「雪音ちゃん!待ちなさい!」
待ってなんてられない。早くしないと、あの人が死んでしまう。
「ちっ、なんつー足の速さだ。遊里!早く追いつけ!」
「わかってるけどバカっ速いのよあの子!」
目に飛び込んできたのは、溺れている彼女だった。もがく彼女の首には緑色の物が巻きついている。わたしは勢いに任せて、川に飛び込んだ。
*
「どうしたの、その顔。だいぶ酷いことになってるけど」
本日、火曜日、17時15分 ─。
出勤したわたしに掛けられた、第一声だ。
「昨日、あんま寝れなくて」
「海外ドラマか」
「んー・・・まあ」その海外ドラマも、どこまで観たか覚えていない。流してはいたけど、あまり頭に入ってこなかった。
「春香は?結局あれから飲んだの?」
「うん、そしたら火ついちゃって、夜の10時くらいまで飲んでたわ」
こやつの身体も、火をつけたら燃えそうだ。アルコールで。「店長にメールした?謝罪の」
「したわよ。あの人もあんまり覚えてないらしい」
「あそ」タクシーで爆睡していたから、無理もない。
「じゃあ、本日も張り切って行きましょう」春香が言い、「おー」わたしが応える。
このやり取りは、いつからか2人の日課になっている。こうなった経緯は覚えていないが、やらないと気持ち悪さを覚えるくらい、染みついてしまっている。実際は、張り切ってとは程遠いテンションだが。
でも、今日はそんな日課も無意味に終わりそうだ。19時に2組のカップルが来店して以来、ピタりと客足が途絶えた。外の人通りはいつもと変わらないが、今日は嫌われてしまったらしい。
「今日はもう終わりね」10時を回ったところで、春香がぼやいた。
「もうとっくに諦めてるよ」わたしが顎で指した人物は、厨房の中で堂々と煙を堪能している。店長はああ見えて、仕事中は一切たばこを吸わない。それは、客が途絶えた合間にもだ。
つまりは、本日は営業終了という合図でもある。
「もう、誰も来ないよね」決まったお言葉だが、わたし達は決して返事をしない。同意すると、喜ぶのは店長だから。
「10時半まで待ってみましょう」春香が言うと、店長はあからさまに嫌な顔をした。
「うーん、わかった」どっちが店長だかわかりやしない。
そして、店内の時計が10時半を指したところで、店長がパンと手を鳴らした。「よし、これにて終了」
「これだけ暇なのも久しぶりよね」春香は基本、暇が嫌いだ。何もしない時間にストレスを感じるらしく、それなら死ぬほど忙しいほうがいいらしい。それも不思議な話だが。
「そういえば、近所の焼き鳥屋、今日がオープンじゃなかった?3日間限定で生ビール100円とかってやつ。春香行きたいって言ってたよね」
「ああ、そういえば今日だったわね。そっちに持ってかれたか」ちっと、舌打ちが聞こえた。
「明日も暇そうだねこりゃ」
「まあ最初だけよ。みんなあーゆうオープン記念とかに踊らされてるけど、終わったら知らんぷりよ」
「行きたいって言ってたけど」
「あたしは踊らされてるんじゃなく、ビールを純粋に愛する者として行きたいの」
「屁理屈アル中」
「なんなら今から行ってみる?店長の奢りで。時間的に空いてるんじゃない」
「俺はパース。明日早いんだよね」
「わたしも予定あり」オネエは迎えに来ると言っていたけど、何処まで来るんだろう。外を確認したが、それらしき人は見当たらない。
「予定って何よ。海外ドラマ?」
「いや、約束あって」
「今から?」
「うん」
「誰と?」
「誰とって・・・」
「男?」
──なんだろう、この尋問でも受けてるような気持ちは。気づけば店長も、わたしに注目している。
「男っていえば男だけど・・・」断言出来ない。
「はっ!?マジで!?誰っ!」春香の勢いに押されそうになる。
「誰って・・・あ、別にそーゆうんじゃないからね。ちょっと野暮用があって」
「何よ野暮用って。この時間から?デートじゃないの?」
「雪音ちゃん、まさか彼氏出来た?」店長はニヤついている。
「ちがーう、野暮用は野暮用!いいから掃除して帰りましょう皆さん」
春香は目を細めてわたしを見た。「怪しい」
それから掃除が終わるまで、春香と店長はコソコソと何かを話し、痛いほどの視線を感じたが、気づかないフリをした。
わたしが男と約束あるのが、そんなに珍しいか?──考えて、すぐに納得した。
着替えを終えたわたし達は、同時に店の外へ出た。店長が店の鍵を施錠するのを見届け、さあ解散というところで──「雪音ちゃん」
一瞬、聞き間違いかと思った。声がする方を向くと、黒いSUV車が路肩に停まっている。運転席から降りて来たのは、"あの"オネエだった。
わたしは心の中で悲鳴を上げた。よりによって、このタイミングで──。
横目で春香達を見ると、目が点になっている。そしてすかさず、「ちょっと!アレ誰よ!アンタの名前呼んでなかった!?」小声だが、服をグイグイと引っ張られる。
「あー・・・」なんと説明していいものか。
オネエがこちらへ向かってくる。わたしはもう覚悟を決めた。
「雪音ちゃん、お疲れ様」
わたしが口を開く前に、春香にガッチリと腕をホールドされた。「お疲れ様ですぅ。初めまして、わたし雪音の同僚の春香っていいます」やっぱりな、そう来ると思った。
「・・・あら、そうなの。どうも初めまして。あたしは雪音ちゃんのお友達・・・でいいかしら?遊里です」
笑顔のオネエに対して、春香は言葉を失っていた。店長も、固まっている。
無理もない、一見モデル並の身長でスポーツマンのようなガタイの男が、オネエ言葉なんだから。
「あ・・・店長の木下です。どうぞよろしく」空気を察した店長が自ら名乗り出た。さすが年の功。
「あら、雪音ちゃんの店長さん。どうぞよろしく」オネエの笑顔に店長が見惚れているように見えたが、気のせいと思うことにする。
「・・・車だったんですね」
「そうなの、歩きではちょっと遠くてね。行けるかしら?」
「あ、はい。じゃあ、わたしはここで」
春香はわたしを掴む腕に力を込めた。「明日、詳しく聞かせてもらうわよ」
──詳しく話せたら、なんぼほど楽か。
視線で人を殺せるなら、わたしは車に乗り込む前に死んでいたと思う。それはサイドミラー越しにも感じ、車が次の信号を曲がるまで続いた。
明日が、恐ろしい。
「なんだか、ごめんなさいね」市街地を抜けたところで、オネエが言った。
「何がですか?」
「いや、なんか迷惑かけちゃったかしらって。雪音ちゃん注目されてたでしょ」
「・・・いえ全然。わたしが男の人と会う事が珍しいから、面白がってるだけです」男の人、の後に少し間が空いたのはあしからず。
「そうなの?」
「はい、春香はわたしをイジるのが趣味なので」
「あたしが聞いたのはそっちじゃないけど」
「え?」オネエを見ると、メーターパネルの灯りで照らされた横顔が笑っている。
「雪音ちゃんは大人ね」
「・・・わたしが?春香には、今時の小学生のほうがアンタより大人よって言われますけどね」
オネエはハハッと笑った。「春香ちゃん、よね。あなたの事、えらい気にかけてると思うわよ」
サイドミラーに映る自分と目が合い、笑っている事に気づいた。「それは、否定出来ないですね。良くも悪くも、わたしをよく知ってます」
オネエは前屈みになり、ハンドルの上に手を重ねた。「さっき、凄く警戒されてたわ」
「・・・警戒?誰がですか?」
「あたしよ」オネエは変わらず笑っている。
「・・・ん?誰に?」
「まあ、そういうことよ」それに続く言葉は、なかった。「それより雪音ちゃん」
「はい」反射的に答える。
「あたしの名前、知ってる?」
これは、何かの引っかけだろうか。オネエの顔はもう笑っていない。聞かれたことには、答えるまでだ。「早坂 遊里、さん」
「よかったわ」
「・・・あの、一体・・・」
「だって、雪音ちゃん、あたしの名前呼んでくれないんだもの」
「はい?」
「瀬野のことは瀬野さんって呼ぶのに、あたしは1回も呼ばれたことないわ」
オネエは若干、ふてくされ気味だ。言われるまで気付かなかった。そして、意識もしてなかった。わたしの中では、オネエが定着していたから。
というか、「そんなこと、ですか」
「そんなことじゃないわ。瀬野は嫌われてるんじゃないかってイジメるし」
「・・・嫌いになる要素、ないですよね」というか、そもそもそんなに知らない。
「だったらいいんだけど」
顔は、あまりよさそうではないけど。──そんなこと気にしてたんだ。なんだか、よくわからない人だ。
「あの、わざわざ迎えに来てくれてありがとうございます・・・早坂さん」
オネエが、パッとこっちを向いた。「ふふ、どういたしまして」そして、いつもの笑顔に戻る。それが子供みたいで、可愛くて、おかしくなった。
「何笑ってるの?」そういうオネエ、もとい、早坂さんも笑っている。
「いえ、なんでもないです」
「気になるわね。なあに?」
「いえ、それより前向いてください」
「ねえ、何の笑み?」
「いいから、前を向いてください」
それから15分程車を走らせると、窓の外の景色は住宅街へと変わっていた。
見えるのは立派な一戸建てばかりで、これぞ正に高級住宅街。車線のない道路を進んで行くと、緩い上り坂に差し掛かった。道路脇には、進入禁止の標識が設置されている。
早坂さんは、坂の手前で車を停めた。
「ここからは歩きなのよ。ちょっと上るけど大丈夫?」
子供でも余裕そうな傾斜だが。「これくらいは上るうちに入りません」
早坂さんは、でしょうねと笑った。
車1台通れるかの狭い道を、2人並んで進む。街灯まで高級に見えるのは、先入観か。
「抱っこしてあげるわよ?」
「結構です」
坂を上り切ったところに見えてきたのは、一軒の平屋だった。周りに建物はなく、家を囲むように木々が生い茂っている。先程まで見ていた景色とは別世界のようだ。
「あそこよ」早坂さんが、その平屋を指さした。
暗闇でよく見えなかったが、近づくにつれて、とても古い建物だということがわかった。日本の伝統を感じるような、木造の和風家屋だ。
草に囲まれた石畳のアプローチを抜けると、早坂さんはインターホンも鳴らさず、玄関の格子戸を開けた。
「財前さん、来たわよー」
「入りなさい」男の声だった。
早坂さんに続き、靴を脱いで中に入る。「お邪魔、します・・・」
そして、入ってすぐ右手の襖を開けた。「あら、瀬野はまだね。いつも誰より早いのに」
「さっき、向かってるって連絡があったよ。間もなくじゃないか」
早坂さんの大きな背中に視界を奪われ、声しか確認出来ない。
「雪音ちゃん、どうぞ」早坂さんの手が背中に回り、わたしを先に部屋に通した。
中に居たのは、着物姿の若い男性だった。
文机の前に正座している彼は、細筆を手に持ち書き物をしている。目が合うと、静かに微笑んだ。
「こんばんは」
「あ、こんばんは・・・」お辞儀をする。
「財前さん、この子が雪音ちゃんよ。雪音ちゃん、彼は、財前 龍慈郎(ざいぜん りゅうじろう)さん」
代わりに紹介を済ませてくれたのはありがたいが、そもそもこの人は誰なのか、この状況はどういう事なのか、自分の立ち位置がわからない。
「初めまして。中条 雪音です。よろしくお願いします」
不思議な事が、起きた。財前さんは笑みを浮かべているが、その眼が一瞬、鋭くわたしを捉えた。意識が飛びそうになる。
財前さんが立ち上がり、ハッと我に返った。
── 今のは、何?
こちらに向かってくる彼に、なぜか恐怖心を感じる。
「雪音ちゃん」
ビクッと身体が反応した。早坂さんの手が、肩に乗る。
「大丈夫よ」
── 何が?どう大丈夫?わからない。わからないけど、早坂さんの顔を見て、安心する自分がいた。
「雪音ちゃん、だったね」近くで見る財前さんは、とても小柄だった。そして、とても若い。また、不思議な感覚に陥る。「すまない。怖がらせてしまったね。ちょっと、試させてもらったよ」
「・・・え?」
「だから言ったでしょ。この子はちょっと別格よ」
「そのようだね」
2人の会話の意味はわからないが、1つ、感じた事がある。財前さんがそばに来ると、そこだけ空気が冷たくなる。まるで、財前さんから冷気が放たれているかのように。
「座りなさい。今、茶を淹れてくる」
「・・・あ、おかまいなく」
部屋の真ん中に重厚な木のテーブルが置いてあり、座布団が4つ並べられている。そこに早坂さんと並んで座る。座った途端、もの凄い疲労感に襲われた。
「雪音ちゃん、大丈夫?」
「何がですか?」
「ちょっと具合悪くなったでしょ」
「早坂さん、あの人って・・・」
襖が開き、背筋がピンと伸びる。隣の男は、笑いを堪えてるようだった。
財前さんはわたしの向かいに座り、お茶の乗ったトレーをテーブルに置いた。その間、なぜか顔が見れず、彼の手元だけを見ていた。差し出されたお茶を受け取り、「いただきます」1口飲みながら財前さんを見て──「グホァッ」
「ちょっと雪音ちゃん!大丈夫!?」
大丈夫じゃない。息が出来ない。早坂さんに背中を叩かれながら、むせ返った。
落ち着いたところで、目の前の人物を凝視する。
──── だれ?
その時、カタッと扉の閉まる音が聞こえた。「来たわね」
襖が開き、瀬野さんが現れた。涙目のわたしに怪訝な顔をする。「泣かせたのか?」
「なんであたしを見るのよ!」
「遅かったね、正輝」
「出掛けにタイヤがパンクしちまって、タクシーで来た。遊里、帰りは俺も乗せてけ」
「はいはい」
会話が耳に入ってこない。それより、わたしの目の前にいるこの人は、誰?
瀬野さんはその人の隣に座った。
「財前さん、何時に戻ったんだ?」
「遊里達が来る少し前だよ」
「どうだった?」
「収穫はなかったよ」
「そうか・・・」
早坂さんが、わたしの顔の前で手を振る。「おーい、雪音ちゃん?起きてる?」
そうか、わたし、夢を見てるのかもしれない。瀬野さんは今、財前さんと言った。でも、わたしの目の前にいる人は財前さんじゃない。いや、確かに、財前さんではある。着物だけは──。
「僕が誰か、わからないかい?」わたしに微笑みかける。
「わかりません」だって、その顔はさっきまでの財前さんじゃない。額、目尻には深い皺が刻まれ、後ろで結ぶ髪は変わっていないが、先程の黒髪ではなく、白髪交じりのグレーヘア。言葉遣いは同じだが、声が高く、細い。
一見、60歳くらいの男性に見える。よく見ると、湯呑みを持つ手も、皮膚が薄く血管が浮き出ている。
「僕の名前は、財前 龍慈郎だよ」
「・・・同姓同名の若い方と一緒に住んでおられませんか」
早坂さんが噴き出すのがわかったが、わたしは至って真剣だ。どう考えても、説明がつかない。
「なるほど、そういう事か・・・中条、財前さんはな」状況を察知した瀬野さんを、"隣の彼"が目で制した。
「雪音ちゃん、僕を怖いと思うかい?」彼の目は、しっかりとわたしを見据えている。
「・・・思います」
「どうしてだい?」表情は穏やかではあるが、内に秘められているものが、わたしを試しているような、面白がっているような、そんな気がした。それでもわたしは、正直に答えるしか出来ない。
「眼・・・というか、こう、全てを見透かされてるような・・・そーゆうところ?ですかね」
自分の発言の賛否を分析するより先に、彼が声を上げて笑った。「違うだろう。君が恐れなければならないのは、僕の姿形のはずだが」
賛否の分析は出来ないが、目に見えてわかるのは、目の前の人物は笑い、その隣の人物は呆れ、その向かいにいる人間は、可笑しそうだ。
「恐ろしい子だな」悪い意味ではないのは、彼の表情でわかった。「遊里の言う通り、心配する事は何もなさそうだね」
「でしょ?あたしの目に狂いはないわよ」
「雪音ちゃん、君はもう、本能でわかっているだろう?」
答えられないのは、長年培われた否定精神だ。
「財前さん、この子はあまり免疫が・・・」早坂さんの腕に触れ、その先を止めた。早坂さんは少し驚いているようだったけど、わたしが聞かれたことだ。わたしが答える。
「"財前さん"、あなたは、人間ですか?」彼の目を見て、言った。
少しの間、沈黙が流れる──。
財前さんはテーブルに肘を付き、顔の前で手を組んだ。「僕は、人間だよ。──半分は」
「え?」
「半分は、妖怪だ」
「・・・半分、ですか」
「ああ、僕を生んだ女性はただの人間だからね。ということは、わかるだろう?」
「・・・お父さん・・・が」
財前さんは静かに頷いた。頭の中を整理する。財前さんは半分人間で、半分妖怪。お母さんが人間で、お父さんが妖怪。その人間と妖怪の間に出来た子供、それが財前さん。
──そんなことが、ありうるんだろうか。理屈はわかっても、頭が追いつかない。
「何か、聞きたいことはあるかい?」
突として聞かれ、返答が出来なかった。聞きたいこと、聞かなければならないことがあるはずなのに、頭が働いてくれない。
「あの・・・」何か言わなくては──「食べ物は、何を食べてるんですか」
すぐに後悔したが、時すでに遅し。最初に早坂さんが笑い、釣られたように財前さんも笑った。瀬野さんはやはり、呆れ顔だ。
「本当におもしろい子だ。食べ物か。普通の人間と同じ物を食べているよ。当たり前にお腹も空くしね」
「・・・なるほど」驚きはない。財前さんは何処をどう見ても普通の人間にしか見えない。
「ただし、睡眠は必要ないんだ」
「え、そうなんですか?」
「ああ、生まれて此の方、眠いと思ったことがないよ。腹は空くのに、おかしいだろう?」
「確かに」無意識の発言に自分で焦った。「すみません」
「雪音ちゃん、僕に対して気を遣う事はない。腹を割って話そうか」
2回、頷いた。1つは感謝を表して。
「最初に目が合った時、確信を得たよ。君は僕にも耐えられる存在だと」視界の隅で、早坂さんが頷くのがわかった。「僕は、君を試したんだ。この悍ましい力に耐えられるか、自分を保つことが出来るか。僕を前にして、正常でいられるのか」
「・・・それは、何か、力を使ったということですか?」
「そうだ。感じたかい?」
「はい。よくわからないけど・・・クラクラして、倒れそうになりました」
「普通の人間は、とっくに意識を無くしているよ。むしろ、強めに掛けたんだがね」
「あたしでも、けっこうきたわよ」
「君がいつ倒れてもいいように、遊里は備えていたからね」
「・・・そうなんですか?」早坂さんは、とぼけたように笑った。── 全然、わからなかった。
「雪音ちゃん、他に聞きたいことはあるかい?何を聞いてもらっても構わない。君には、全てを応えよう」
戸惑ったのは、この状況に対してじゃない。自分の中に芽生えた新しい感情にだ。
「ありません」
ここに来て初めて、財前さんの笑顔が"本物"だと感じた。
「では、僕から君に話が・・・いや、頼みがあるんだが、聞いてくれるかい?」
ほら、やっぱり。自分でも、なぜこんな感情になるのかわからない。
「はい」
「僕はね、ある妖怪を探しているんだ」財前さんは右腕をテーブルに置き、着物の袖を捲り上げた。上腕全体を覆う赤黒いアザに、思わず顔をしかめる。「これは、その妖怪によってつけられたものだ。不気味だろう」
「前に見た時より、広がってるな」瀬野さんの言葉に早坂さんが頷く。
「これは僕を蝕み、いずれ身体全体に広がる」
「・・・どうなるんですか?」
「我を失い、醜い化け物へと変わり、人を喰い殺すだろう」
ごくりと唾を呑んだ。「治らないんですか?」
「方法は1つ。これをつけた者を始末することだ」財前さんは袖を下ろし、その手を左袖に通した。「だが、そう簡単にはいかなくてね。その者が今何処にいるのか、どんな姿をしているのかわからない」
「どんな姿・・・?」
「あやつは元々、大蛇の妖怪なんだ。人を呑み込み、その姿に化ける」
「人間の姿に化けるってことですか?」
「そうだ。数ヶ月に1度、大蛇の姿に戻り、脱皮するんだ。そしてまた別の人間を喰らい、姿を変える。あやつが人を喰らうその近くには皮が残されているんだ」
その場面を想像するだけで、身震いする。
「数日前も、ある山中で3メートル程の巨大な皮が見つかったと情報を得て向かったんだが、空振りに終わったよ」
「・・・あの、蛇の姿に戻ると、それまで化けてた人はどうなるんですか?」
財前さんは、言葉を選んでいるようだった。「自分の中に取り込むんだよ。それは物体だけじゃなく、その人物の記憶までね」
「記憶・・・ですか?」
「記憶、知識、全てだ。だから、その人物になりきれる。そうやって人間の世界に上手く溶け込んでいるんだ」
「言ってしまえば、取り込んだ人の数だけ賢くなれるってことね」早坂さんが言い、財前さんが頷く。
「そんなことが・・・」現実に起きていると思うと、背筋が凍った。完全に理解の域を超えている。
「残念ながら、現実に起きている事なんだ。だから、君にお願いがある」
「はい」
「この先、僕が我を失い、危険だと判断した時は、躊躇なく僕を殺してほしい」
財前さんが笑顔で言うものだから、言葉の理解に時間がかかった。
「重く受け止めなくていいんだよ。これは元々、この2人に託してる事だ」早坂さんと瀬野さんの表情は、冷静そのものだ。「ただ、君にもその覚悟を持っていてほしいんだ。出来るかい?」
──そんな、簡単に聞くこと?
誰かを殺す覚悟なんて、持てるわけがない。
「僕は、君の事を認めているんだよ。僕に耐えられた君なら、大抵の事には対処出来る。いや、そうしなければならない」
「・・・さっき、思ったんです」口に出したはいいが、その先を上手く説明出来るか、不安だった。でも、3人は何も言わず待ってくれる。「財前さんが、わたしには全て応えてくれるって、頼みがあるって言った時、凄く、嬉しかったんです。自分も認められたんだ・・・"こっち側"に来たんだって・・・ワクワクしてしまったんです。──だから、わたしも協力します」
「・・・中条、その協力というのは・・・」
「はい、その蛇を見つけましょう」
─── 「クッ・・・」沈黙を破ってくれたのは、早坂さんだった。顔を背け、口元を押さえている。
「あのな、それが出来たら・・・」次は瀬野さんだ。
「わかってます。でも、財前さんを殺す前に、その蛇を見つけたいです」
「どうして、そう思うんだい」
「・・・さっき、わたしは本能でわかってるって言いましたよね。だから、本能に従います。わたしは、あなたがどんな人か知らないし、聞く気もないです。ただ、あなたを助けたいと思いました」
財前さんは虚ろな目でわたしを見ると、顔を伏せた。「僕の頼みは聞いてくれないということか」
再び流れる沈黙。──やばい。わたし、怒らせた?
「フ・・・フ・・・ハハハハハ」部屋に響き渡る、大きな笑い声。財前さんは気でも触れたように笑い始めた。
わたしは呆気に取られ、ポカンとする。助けを求めるように隣を見ると、声を発していないだけで、同じ状態だ。
「その蛇を見つけましょう、か」笑いの合間に呟き、また高笑いする。「君は本当に、とてつもなく面白い子だ」
「落とし物を探すわけじゃないんだぞ」呆れ口調の瀬野さんに、財前さんがまた笑う。
「ありがとう、雪音ちゃん。そう言ってもらえて素直に嬉しいよ」それが本心なのは、表情でわかった。
「あの、その蛇を見つける方法は他にないんですか?」
「・・・ないわけではない。あやつの放つ妖気は他の妖怪とは比べ物にならないからね。僕達のような人間は、近くにいればわかるんだ」
わたしにも、わかるだろうか。
「君にも感じるはずだ。さっき僕の妖気に耐えられた君なら、正気を失わずにいられる。──それと、もう1つ。あやつの身体には、僕と同じアザがある。それは人間の姿に化けても消える事はない」
「・・・あの、お願いがあるんですが」
「なんだい?」
「非常に、言いづらいんですけど・・・」
「言ってみなさい」
「・・・さっきの右腕のアザ、写真撮ってもいいですか?」
財前さんは最初キョトンとしていたけど、すぐに笑ってくれた。「構わないよ」
携帯で撮ったアザの写真を、早坂さんが覗き込む。「それ、どうするの?」
「忘れないように、念の為」
「雪音ちゃん、ナイフを貰っただろう。今持ってるかい?」
「あ、はい。ポケットに入れてます」
「それでいい。肌身離さず、持っていなさい。もちろん、僕と会う時もね」
その意味はわかった。だから、返事はしなかった。
「2人の短刀とは違って小振りで頼りなく見えるかもしれないが、造りは頑丈だ。安心しなさい」
何に対して安心すればいいのか──「はい」と言っておく。
財前さんが、静かに立ち上がった。「今日はもう遅い。帰りなさい」
──なんだか、不思議な気持ちになった。この家に財前さんを1人残して帰ることに、妙な罪悪感を覚える。
財前さんは帰り際、君に会えて良かったと言った。わたしもです。と返すと、見たことのない優しい顔で微笑んだ。
わたしは正直、泣きそうになった。何故か、母の顔が浮かんだんだ。
「気になる?」3人で車に向かう途中、早坂さんが言った。
「えっ?いや・・・」意味もなく、何度も振り返っているからだ。「なんかこう、不思議な気分なんですよね・・・」
「フフ、わかるわよ」本当か?と思ったけど、言わない。「あたしも最初会った時、そうだったもの。そうねえ、言葉で表せない、不思議な感覚よね」
早坂さんも、そうだったんだ。「瀬野さんは・・・?そういうの、ありました?」
少し、間が空く。「不思議な感覚か。まあ、わからなくもないな」
それを聞いて、少し安心する。わたしだけじゃなかったんだ。
「ちょっと雪音ちゃん、どこ行くつもり?」
車のドアに向かうわたしに、早坂さんが言った。「え・・・車に乗ろうかと」
「アナタは前でしょう!」
「え、いや、瀬野さん乗ってください。わたし後ろに乗るんで」
「やめてちょうだい!何が悲しくて男を隣に乗せなきゃならないのよ。それもこんな図体デカいの」
「それはお前も同じだがな。中条、前に乗れ。後ろが静かでいい」
「はあ・・・」
車を走らせてすぐ、猛烈な睡魔に襲われた。車内に流れる洋楽のバラードと、時々フワッと香る芳香剤の匂いが、リラックス効果を増大させる。
「雪音ちゃん、寝ていいわよ。今日は疲れたでしょ」
「大丈夫、眠くないです」とは言いつつ、シートにしっかりともたれ掛かる。
「いいから寝なさい。家に着いたら起こしてあげるから」
「・・・早坂さんが言ってた、時間は関係ないって、寝ないからってことだったんですね」
「ああ、財前さん?そうよ」
「生まれてから、ずっと寝てないってことですよね」
「そうね」
「・・・ていうか、財前さんて何歳なんですか?」
「んー、あたしらもそこは詳しく知らないんだけど、100年は生きてるわね」
「ひゃっ!?」思わず身体を起こす。「100年、ですか・・・」
「最初に会った時点で100を超えてたからな。実際はもっと行ってるんじゃないか」と、後ろの瀬野さん。
「若いと思ったら急に年取ってたり、不思議な人だ・・・」
「どうして、聞かなかったの?」
「何をですか?」
「見た目のこともだけど、財前さんに聞きたいことはあるかって言われた時、あなた、無いって言ってたじゃない」
「ああ・・・」あの時は、本当にそう思った。「実際、聞いても理解出来なかったと思うし、だったら無理にわかろうとしなくていいかなって。財前さんがどんな人でも関係ないって思ったんです。あ、投げやりって意味ではないですよ」
早坂さんは前を見ながら、わたしの頭に手を置いた。「わかってるわよ」──大きい手が、帽子みたい。
「おいセクハラ野郎」瀬野さんが、座席の間から顔を出した。「なんでこんなにノロノロ運転なんだ」
「雪音ちゃん乗せてるんだから、安全第一よ!そしてセクハラはやめてちょうだい!」
「にしたって、遅すぎるだろう。もっと飛ばせ、眠くなる」
「あんたは少々の事じゃ死にはしないだろうけど、彼女こんなに小さいのよ。石にぶつかっただけで死んじゃうわ」
まず、車のメーターは普通に80キロを超えている。そしてわたしも日本成人女性の平均身長を超えている。そして石にぶつかっただけでは死なない。
まあ、この2人の基準はアテにならないということだ。
「2人とも大きいですよね。身長何センチですか?」
すぐに答えが返ってこなかった。「さあ?何センチかしら」
「俺も知らん」
「・・・自分の身長、わからない事ってあるんですか」
「学生以来、測った記憶がないわ。覚えてる限りでは180だったかしら」
「俺もそんな感じだ」
この2人の、普段の生活が見てみたい。「いや、もっと大きいと思いますよ」
「そうかしら。雪音ちゃんは?」
「167です」
「あらん、おチビちゃんね」
子供の頃から、常に平均身長を上回ってきた。今日は、おチビちゃんと言われる最初で最後の記念日に認定した。
「・・・あの、1つ聞いてもいいですか?」
「どーぞ?」
財前さんは言った、自分を殺す覚悟を持ってほしいと。わたしなら、それが出来る、そうしなければならないと。
「どうして、わたしを財前さんに会わせたんですか?」
「雪音ちゃん、勘違いしてほしくないんだけど、財前さんがあなたにあんな事を言うなんて、思ってなかったのよ」車のスピードが、少し落ちた。「あなたを連れて行ったのは、正直、それが1番手っ取り早いと思ったからなの」わたしの反応を見ながら、早坂さんが続けた。「世の中には、あたし達のように奴らが見える人間はたくさんいるわ。でも、奴らに対処できる人間はそういない」
「わたしは、出来る・・・と」窓の外を見ながら言った。
「そうよ」
「その基準って、なんですか」
「能力的な事もだけど、何より大事なのは精神力ね。財前さんを前にして、あなたは怖気付かなかった」
「・・・怖かったですよ」最初に目が合った時、本当は逃げ出したかった。
「それでも、十分堂々としてたわ。財前さんは、あなたのような人を求めてるの。どんな妖怪にも怖気付かず、立ち向かえる人を」
「それは・・・財前さんに対してもってことですか」
車が減速し、早坂さんは車を道路脇に停車させた。シートベルトを外し、わたしに身体を向ける。
「雪音ちゃん、ごめんなさい。あなたを財前さんに会わせたのは、あたしのわがままでもあるの。──あたし達は、あの人を救いたい。でも、本人は少し諦めかけてるというかね・・・自分を制御出来なくなるのを、何より恐れてるのよ。でもね、あなたに会って思ったの。この子なら、財前さんを救えるんじゃないかって。救おうとしてくれるんじゃないかって」
「・・・どうしてですか?」
早坂さんの笑顔は、いつもより控えめだ。「なんでかしらね。あなたの言う、本能っていうやつなのかしら。事実、あんなに笑った財前さんは久しぶりに見たもの」早坂さん手が、わたしの頬にソッと触れた。「雪音ちゃん、何の説明もせずに連れてってごめんなさい。あなたには、酷かもしれない・・・でも、あたし達と一緒に財前さんを救ってほしい」その目は真剣で、逸らすことが出来ない。「協力してくれる?」
「・・・わたしは言いました。財前さんを助けたいって」
早坂さんは、ニッコリと微笑んだ。そしてもう片方の手でわたしの顔を包む。「ありがとう」
「・・・おい」
「ギャ──!!」
「キャ──!!」
「俺がいること、忘れてるだろう」
──正直、忘れていた。
「話が済んだら早く出せ」
「はいはい」早坂さんはゆっくりと車を発進させた。
家の前で車を降りたわたしを、早坂さんが運転席から呼び止めた。
「あなたの事は、何があってもあたしが守るわ」
「・・・あい」
安心させるために言ってくれたんだろうけど──内心、本当に安心してる自分がいた。
脳がパンク寸前で、思考が完全に停止している。その日は、帰ってすぐ眠りについた。