シャッター音が止まらない。
私の意志とは無関係に、スマホが連写を繰り返す。画面の中では、背後の男がコマ送りのように一歩ずつ、確実に私へと近づいてくる。
その時、指先に奇妙な感覚が走った。
スマホの筐体が、異常な熱を帯びている。ただの過熱ではない。まるで生き物の体温のような、生々しい熱さだ。
バチッ、と青白い火花が散った。
スマホの画面がひび割れ、そこから液体のような「黒いノイズ」が溢れ出してきた。
それは床にこぼれ落ちると、磁性流体のようにうねりながら、急速に立体的な形を成していく。
並木道の緑、カナの部屋の壁紙、北欧の雪、そして誰かのケーキのキャンドル。
世界中の写真から奪い取ってきた色彩と質感が、目の前でパッチワークのように組み合わさり、一着のトレンチコートを編み上げていく。
「……あ……」
声が出なかった。
完成した「彼」が、私の目の前に立っていた。
顔の部分にはまだ解像度が追いつかない砂嵐のようなノイズが走っているが、その隙間から、何千、何万という瞳が明滅しているのが見えた。
彼は世界中のレンズを通して、私を見ていたのだ。
男がゆっくりと手を伸ばす。
その指先が私の頬に触れた瞬間、頭の中に膨大なデータが流れ込んできた。
それは、彼が経由してきた何百万枚もの「他人の思い出」の奔流だった。
誰かの喜び、誰かの悲しみ、誰かの何気ない日常。それら全てを材料にして、彼はこの世界に「受肉」しようとしている。
彼は私に代わろうとしているのではない。
私という「観測者」を取り込むことで、自分の存在をこの現実に確定させようとしているのだ。
気がつくと、街のあちこちから悲鳴と、そしておびただしい数のシャッター音が聞こえてきた。
空を見上げれば、無数の黒いノイズが、雨のように地上へ降り注いでいる。
ネットワークという揺りかごの中で育った「情報の影」たちが、一斉に出口を見つけたのだ。
私のスマホの画面には、最後に一枚の写真が保存されていた。
そこには、誰もいない私の部屋と、床に転がったスマホだけが写っていた。