お仕事ものにミステリーに本格歴史ドラマ。ジャンルがバラバラだから、原作者が同じだとも思っていなかった。しかもその原作者が目の前にいるなんて、にわかに信じ難い。
 信じ難いのはそれだけじゃない。エンタメに(うと)い方の詩鶴でも知っているタイトルがこうもいくつも出てくるということは、この人は。
 「人気作家じゃないですか…?」
 「まぁ今のところ、そこそこ仕事はある」
 どうでも良さそうに肩を竦めて、基は前髪を耳に掛けてコーヒーカップを口元に運んだ。片側だけ露わになったその目に、詩鶴は一瞬どきっとした。 
 細い切長の涼しげな目元、黒い髪と対照的に、色の薄い肌。ガリガリというほど痩せている訳ではないが、男の人にしては全体的に線が細い。長めの髪のせいかどことなく中性的な印象で──なんというか妙な色気というか、雰囲気のある人だった。
 「……瀬尾さんこそ、何でわざわざ〈vita〉を使って婚活なんてしてるんですか?」
 健康的な体育会系の男性が好みの詩鶴の趣味からは少し外れているが、この顔面にこの雰囲気。充分過ぎるくらい魅力のある人なんじゃないかと思った。それに加えて人気作家の肩書。下世話な話だが、それだけ実績があるなら印税収入も相当のものだと思われる。わざわざ無料のマッチングサービスなど利用しなくても、いくらでも相手は見つけられるんじゃないか?
 詩鶴が疑問を投げかけると、基はカップを持つ手をふと止めて、顔を上げた。片方だけはっきり見える黒い目が、詩鶴の内側に忍び込んで何かを探るように、じっと見つめる。夜の森のように深い色をしたその目に、詩鶴はほんの少し、怯んだ。
 「な…何ですか?聞かれたくない質問でした?さっき自分だって、同じ質問したくせに」
 どことなく居た堪れない気持ちになった詩鶴は、基の視線を()退()けるように、不満気に口をへの字に曲げた。決して品が良いとも麗しいとも言えない詩鶴のその顔を見て、基はふと表情を(やわ)らげる。
 「その質問に答える前に、もう少し別の話をしよう。今の質問にどう答えるか、その間に考えるから」
 「…考えるって…」
 ごく単純な質問をしただけなのに、そんなに熟考の余地があるものだろうか。詩鶴にはいまいち理解しかねる。
 どうも、捉えどころのない人だ。作家というのは皆こんなものなのだろうかと、詩鶴は首を捻った。
 「他に質問はある?」
 「うーん、そうですね。どうして私と会う気になったのかとか?」
 「それは単純な理由だ。君からしか申請がなかったからだよ」
 「えっ、そうなんですか?」
 「そうだよ。三十間近で自由業としか情報がない男なんて、誰だって怪しいと思うだろ。収入欄に不定期収入だから不明と書いたせいもあるんだろうな。君だってもっと安定したいい条件の相手、いくらでも居たんじゃないのか。なんでわざわざ僕にした?」
 いたかもしれないが情報量の多さに辟易してあんまりちゃんと見ていない、とは言えなかった。
 「妊娠成功率のランキングでトップに出たのが瀬尾さんだったんですよ。情報は少なかったけど私が出した条件は満たしてるんだし、とりあえず会ってみようと思って」
 「妊娠成功率か。なるほどな。それを理由に婚約破棄されてヤケになってたって事か」
 「ヤケに……?んん…うーん…?」
 基の言葉に、詩鶴はまたしても首を捻った。
 長い時間を一緒に過ごして、婚約までしていた恋人に突然振られて。ヤケになる気持ちも、勿論少なからずあった。あった、けれど。
 「…そういう気持ちも、なくはなかったんですけど…なんて言うのかな…それだけじゃなくて」
 自分の気持ちを正しく言葉に変換するのは、即興ではなかなか難しい。
 うーんと腕組みして考え込む詩鶴を、基は急かすこともなくじっと黙って待っていた。
 「……私、ちゃんと恋愛したのって、多分光稀が…その元彼が、初めてだったんです」
 「ちゃんとした恋愛ってなんだ」
 「うーん…上手く言えませんけど、告白されたから興味本位で何となく付き合ったとかじゃなくて…その人といると満たされて、会えない日が続けば気持ちが焦げ付くような…そしてそれは相手も同じ気持ちだろうなって、ごく自然に信じて安心してるような、そういう、恋愛…」
 そこまで言って、はっとした。
 これこそ初対面の見合い相手に話すような事ではない。
 中断しようとして基を(うかが)い見ると、彼は軽く頷いて「続けて」と先を促す。
 詩鶴は少し躊躇いながら、話を続けた。
 「……それが突然なくなって。自分が空っぽになった気がしました。今まで重ねてきた時間もその先に繋がってた筈の生活も、全部消えてしまった。…あの日、自分がどうやって家に帰ったのかも覚えてません。次の日は休みだったから、飲まず食わずで一日中布団から出られなくて。涙も出て来なかった。ほんとに空っぽで、何もかもなくなっちゃったって思ってました。でも」
 翌朝、アラームが鳴って。
 身支度もそこそこに、重い身体を引き摺るようにして仕事に出掛けた。
 「私は幼稚園の先生だから、仕事に行けば笑って子供達に接しないといけません。いつも通り子供達を追っかけて走り回って、歌ったり手を繋いでダンスをしたり…食欲なくても一緒にお弁当を食べなきゃいけない。だってそうでしょう?私がどんなに酷い気分だとしても、子供達には何も関係ない。私が悲しい顔をしてたらあの子達まで悲しくなって、泣いちゃうかもしれない。だから無理矢理に笑って…何日かそうやって普段通り振る舞ってる内に、気付いたんです。何もなくなってはいないなって」
 全部、消えてしまったかと思った。でも現実には仕事があって、走り回れる足があって、食べたものを収める胃袋もあって、子供達を抱き上げる腕があった。ある子供の前で、不意に悲しみに襲われてうっかり涙を零した時、その子は手のひらで詩鶴の涙を拭いてくれた。その小さな手に、どれだけ救われたかわからない。
 恋がひとつ消えても、世界は何も変わらない。
 それは少なくとも詩鶴にとって、確かな救いだったのだ。
 「私が失ったのは、光稀だけでした。今までも未来(これから)も、丸ごとなくなった訳じゃない。彼との将来は消えてしまったけど…その先にあった筈の家族を持ちたいっていう私の夢も、子供が好きっていう気持ちも、一緒に消してしまう必要なんてどこにもない。だからせめてそれだけでも、掬(すく)い上げようと思って…」
 それは(はた)からみれば、ヤケになったりムキになったりしているのと変わらないのかもしれない。でも詩鶴からすれば、必死で前を向いた結果なのだ。決して投げやりな気持ちではない。
 「正直に言うと、元彼と別れた後、合コンとかも行ったんです。事情を知った同僚が、失恋を癒すには新しい恋だってセッティングしてくれて。でもやっぱり、また一から恋愛始めて何年も付き合って結婚…って考えたら、途方に暮れちゃうというかそこまで気力が湧かないというか。だったら目的の一致した相手を最新技術に頼ってさくっと見つけて貰った方が、楽かなぁって。あ、さっきの話に戻っちゃいましたね。何で〈vita〉に登録したのかっていう」
 そこまで聞くと、基は深い溜息を吐いた。
 「…君は本当に馬鹿正直だな。物事や心情をありのまま口にし過ぎだ。きっと精神構造が単純なんだな」
 「そうかもしれませんけど、遠慮がないのは瀬尾さんも同じだと思います」
 先程まで大人しく傾聴の空気を醸し出していた癖に、口を開けばすぐこれだ。不躾な感想を投げつけてくる。詩鶴は肩を竦めて、飲み物のお代わりを頼む為にメニューを手に取った。
 「僕は褒めてるんだ。竹を割ったような性格っていうのは君のためにあるような言葉だな」
 「絶対褒めてない」
 「褒めてるよ。単純なだけに頑丈だ」
 基はポケットからヘアクリップを取り出して、前髪を大雑把に纏めると頭頂部でぱちんと留めた。
 「頑丈なのは強みだろ。君の逞しさは、なかなか清々しい」
 そう言って基は、切長の目を細めて淡い微笑みを浮かべた。彼が笑ったのを見たのは、その時が初めてだった。


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 「──という経緯がありまして、もうすぐっていうところで結婚する当てがなくなってしまったんです。でもやっぱり子供を持つ夢は諦めきれないし、出来るなら三十くらいまでには一人目が欲しいし。〈vita〉に登録すれば、手っ取り早く同じような希望を持つ相手を見つけられるかなと思ったんです」
 長い話を終えた詩鶴は、ほとんど口をつけていなかったカップの中の紅茶を一息に飲み干した。ホットで頼んだそれはすっかり冷めきっていて、一気飲みするのにちょうどいい。
 「…成程」
 向かいの席に座った男は、組んだ脚を左右入れ替えて組み直しながら、そう呟く。
 「──思ったより長い話だった」
 「あ、すみません。ちょっと熱が入り過ぎちゃいましたね」
 要約すれば何百文字かで話せるものを、微に入り細に渡り細かく語ってしまったせいで、話し終えるのに三十分近くかかった。
 「いや、面白かったよ。物話《ストーリー》としてはチープだけど、その分わかりやすかった。元恋人の母親の顔真似声真似もなかなか秀逸だったな。元ネタは知る由もないが、きっと巧妙に寄せているんだろう」
 「……お褒めに与《あずか》りまして、どうも…?」
 人の不幸に随分な言い草だと思わないでもなかったが、実際こうして話してみると確かに陳腐な話だな、といっそ笑いたくなる。
 「色々思うところはあるけど…なんて言うか、君は」
 詩鶴より少し年上のその男性は、口元に手を当てて少しの間言葉を選ぶように、考え込んだ。
 「……君は、案外頭が悪いな」
 「何ですって?」
 考えた末に出てきた言葉がそれかと、詩鶴は片眉を跳ね上げた。だが彼は平然として言い募る。
 「だってそうだろ。プロポーズされて婚約指輪渡されて式場まで探しておいて、一方的に婚約を破棄されたんだ。慰謝料として金くらい貰っとけよ」
 「そ…そういうものですかね」
 「そうだよ。指輪も返す必要ない。医者が渡した婚約指輪なんてそこそこいい物だろ?貰っといて転売すれば良かったんだ」
 「…や、そこまで頭回らなかった…怒りに任せて投げちゃいましたね」
 目を丸くする詩鶴に、彼はさらに言い募る。
 「怒れるだけのエネルギーが残ってたなら余計だよ。搾れるだけ搾り取ってやれば良かったんだ。いくら包んだのか知らないけど、倍額よこせって交渉したっていいくらいだよ」
 「えぇー…」
 淡白そうな顔をして言う事ががめついな、と詩鶴が少し引くと、彼はフンと鼻を鳴らした。
 「君の四年間を無駄遣いされたんだ。その時間は、それで補えるほど安いもんじゃないだろ」
 無駄遣い。そう言われて、喉の奥に軽い痛みとごろっとした違和感を感じた。
 光稀と一緒に過ごした四年間は、詩鶴にとって、概《おおむ》ね幸せと言っていい日々だった。あの一瞬でそのすべては、無駄な時間に姿を変えてしまったんだろうか。
 「安いものじゃない…というか…お金に換算できません」
 そう答えたきり黙ってしまった詩鶴をちらりと見て、彼ははぁと溜息を吐く。
 「それに普通はこんな話、見合い相手にしないだろ。面倒臭そうな奴だなって敬遠されて、上手くいくものもいかなくなるよ」
 そうだ。若干忘れかけていたが、眼の前にいるこの人は、先程挨拶を交わしたばかりの見合い相手。今日は詩鶴の人生初の、お見合いの日だった。
 〈vita〉に登録をしてから数週間。見合い相手は単純にランキング順で選んだ。
 沢山お相手見つかりますよ、と仲介のおじさんが言っていた通り、詩鶴のお相手候補はずらりと表示されていた。該当件数7898件。想像以上に多かった。スクロールバーの底が、いくら下がっても見えてこない。
 こんな数、全部に目を通せる訳がない。匙を投げて、一番上に表示された相手とのお見合いのセッティングを申請した。要するに、精査して選ぶのが面倒になったのだ。
 そうして会うことになったこの人は、名前は瀬尾《せお》基《もとい》、年齢二十九歳。東京都文京区在住、職業は自由業。
 詩鶴もスタッフのおじさんから条件が大らかな方だと言われたが、彼はそれに輪をかけて緩かった。緩いというより希望条件はほとんどないに等しい。プロフィールには自己アピールや相手に望むものを書く箇所が沢山あるのに、必要最低限、必須項目の記載しかされていなかった。こだわりはただひとつ、在宅仕事なので仕事中は邪魔をしないこと。それだけだ。事前情報が少な過ぎる。
 彼の|為人《ひととなり》を知るには、このお見合いで聞き出すしかない。
 そう考えていたのに、〈vita〉に登録した理由を先に訊《き》かれて、詩鶴は早々に自分語りを始めてしまったのだった。
 「そりゃ私だって、自分から敢《あ》えて話そうとは思ってませんでしたけど。瀬尾さんが聞いたんじゃないですか。何で〈vita〉を使って結婚しようと思ったのかって」
 「そうだけど、何もここまで馬鹿正直に話す必要あるか?」
 「適当な作り話して後々ボロ出して揉めるくらいなら、駄目なら駄目で早い段階で見切り付けられた方がいいかなって思ったんです」
 「そういうとこだよ。多少は小賢しさってものも、必要だろう」
 彼は呆れたように嘆息して前髪を掻き上げた。
 その時ちらりと見えた素顔に、おや、と詩鶴は軽く目を瞠《みは》った。
 そういうスタイルにこだわりがあるのか手入れを怠っているだけなのかわからないが、長めで多めの髪に隠れ、顔そのものがよく見えない、わからない。すらっとした長身でスタイルは良いものの、なんとなくもっさりしている、という曖昧な印象しか抱かなかった。が、それを取っ払って改めて見ると中々整った顔立ちをしている。隠しているのが勿体無い。
 (そっか。私のお見合い相手は、こんな顔をしてるんだ)
 初めは多少の緊張もあったし、光稀の話を始めてからはそちらに熱中してしまっていたから、今初めて彼という人にしっかり意識を向けた気がする。
 詩鶴はぺちぺちと自分の頬を叩いた。
 今はこちらに、お見合いに集中せねば。
 詩鶴が今、向き合わなければいけないのは、この人なのだ。
 よし。今度はこちらから質問する番だ。詩鶴は意気込んで軽く身を乗り出す。
 「次は瀬尾さんのことを聞かせて下さい。自由業ってありましたけど、具体的にはどんなお仕事されてるんですか?」
 「文筆業」
 「文筆業?ライターとかですか?」
 「いや。小説を書いてる」
 「…小説?」
 詩鶴は少なからず驚いた。詩鶴の交友関係といえば、半分は自分と同じような教育関係者。あとは一般的な会社員か、歯科医の光稀くらいしかいなかった。
 特別本嫌いというわけではないけれど、仕事関連の教育書や実用書くらいしか読まない。自分で物語を創《つく》って生計を立てるなんて、遠い世界の話だった。
 「えぇと…私、映画とかドラマは多少観るんですけど、あんまり小説って読まないんです。そういう私でも知ってそうな作品、ありますか?」
 「実写化した作品ならあるよ。『下町ミサイル』とか『探偵と犬』とか『坂の上の雪』とか」
 「えっ。すごい話題になったやつばっかり。私、探偵のドラマ観てました」
 「あぁ。あれは視聴率良かったみたいだな」
 するすると出てきた有名タイトルに詩鶴は沸き立ったが、基は他人事のような顔をして頷いただけだった。
 実写作品自体は知っていても、原作者の名前までは知らなかった。お仕事ものにミステリーに本格歴史ドラマ。ジャンルがバラバラだから、原作者が同じだとも思っていなかった。しかもその原作者が目の前にいるなんて、にわかに信じ難い。
 信じ難いのはそれだけじゃない。エンタメに疎《うと》い方の詩鶴でも知っているタイトルがこうもいくつも出てくるということは、この人は。
 「人気作家じゃないですか…?」
 「まぁ今のところ、そこそこ仕事はある」
 どうでも良さそうに肩を竦めて、基は前髪を耳に掛けてコーヒーカップを口元に運んだ。片側だけ露わになったその目に、詩鶴は一瞬どきっとした。 
 細い切長の涼しげな目元、黒い髪と対照的に、色の薄い肌。ガリガリというほど痩せている訳ではないが、男の人にしては全体的に線が細い。長めの髪のせいかどことなく中性的な印象で──なんというか妙な色気というか、雰囲気のある人だった。
 「……瀬尾さんこそ、何でわざわざ〈vita〉を使って婚活なんてしてるんですか?」
 健康的な体育会系の男性が好みの詩鶴の趣味からは少し外れているが、この顔面にこの雰囲気。充分過ぎるくらい魅力のある人なんじゃないかと思った。それに加えて人気作家の肩書。下世話な話だが、それだけ実績があるなら印税収入も相当のものだと思われる。わざわざ無料のマッチングサービスなど利用しなくても、いくらでも相手は見つけられるんじゃないか?
 詩鶴が疑問を投げかけると、基はカップを持つ手をふと止めて、顔を上げた。片方だけはっきり見える黒い目が、詩鶴の内側に忍び込んで何かを探るように、じっと見つめる。夜の森のように深い色をしたその目に、詩鶴はほんの少し、怯んだ。
 「な…何ですか?聞かれたくない質問でした?さっき自分だって、同じ質問したくせに」
 どことなく居た堪れない気持ちになった詩鶴は、基の視線を撥《は》ね退《の》けるように、不満気に口をへの字に曲げた。決して品が良いとも麗しいとも言えない詩鶴のその顔を見て、基はふと表情を和《やわ》らげる。
 「その質問に答える前に、もう少し別の話をしよう。今の質問にどう答えるか、その間に考えるから」
 「…考えるって…」
 ごく単純な質問をしただけなのに、そんなに熟考の余地があるものだろうか。詩鶴にはいまいち理解しかねる。
 どうも、捉えどころのない人だ。作家というのは皆こんなものなのだろうかと、詩鶴は首を捻った。
 「他に質問はある?」
 「うーん、そうですね。どうして私と会う気になったのかとか?」
 「それは単純な理由だ。君からしか申請がなかったからだよ」
 「えっ、そうなんですか?」
 「そうだよ。三十間近で自由業としか情報がない男なんて、誰だって怪しいと思うだろ。収入欄に不定期収入だから不明と書いたせいもあるんだろうな。君だってもっと安定したいい条件の相手、いくらでも居たんじゃないのか。なんでわざわざ僕にした?」
 いたかもしれないが情報量の多さに辟易してあんまりちゃんと見ていない、とは言えなかった。
 「妊娠成功率のランキングでトップに出たのが瀬尾さんだったんですよ。情報は少なかったけど私が出した条件は満たしてるんだし、とりあえず会ってみようと思って」
 「妊娠成功率か。なるほどな。それを理由に婚約破棄されてヤケになってたって事か」
 「ヤケに……?んん…うーん…?」
 基の言葉に、詩鶴はまたしても首を捻った。
 長い時間を一緒に過ごして、婚約までしていた恋人に突然振られて。ヤケになる気持ちも、勿論少なからずあった。あった、けれど。
 「…そういう気持ちも、なくはなかったんですけど…なんて言うのかな…それだけじゃなくて」
 自分の気持ちを正しく言葉に変換するのは、即興ではなかなか難しい。
 うーんと腕組みして考え込む詩鶴を、基は急かすこともなくじっと黙って待っていた。
 「……私、ちゃんと恋愛したのって、多分光稀が…その元彼が、初めてだったんです」
 「ちゃんとした恋愛ってなんだ」
 「うーん…上手く言えませんけど、告白されたから興味本位で何となく付き合ったとかじゃなくて…その人といると満たされて、会えない日が続けば気持ちが焦げ付くような…そしてそれは相手も同じ気持ちだろうなって、ごく自然に信じて安心してるような、そういう、恋愛…」
 そこまで言って、はっとした。
 これこそ初対面の見合い相手に話すような事ではない。
 中断しようとして基を窺《うかが》い見ると、彼は軽く頷いて「続けて」と先を促す。
 詩鶴は少し躊躇いながら、話を続けた。
 「……それが突然なくなって。自分が空っぽになった気がしました。今まで重ねてきた時間もその先に繋がってた筈の生活も、全部消えてしまった。…あの日、自分がどうやって家に帰ったのかも覚えてません。次の日は休みだったから、飲まず食わずで一日中布団から出られなくて。涙も出て来なかった。ほんとに空っぽで、何もかもなくなっちゃったって思ってました。でも」
 翌朝、アラームが鳴って。
 身支度もそこそこに、重い身体を引き摺るようにして仕事に出掛けた。
 「私は幼稚園の先生だから、仕事に行けば笑って子供達に接しないといけません。いつも通り子供達を追っかけて走り回って、歌ったり手を繋いでダンスをしたり…食欲なくても一緒にお弁当を食べなきゃいけない。だってそうでしょう?私がどんなに酷い気分だとしても、子供達には何も関係ない。私が悲しい顔をしてたらあの子達まで悲しくなって、泣いちゃうかもしれない。だから無理矢理に笑って…何日かそうやって普段通り振る舞ってる内に、気付いたんです。何もなくなってはいないなって」
 全部、消えてしまったかと思った。でも現実には仕事があって、走り回れる足があって、食べたものを収める胃袋もあって、子供達を抱き上げる腕があった。ある子供の前で、不意に悲しみに襲われてうっかり涙を零した時、その子は手のひらで詩鶴の涙を拭いてくれた。その小さな手に、どれだけ救われたかわからない。
 恋がひとつ消えても、世界は何も変わらない。
 それは少なくとも詩鶴にとって、確かな救いだったのだ。
 「私が失ったのは、光稀だけでした。今までも|未来《これから》も、丸ごとなくなった訳じゃない。彼との将来は消えてしまったけど…その先にあった筈の家族を持ちたいっていう私の夢も、子供が好きっていう気持ちも、一緒に消してしまう必要なんてどこにもない。だからせめてそれだけでも、掬《すく》い上げようと思って…」
 それは端《はた》からみれば、ヤケになったりムキになったりしているのと変わらないのかもしれない。でも詩鶴からすれば、必死で前を向いた結果なのだ。決して投げやりな気持ちではない。
 「正直に言うと、元彼と別れた後、合コンとかも行ったんです。事情を知った同僚が、失恋を癒すには新しい恋だってセッティングしてくれて。でもやっぱり、また一から恋愛始めて何年も付き合って結婚…って考えたら、途方に暮れちゃうというかそこまで気力が湧かないというか。だったら目的の一致した相手を最新技術に頼ってさくっと見つけて貰った方が、楽かなぁって。あ、さっきの話に戻っちゃいましたね。何で〈vita〉に登録したのかっていう」
 そこまで聞くと、基は深い溜息を吐いた。
 「…君は本当に馬鹿正直だな。物事や心情をありのまま口にし過ぎだ。きっと精神構造が単純なんだな」
 「そうかもしれませんけど、遠慮がないのは瀬尾さんも同じだと思います」
 先程まで大人しく傾聴の空気を醸し出していた癖に、口を開けばすぐこれだ。不躾な感想を投げつけてくる。詩鶴は肩を竦めて、飲み物のお代わりを頼む為にメニューを手に取った。
 「僕は褒めてるんだ。竹を割ったような性格っていうのは君のためにあるような言葉だな」
 「絶対褒めてない」
 「褒めてるよ。単純なだけに頑丈だ」
 基はポケットからヘアクリップを取り出して、前髪を大雑把に纏めると頭頂部でぱちんと留めた。
 「頑丈なのは強みだろ。君の逞しさは、なかなか清々しい」
 そう言って基は、切長の目を細めて淡い微笑みを浮かべた。彼が笑ったのを見たのは、その時が初めてだった。