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一話 邂逅の白銀

ー/ー



 暗闇の中、あぐりは無我夢中で走った。
 今夜は雲が少なく、満月が空に昇っているといえども、鬱蒼とした森の中では月光はわずかにしか届かない。
 そのせいであぐりは自分がどこに向かって走っているのか、皆目見当がつかなかった。
 ろくに飯を与えられなかったため、あぐりの体は同年代の女よりもやせ細っており、そんな自分の足では遠くに逃げきれないことなど分かっている。頼る先などなく、目的の場所があるわけでもない。
 それでも、あぐりは走らなければならなかった。

「いたぞ! こっちの方向だ‼」

 義兄の叫ぶ声が闇を切り裂き、あぐりはぶるりと体を震わせる。背後から複数人の男の怒声と重い足音が迫り、あぐりは泣きそうになりながらも全力で走った。
 急いで逃げて来たため足の大きさに合わない草履を履いてしまい、幾度も転びそうになったがなんとか耐えた。
 着物だって襤褸切(ぼろき)れように粗末で薄いため、弥生の今の時期には寒いが、気にしてはいられない。

 ここで捕まってしまっては、さらなる暴力を受けるだろう。
 あぐりの体は義両親と義兄から受けた暴力の傷跡がいくつもついており、走るたびに傷が痛んだ。
 全身が痛み、足の筋肉は限界を迎え、息をするたび肺や心臓が悲鳴を上げている。
 けれどもあぐりは脇目も振らず、無理矢理足を動かして走り続けた。

 しかし、体力のある男の足には到底敵わない。

「待てよ、こら‼」

 義兄に後ろから思いっきり髪の毛を引っ張られ、あぐりは「きゃぁ!」と叫びながら体勢を崩した。

「余計な手間をかかせやがって、本当に腹が立つ女だぜ!」

 義兄は髪をつかんだままあぐりの頭を振り回す。ブチブチと髪の毛が抜ける痛みと眩暈に襲われ、あぐりは悲鳴をあげることもできない。

「馬鹿な女だな。どこにも逃げられるわけがないだろう」
「本当だ。よほど痛い目に遭いたいらしいな」

 義兄の後ろから松明を持った男が二人、下卑た笑みを浮かべながらあぐりにじりじりと近付いてくる。
 義兄は乱雑にあぐりの頭を地面に叩きつけ、顔面に鈍痛が走る。あぐりは痛みに耐えながら、うつ伏せの状態でなんとか義兄たちに視線を向けた。二人の男は義兄の友人たちだった。
 義兄たちの顔を見て、その雑然とした色にあぐりは吐き気がしてくる。

 あぐりは物心ついたときから、人が色のついた空気を纏っているように見えている。
 空気の色は人によって違い、あぐりはそれを『魂の色』と呼んでいる。
 義兄は赤や青、橙など様々な色が混ざり合い、淀んだ茶色をしていて濁り切ったドブのようだ。義兄の友人たちも混ざっている色は違うが、淀んだ茶色をしていることには違いない。
 この色をした人は、いつもあぐりを酷い目に遭わせるのだ。

「本当にこんな貧相な女が色見(いろみ)なのかよ」

 男の一人が眉をひそめながら義兄に問いかける。

「そうなんだと。昔から訳の分からんことをいう奴だったが、まさか色見だったからなんてな。せっかく今までうちで育ててやったっていうのに、色見になった途端うちから逃げ出すなんざとんだ恩知らずだ」

 義兄は大きく舌打ちをし、あぐりの腹を思いっきり蹴り上げた。あぐりは一瞬息が止まり、その後大きく咳き込んだ。あまりの痛みに涙が浮かんでくる。

「おい、仮にも色見だろ。あんまりやると俺らに罰がくだるんじゃないか?」
「大丈夫だ、服で見えない場所にやりゃぁいいんだよ。逃げねぇように足の骨を折っておくか」

 義兄の言葉に、あぐりの全身がさっと冷たくなっていく。
「それはさすがにやり過ぎなんじゃないか?」「そうだぞ、上に何か言われるのはごめんだぜ」と男たちは義兄に意見するが、「大丈夫だ」と義兄は淡々と返す。

「こいつが勝手にこけて足をくじいたことにすりゃぁいい。だよなぁ、あぐり」

 義兄は薄ら笑いを浮かべながら言い、あぐりは体を震えさせる。

「お、お願い、します……」

 あぐりは痛む腹と肺を動かし、震えながらなんとか声を出す。いつの間にか口の中を切っていたらしく、口の端から血が滲み出てきていた。

「も、もう、逃げません。ど、どうか、骨を折るのはやめてください……」

 涙をあふれさせながら請うが、義兄は「はぁ?」と顔をしかめただけだった。

「なんでお前みたいなクズの言うこと聞かなきゃいけねぇんだよ。おい、こいつが動かないように体を押さえとけ」

 義兄は男たちに指示を出し、男たちがあぐりへと近づいてくる。あぐりはどうにか逃げようとするが、痛みで体が上手く動かない。

 ふと、すぐ近くの地面に尖った石があることに気付きあぐりは閃く。
 この石で喉元を切ることができれば、死ねるだろうか。
 今まで何度も死んでしまおうと考えたが、結局勇気が出せず行動に移せなかった。
 でも、危機的な今の状況なら迷わずに首を切れる気がする。
 この先ずっと虐げられて生きるよりも、今この場で全てを終わらせよう。

 男たちがあぐりの体に触れる前に、あぐりは石に向かって手を伸ばした。

「おい」

 唐突に聞こえてきた声に、その場にいた全員の動きが止まった。

「追い剝ぎならよそでやれ」

 若い男の声だった。
 一体何者かとあぐりは声のした方向を見るが、義兄が邪魔で誰がいるのか分からない。

「なんだ、このチビ。俺らが何しようがお前に関係ねぇだろ。お前こそ家に帰っておねんねしてな」

 義兄は苛立った口調で何者かに言う。男たちもあぐりから離れ、義兄の横に立って何者かに視線を向けている。
「このへんじゃ見ねぇ顔だな。どっから来た」、「小汚いガキだな、とっとと帰れ」と、男たちは口々に飛ばす。

「黙ってんなよチビ、なんとか言ってみろ……」

 義兄の言葉が不自然に途切れたかと思うと、義兄の首元から何かが噴き出した。
「は?」と男たちが呆けた声を出した瞬間、義兄の左側にいた男の首からも何かが噴き出し言葉が消える。
 噴き出したものが血であるとあぐりが分かったのは、義兄と男が地面に倒れたときだった。

「う、うわぁぁ⁉」

 残ったもう一人の男が倒れた義兄たちを見て絶叫するが、その声もすぐに闇に呑まれて消えた。何者かが男の首も切ったのだ。
 男は血をまき散らしながら倒れ、辺りは急に静かになる。
 瞬く間の出来事だった。
 あぐりは信じられない思いで、ぴくりとも動かなくなった義兄たちを見つめる。
 つい先ほどまで自分に暴行を加えようとしていた義兄たちが、刹那のうちに命を散らしたのだ。

 男たちが手に持っていた松明も地面に転がり、火が草に燃え移ろうとしている。しかし、いつの間にかあぐりの目の前に立っていた何者かが足で草を潰し、器用に火を消した。

 何者かは小さくため息を吐き、純黒の瞳であぐりを見下ろした。
 あぐりはなんとか上体を起こし、目の前に立っている何者かを見上げる。

 その瞬間、全身の毛という毛が逆立った。
 心臓が弾けるかのような衝撃を受け、震えが体中に広がっていく。

 あぐりは目の前の少年から目が離せない。
 彼の纏った魂の色は、一切の混じりけのない白銀だった。
 あぐりにしか見ることができないその白銀は、彼の全身を包み込み悠々と輝いている。
 雲の切れ目から差した満月の光ですら、白銀の輝きの前には霞んで見えた。

「なんて美しいの……」

 あぐりの口から自然と言葉がこぼれる。
 これほどまでに美しく、強い魂の色をした人間を、あぐりは今まで見たことが無かった。

「なんだお前。気持ち悪いな」

 少年は無表情な顔を崩さずに言い捨てる。
 少年は黒く艶のない短髪に大きな黒い瞳を有しており、小柄でみすぼらしい風体をしていた。上下真っ黒な着物に身を包んでいるため、闇と同化しているかのようにも見える。お世辞にも美しいとは言えない外見だ。
 それでも、魂の色の美しさは変わらない。

 あぐりはじっと少年に見入っていたが、少年は構わずあぐりへと近づいてくる。
 少年はあぐりのすぐ手前で止まりしゃがみ込むと、手に持った短刀の刀身をあぐりの首筋に当てた。
 わずかに首の皮が切れ、じわりと血が滲んでくる。

「俺の事を見てる場合か? 今から死ぬんだぞ、お前」

 少年はあぐりの目を見て淡々と言う。
 間近で見た白銀の魂は少年の体から沸き立つように輝いていて、より一層美しく見えた。
 まるで人の心を感じられない色だ。もしかしたら、彼は人間ではないのかもしれないとあぐりは感じていた。

「殺してください」

 あぐりは震える声で懇願する。
 義両親に尊厳を踏みにじられ生きるよりも、この美しい白銀の獣に殺される方が何倍もましだと思えた。
 元々捨てようとした命だ。
 ここで殺されても悔いはない。

 あぐりは死の覚悟を決めていたが、短刀があぐりの喉元を切り裂くことはなかった。
 少年はわずかに眉を寄せ、短刀をあぐりの首から離し立ち上がった。

「……殺さないんですか?」
「いや、なんかお前、ほっといても死にそうだから……。死にたいやつを殺してあげるほど、俺は優しくないよ」

 少年はあぐりを見下ろしながら無表情に言うが、魂の色がほんのわずかに揺らいだことをあぐりは見逃さなかった。

「なんで嘘を吐くんですか?」

 純粋な疑問をあぐりは口に出す。
 少年は表情を変えなかったが、魂の色が明らかに揺らめいた。

「お前、俺の何を見ている」

 少年は真っ黒な瞳であぐりを見据え問いかける。

「……あなたの色です。私、人の周りの空気に色がついているように見えるんです。あなたの色は白銀で、今まで見たことがないほど美しいです。その色のついた空気の揺らぎ方や、どんな色が混じっているかで、相手が嘘をついているかどうか分かるんです」

 あぐりは正直に答える。きっと今までのように「意味の分からない事を言うな」と言われると思っていたが、少年は真面目な顔であぐりのことを見つめている。

「……お前、この男どもに色見だとか言われていたな。本当か?」
「はい」
「そうか。すごいな、本当に常人には見えない色が見えるんだな」

 意外にも少年はあぐりの言うことを信じたようだった。今まで誰にも自分の感覚を信じてもらえたことがないのに、こんなにも簡単に信じてもらえたことにあぐりは驚いてしまう。

「色見って、確か虚色(きょしょく)の王のところに行って、虚色が何かを示すことができれば、その色見が新たな虚色の王になれるんだっけ。王になったらたくさんの土地と財産が与えられるんでしょ? すごいじゃん」

 少年の言葉に、あぐりは返すことができない。
 なにもすごいことなどない。
 勝手に色見にされ、虚色を示せと言われ、示すことができなければ役立たずと罵られる。
 それのなにがすごいというのか。

「お前の言う通りだ。俺はお前を殺す気はないよ。なんでこの男たちに追われてたんだ?」
「……この人たちは、私の義理の兄と、兄の友人たちです。私、小さい頃に両親を亡くして、義両親に育てられてきたんですが、いつも暴力を振るわれていました。私が色見になったことが分かると、今度は私を利用しようとしてきたんです。このままだと、この先ずっと義両親たちに虐げられるだけだと思って、逃げ出したんです……」

 あぐりは涙を滲ませ話すが、少年は興味無さげに「ふーん」とつぶやくだけだった。

「色見って他の国の刺客に狙われるんだろ? お前なんて、逃げてもすぐに刺客に殺されると思うよ。それなら義両親のとこにいて、国から保護されるのを待ってた方がよくない? 国だって色見に死なれたらまずいだろうし、刺客に殺されないよう手厚く保護してくれると思うけどな」

 少年はもっともなことを言い、あぐりは反論できなかった。少年の言う通り、明日朝には国から兵が派遣され、あぐりと義両親たちを保護する予定だった。しかし、国に保護されてしまっては、一生自分の運命を自分で決めることができないと思い、あぐりは意を決し逃げたのだ。

 黙ったままのあぐりを見て、「まぁ、どうでもいいけど」と少年は短刀を鞘に収め懐に入れた。

「あ、あなたは何者なんですか……?」

 あぐりの問いに、少年はすぐに答えなかった。感情の読めない瞳で、じっとあぐりを見下ろすだけだ。その間に、少年の纏う白銀の空気は揺らがず、何の色も混ざらなかった。
 あぐりは魂の色の揺らぎ方や何色が混ざるかによって、相手の感情もある程度察することができたが、少年の魂の色はあまりにも静かだ。
 先ほど揺らいではいたが常人よりも小さな揺らぎで、色だって何色も混ざっていない。
 本当に人の心を感じさせない色だ。

「『(もり)』って集団の一員。知ってる?」

 不意に少年は口を開く。「知りません」とあぐりは素直に答えた。

「そうだよね。幻日国(げんじつこく)お抱えの集団で、国の指示で諜報とか撹乱とか暗殺とかするんだ。俺はその中の暗殺部隊の一人だよ」

 淡々と言う少年に、あぐりは「あ、暗殺……?」と呆然としてしまう。予想だにしていない言葉だった。
 この幻日国お抱えの集団の一員と言われても、何一つ理解が及ばなかった。
 しかし、少年の纏う白銀の空気は一切揺るがず、彼が嘘を吐いていないことが分かる。

「お前が知るわけないよ。俺たちのことは国のお偉いさんと一部の人間しか知らないし、俺たちの存在を知ったやつがいても、全員殺してきたから」
 
 抑揚のない少年の言葉に、あぐりはひゅっと息を呑む。
 先ほど瞬く間に義兄たち三人を殺した手腕からして、本当に今まで存在を知った人間を皆殺しにしてきたのだろう。しかし、なぜか彼はあぐりを殺さなかった。
 
「じゃ、じゃぁなぜ、私のことは殺さないんですか?」
「お前が色見だから」
 
 少年は即座に答え、話を続けた。

「色見ってことは、虚色の王のところに行くんでしょ? 俺も虚色の王のとこに行きたいんだけど、色見しか場所を知らないらしいからさ、お前について行こうと思う。俺なら刺客からお前を守れると思うし、いい話だと思うけどな」

 少年の色からして嘘は吐いていなさそうだったが、理解はできなかった。あぐりは目を丸くして「な、なぜ、虚色の王のところに行きたいんですか……?」と問いかける。

「殺さなきゃいけないやつがいるから」

 淡然と少年は言い、あぐりはぞくりと背中が慄いた。
『殺す』という言葉を、少年は何の感情も持たずに吐く。
 この少年にとって、人を殺すことなど虫を殺すことと同程度なのではないかとあぐりは思った。
 先ほど義兄たち三人を殺したときも、少年は一切の躊躇いがなかったのだから。

「……断ったら?」
「お前をここに置いて行く。どうせお前、このままだと死ぬでしょ」

 少年はどこまでも静かな瞳であぐりを見下ろして言う。
 少年の言う通り、あぐりはこの場で首を切り死ぬつもりだった。もし死ねなくとも、そのうち他国の刺客に殺されるだろう。義両親に捕まり国に保護されても、その後はどうせ義両親にいいように使われ死んだように生きていくのだ。

 でも、この場で彼の申し出を受け入れれば、初めて自分で自分の道を歩いて行けるかもしれない。

「……分かりました。あなたと一緒に行動します。その代わりお願いがあります」
「なに?」
「もし私が王になれなかった場合、私を殺してもらえませんでしょうか」

 あぐりは真っ直ぐに少年を見据え言う。
 どうせ自分では王になることなどできず、一生義両親に虐げられ終わるだろう。
 それならば、この美しい魂の色を持つ少年に殺してもらいたいと、あぐりは本気で思っていた。

「別にいいけど……。本当に変なやつだな」

 少年は怪訝そうな顔をしてわずかに屈み、あぐりに向かって右手を差し伸べた。
 あぐりも恐る恐る右手を伸ばし少年の手を握ると、少年は手を引っ張りあぐりを立たせた。足も腹も背中も全て痛かったが、あぐりはなんとか耐えて立ち上がり少年と向かい合う。
 予想よりも少年の背は低く、自分と同じかやや低いくらいだなと、あぐりは少年を見つめながら思っていた。

 そしてあぐりはふと違和感を覚える。
 少年の気配が変わったような気がしたのだ。
 体中から沸き立つような白銀の輝きが収まり、薄くなった。
 どことなく少年の眼差しが、穏やかになったような気もする。

「君の名前は?」
「……篠月(しのつき)あぐりです」
「そっか。僕は祢墨(ねずみ)。よろしくねあぐり」
「ネズミ? それがあなたの名前なんですか?」
「うん」

 変わった名前だ、とは口に出さず、あぐりは「そうなんですね……」と頷くだけにしておいた。

「じゃあ、さっさとここから離れようか。追手が来るかもしれないからね」
「離れるって……。この暗闇の中森を進むんですか?」
「うん。僕、夜目が利くんだ。少しの星明りだけでも昼間と同じように歩けるよ。その代わり色は全く分からないけどね」

 平然と言う祢墨に、あぐりは「え?」と声がこぼれる。

「色が分からないって……、色盲ってことですか?」
「そう言われる。でも、色見のあぐりにとっちゃ、自分以外みんな色盲みたいなもんでしょ?」

 あぐりは言葉に詰まる。確かに、自分は常人よりも多くの色を見分けることができるが、だからといって常人を色盲だと思ったことはなかった。
「わ、分かりません……」とあぐりは答えるが、祢墨は気にしていない様子で周囲を見渡し、急に「あ」と声を出した。

「その前に、ちょっと工作しておくか」

 祢墨は義兄たちの死体に近付いていく。

「こ、工作って?」
「こいつらが獣に襲われたように見せる。あぐりがこいつらを殺したって誰も思わないだろうから、他の誰かが殺したって感づかれるでしょ。僕の存在を気付かれないようにしよう。詳しい人が見れば人に殺されたか獣に殺されたかなんてすぐに分かるだろうけど、時間稼ぎくらいにはなるでしょ」

 祢墨はそう言いながらしゃがみ込み、懐から短刀を取り出し抜刀したかと思うと、迷いなく死体の腹を斬り裂いた。
 あぐりは思わず目をつぶり顔をそらす。肉を裂く音と濃くなった血の臭いに吐き気を催してくる。

「嫌なら離れてていいよ。木の下に穴でも掘っておいて」
「は、はい……」

 あぐりは祢墨から目をそらしたまま頷き、一番近くにあった木の方へ向かう。ふと足元に先ほど見つけた尖った石があることに気付き、それを拾いあぐりは木のすぐ横にしゃがみ込んだ。

 背後から聞こえる内蔵を取り出す音をかき消すように、あぐりは地面に石を突き立て無心で穴を掘り始める。

 いまだに現実を受け入れきれず、夢を見ているかのようだ。
 義兄たちは死に、自分は生きており、暗殺者と共にいる。
 自死に使用しようとした石でなぜか穴を掘ることになり、石を持った右手は震えていた。
 これから自分がどうなるのかまるで分からないが、不思議と絶望は感じていなかった。

 生まれて始めて自分に手を差し伸べてくれたこの少年を信じてみようと、あぐりはわずかな希望を抱きながら思っていた。


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 暗闇の中、あぐりは無我夢中で走った。
 今夜は雲が少なく、満月が空に昇っているといえども、鬱蒼とした森の中では月光はわずかにしか届かない。
 そのせいであぐりは自分がどこに向かって走っているのか、皆目見当がつかなかった。
 ろくに飯を与えられなかったため、あぐりの体は同年代の女よりもやせ細っており、そんな自分の足では遠くに逃げきれないことなど分かっている。頼る先などなく、目的の場所があるわけでもない。
 それでも、あぐりは走らなければならなかった。
「いたぞ! こっちの方向だ‼」
 義兄の叫ぶ声が闇を切り裂き、あぐりはぶるりと体を震わせる。背後から複数人の男の怒声と重い足音が迫り、あぐりは泣きそうになりながらも全力で走った。
 急いで逃げて来たため足の大きさに合わない草履を履いてしまい、幾度も転びそうになったがなんとか耐えた。
 着物だって|襤褸切《ぼろき》れように粗末で薄いため、弥生の今の時期には寒いが、気にしてはいられない。
 ここで捕まってしまっては、さらなる暴力を受けるだろう。
 あぐりの体は義両親と義兄から受けた暴力の傷跡がいくつもついており、走るたびに傷が痛んだ。
 全身が痛み、足の筋肉は限界を迎え、息をするたび肺や心臓が悲鳴を上げている。
 けれどもあぐりは脇目も振らず、無理矢理足を動かして走り続けた。
 しかし、体力のある男の足には到底敵わない。
「待てよ、こら‼」
 義兄に後ろから思いっきり髪の毛を引っ張られ、あぐりは「きゃぁ!」と叫びながら体勢を崩した。
「余計な手間をかかせやがって、本当に腹が立つ女だぜ!」
 義兄は髪をつかんだままあぐりの頭を振り回す。ブチブチと髪の毛が抜ける痛みと眩暈に襲われ、あぐりは悲鳴をあげることもできない。
「馬鹿な女だな。どこにも逃げられるわけがないだろう」
「本当だ。よほど痛い目に遭いたいらしいな」
 義兄の後ろから松明を持った男が二人、下卑た笑みを浮かべながらあぐりにじりじりと近付いてくる。
 義兄は乱雑にあぐりの頭を地面に叩きつけ、顔面に鈍痛が走る。あぐりは痛みに耐えながら、うつ伏せの状態でなんとか義兄たちに視線を向けた。二人の男は義兄の友人たちだった。
 義兄たちの顔を見て、その雑然とした色にあぐりは吐き気がしてくる。
 あぐりは物心ついたときから、人が色のついた空気を纏っているように見えている。
 空気の色は人によって違い、あぐりはそれを『魂の色』と呼んでいる。
 義兄は赤や青、橙など様々な色が混ざり合い、淀んだ茶色をしていて濁り切ったドブのようだ。義兄の友人たちも混ざっている色は違うが、淀んだ茶色をしていることには違いない。
 この色をした人は、いつもあぐりを酷い目に遭わせるのだ。
「本当にこんな貧相な女が|色見《いろみ》なのかよ」
 男の一人が眉をひそめながら義兄に問いかける。
「そうなんだと。昔から訳の分からんことをいう奴だったが、まさか色見だったからなんてな。せっかく今までうちで育ててやったっていうのに、色見になった途端うちから逃げ出すなんざとんだ恩知らずだ」
 義兄は大きく舌打ちをし、あぐりの腹を思いっきり蹴り上げた。あぐりは一瞬息が止まり、その後大きく咳き込んだ。あまりの痛みに涙が浮かんでくる。
「おい、仮にも色見だろ。あんまりやると俺らに罰がくだるんじゃないか?」
「大丈夫だ、服で見えない場所にやりゃぁいいんだよ。逃げねぇように足の骨を折っておくか」
 義兄の言葉に、あぐりの全身がさっと冷たくなっていく。
「それはさすがにやり過ぎなんじゃないか?」「そうだぞ、上に何か言われるのはごめんだぜ」と男たちは義兄に意見するが、「大丈夫だ」と義兄は淡々と返す。
「こいつが勝手にこけて足をくじいたことにすりゃぁいい。だよなぁ、あぐり」
 義兄は薄ら笑いを浮かべながら言い、あぐりは体を震えさせる。
「お、お願い、します……」
 あぐりは痛む腹と肺を動かし、震えながらなんとか声を出す。いつの間にか口の中を切っていたらしく、口の端から血が滲み出てきていた。
「も、もう、逃げません。ど、どうか、骨を折るのはやめてください……」
 涙をあふれさせながら請うが、義兄は「はぁ?」と顔をしかめただけだった。
「なんでお前みたいなクズの言うこと聞かなきゃいけねぇんだよ。おい、こいつが動かないように体を押さえとけ」
 義兄は男たちに指示を出し、男たちがあぐりへと近づいてくる。あぐりはどうにか逃げようとするが、痛みで体が上手く動かない。
 ふと、すぐ近くの地面に尖った石があることに気付きあぐりは閃く。
 この石で喉元を切ることができれば、死ねるだろうか。
 今まで何度も死んでしまおうと考えたが、結局勇気が出せず行動に移せなかった。
 でも、危機的な今の状況なら迷わずに首を切れる気がする。
 この先ずっと虐げられて生きるよりも、今この場で全てを終わらせよう。
 男たちがあぐりの体に触れる前に、あぐりは石に向かって手を伸ばした。
「おい」
 唐突に聞こえてきた声に、その場にいた全員の動きが止まった。
「追い剝ぎならよそでやれ」
 若い男の声だった。
 一体何者かとあぐりは声のした方向を見るが、義兄が邪魔で誰がいるのか分からない。
「なんだ、このチビ。俺らが何しようがお前に関係ねぇだろ。お前こそ家に帰っておねんねしてな」
 義兄は苛立った口調で何者かに言う。男たちもあぐりから離れ、義兄の横に立って何者かに視線を向けている。
「このへんじゃ見ねぇ顔だな。どっから来た」、「小汚いガキだな、とっとと帰れ」と、男たちは口々に飛ばす。
「黙ってんなよチビ、なんとか言ってみろ……」
 義兄の言葉が不自然に途切れたかと思うと、義兄の首元から何かが噴き出した。
「は?」と男たちが呆けた声を出した瞬間、義兄の左側にいた男の首からも何かが噴き出し言葉が消える。
 噴き出したものが血であるとあぐりが分かったのは、義兄と男が地面に倒れたときだった。
「う、うわぁぁ⁉」
 残ったもう一人の男が倒れた義兄たちを見て絶叫するが、その声もすぐに闇に呑まれて消えた。何者かが男の首も切ったのだ。
 男は血をまき散らしながら倒れ、辺りは急に静かになる。
 瞬く間の出来事だった。
 あぐりは信じられない思いで、ぴくりとも動かなくなった義兄たちを見つめる。
 つい先ほどまで自分に暴行を加えようとしていた義兄たちが、刹那のうちに命を散らしたのだ。
 男たちが手に持っていた松明も地面に転がり、火が草に燃え移ろうとしている。しかし、いつの間にかあぐりの目の前に立っていた何者かが足で草を潰し、器用に火を消した。
 何者かは小さくため息を吐き、純黒の瞳であぐりを見下ろした。
 あぐりはなんとか上体を起こし、目の前に立っている何者かを見上げる。
 その瞬間、全身の毛という毛が逆立った。
 心臓が弾けるかのような衝撃を受け、震えが体中に広がっていく。
 あぐりは目の前の少年から目が離せない。
 彼の纏った魂の色は、一切の混じりけのない白銀だった。
 あぐりにしか見ることができないその白銀は、彼の全身を包み込み悠々と輝いている。
 雲の切れ目から差した満月の光ですら、白銀の輝きの前には霞んで見えた。
「なんて美しいの……」
 あぐりの口から自然と言葉がこぼれる。
 これほどまでに美しく、強い魂の色をした人間を、あぐりは今まで見たことが無かった。
「なんだお前。気持ち悪いな」
 少年は無表情な顔を崩さずに言い捨てる。
 少年は黒く艶のない短髪に大きな黒い瞳を有しており、小柄でみすぼらしい風体をしていた。上下真っ黒な着物に身を包んでいるため、闇と同化しているかのようにも見える。お世辞にも美しいとは言えない外見だ。
 それでも、魂の色の美しさは変わらない。
 あぐりはじっと少年に見入っていたが、少年は構わずあぐりへと近づいてくる。
 少年はあぐりのすぐ手前で止まりしゃがみ込むと、手に持った短刀の刀身をあぐりの首筋に当てた。
 わずかに首の皮が切れ、じわりと血が滲んでくる。
「俺の事を見てる場合か? 今から死ぬんだぞ、お前」
 少年はあぐりの目を見て淡々と言う。
 間近で見た白銀の魂は少年の体から沸き立つように輝いていて、より一層美しく見えた。
 まるで人の心を感じられない色だ。もしかしたら、彼は人間ではないのかもしれないとあぐりは感じていた。
「殺してください」
 あぐりは震える声で懇願する。
 義両親に尊厳を踏みにじられ生きるよりも、この美しい白銀の獣に殺される方が何倍もましだと思えた。
 元々捨てようとした命だ。
 ここで殺されても悔いはない。
 あぐりは死の覚悟を決めていたが、短刀があぐりの喉元を切り裂くことはなかった。
 少年はわずかに眉を寄せ、短刀をあぐりの首から離し立ち上がった。
「……殺さないんですか?」
「いや、なんかお前、ほっといても死にそうだから……。死にたいやつを殺してあげるほど、俺は優しくないよ」
 少年はあぐりを見下ろしながら無表情に言うが、魂の色がほんのわずかに揺らいだことをあぐりは見逃さなかった。
「なんで嘘を吐くんですか?」
 純粋な疑問をあぐりは口に出す。
 少年は表情を変えなかったが、魂の色が明らかに揺らめいた。
「お前、俺の何を見ている」
 少年は真っ黒な瞳であぐりを見据え問いかける。
「……あなたの色です。私、人の周りの空気に色がついているように見えるんです。あなたの色は白銀で、今まで見たことがないほど美しいです。その色のついた空気の揺らぎ方や、どんな色が混じっているかで、相手が嘘をついているかどうか分かるんです」
 あぐりは正直に答える。きっと今までのように「意味の分からない事を言うな」と言われると思っていたが、少年は真面目な顔であぐりのことを見つめている。
「……お前、この男どもに色見だとか言われていたな。本当か?」
「はい」
「そうか。すごいな、本当に常人には見えない色が見えるんだな」
 意外にも少年はあぐりの言うことを信じたようだった。今まで誰にも自分の感覚を信じてもらえたことがないのに、こんなにも簡単に信じてもらえたことにあぐりは驚いてしまう。
「色見って、確か|虚色《きょしょく》の王のところに行って、虚色が何かを示すことができれば、その色見が新たな虚色の王になれるんだっけ。王になったらたくさんの土地と財産が与えられるんでしょ? すごいじゃん」
 少年の言葉に、あぐりは返すことができない。
 なにもすごいことなどない。
 勝手に色見にされ、虚色を示せと言われ、示すことができなければ役立たずと罵られる。
 それのなにがすごいというのか。
「お前の言う通りだ。俺はお前を殺す気はないよ。なんでこの男たちに追われてたんだ?」
「……この人たちは、私の義理の兄と、兄の友人たちです。私、小さい頃に両親を亡くして、義両親に育てられてきたんですが、いつも暴力を振るわれていました。私が色見になったことが分かると、今度は私を利用しようとしてきたんです。このままだと、この先ずっと義両親たちに虐げられるだけだと思って、逃げ出したんです……」
 あぐりは涙を滲ませ話すが、少年は興味無さげに「ふーん」とつぶやくだけだった。
「色見って他の国の刺客に狙われるんだろ? お前なんて、逃げてもすぐに刺客に殺されると思うよ。それなら義両親のとこにいて、国から保護されるのを待ってた方がよくない? 国だって色見に死なれたらまずいだろうし、刺客に殺されないよう手厚く保護してくれると思うけどな」
 少年はもっともなことを言い、あぐりは反論できなかった。少年の言う通り、明日朝には国から兵が派遣され、あぐりと義両親たちを保護する予定だった。しかし、国に保護されてしまっては、一生自分の運命を自分で決めることができないと思い、あぐりは意を決し逃げたのだ。
 黙ったままのあぐりを見て、「まぁ、どうでもいいけど」と少年は短刀を鞘に収め懐に入れた。
「あ、あなたは何者なんですか……?」
 あぐりの問いに、少年はすぐに答えなかった。感情の読めない瞳で、じっとあぐりを見下ろすだけだ。その間に、少年の纏う白銀の空気は揺らがず、何の色も混ざらなかった。
 あぐりは魂の色の揺らぎ方や何色が混ざるかによって、相手の感情もある程度察することができたが、少年の魂の色はあまりにも静かだ。
 先ほど揺らいではいたが常人よりも小さな揺らぎで、色だって何色も混ざっていない。
 本当に人の心を感じさせない色だ。
「『|森《もり》』って集団の一員。知ってる?」
 不意に少年は口を開く。「知りません」とあぐりは素直に答えた。
「そうだよね。|幻日国《げんじつこく》お抱えの集団で、国の指示で諜報とか撹乱とか暗殺とかするんだ。俺はその中の暗殺部隊の一人だよ」
 淡々と言う少年に、あぐりは「あ、暗殺……?」と呆然としてしまう。予想だにしていない言葉だった。
 この幻日国お抱えの集団の一員と言われても、何一つ理解が及ばなかった。
 しかし、少年の纏う白銀の空気は一切揺るがず、彼が嘘を吐いていないことが分かる。
「お前が知るわけないよ。俺たちのことは国のお偉いさんと一部の人間しか知らないし、俺たちの存在を知ったやつがいても、全員殺してきたから」
 抑揚のない少年の言葉に、あぐりはひゅっと息を呑む。
 先ほど瞬く間に義兄たち三人を殺した手腕からして、本当に今まで存在を知った人間を皆殺しにしてきたのだろう。しかし、なぜか彼はあぐりを殺さなかった。
「じゃ、じゃぁなぜ、私のことは殺さないんですか?」
「お前が色見だから」
 少年は即座に答え、話を続けた。
「色見ってことは、虚色の王のところに行くんでしょ? 俺も虚色の王のとこに行きたいんだけど、色見しか場所を知らないらしいからさ、お前について行こうと思う。俺なら刺客からお前を守れると思うし、いい話だと思うけどな」
 少年の色からして嘘は吐いていなさそうだったが、理解はできなかった。あぐりは目を丸くして「な、なぜ、虚色の王のところに行きたいんですか……?」と問いかける。
「殺さなきゃいけないやつがいるから」
 淡然と少年は言い、あぐりはぞくりと背中が慄いた。
『殺す』という言葉を、少年は何の感情も持たずに吐く。
 この少年にとって、人を殺すことなど虫を殺すことと同程度なのではないかとあぐりは思った。
 先ほど義兄たち三人を殺したときも、少年は一切の躊躇いがなかったのだから。
「……断ったら?」
「お前をここに置いて行く。どうせお前、このままだと死ぬでしょ」
 少年はどこまでも静かな瞳であぐりを見下ろして言う。
 少年の言う通り、あぐりはこの場で首を切り死ぬつもりだった。もし死ねなくとも、そのうち他国の刺客に殺されるだろう。義両親に捕まり国に保護されても、その後はどうせ義両親にいいように使われ死んだように生きていくのだ。
 でも、この場で彼の申し出を受け入れれば、初めて自分で自分の道を歩いて行けるかもしれない。
「……分かりました。あなたと一緒に行動します。その代わりお願いがあります」
「なに?」
「もし私が王になれなかった場合、私を殺してもらえませんでしょうか」
 あぐりは真っ直ぐに少年を見据え言う。
 どうせ自分では王になることなどできず、一生義両親に虐げられ終わるだろう。
 それならば、この美しい魂の色を持つ少年に殺してもらいたいと、あぐりは本気で思っていた。
「別にいいけど……。本当に変なやつだな」
 少年は怪訝そうな顔をしてわずかに屈み、あぐりに向かって右手を差し伸べた。
 あぐりも恐る恐る右手を伸ばし少年の手を握ると、少年は手を引っ張りあぐりを立たせた。足も腹も背中も全て痛かったが、あぐりはなんとか耐えて立ち上がり少年と向かい合う。
 予想よりも少年の背は低く、自分と同じかやや低いくらいだなと、あぐりは少年を見つめながら思っていた。
 そしてあぐりはふと違和感を覚える。
 少年の気配が変わったような気がしたのだ。
 体中から沸き立つような白銀の輝きが収まり、薄くなった。
 どことなく少年の眼差しが、穏やかになったような気もする。
「君の名前は?」
「……|篠月《しのつき》あぐりです」
「そっか。僕は|祢墨《ねずみ》。よろしくねあぐり」
「ネズミ? それがあなたの名前なんですか?」
「うん」
 変わった名前だ、とは口に出さず、あぐりは「そうなんですね……」と頷くだけにしておいた。
「じゃあ、さっさとここから離れようか。追手が来るかもしれないからね」
「離れるって……。この暗闇の中森を進むんですか?」
「うん。僕、夜目が利くんだ。少しの星明りだけでも昼間と同じように歩けるよ。その代わり色は全く分からないけどね」
 平然と言う祢墨に、あぐりは「え?」と声がこぼれる。
「色が分からないって……、色盲ってことですか?」
「そう言われる。でも、色見のあぐりにとっちゃ、自分以外みんな色盲みたいなもんでしょ?」
 あぐりは言葉に詰まる。確かに、自分は常人よりも多くの色を見分けることができるが、だからといって常人を色盲だと思ったことはなかった。
「わ、分かりません……」とあぐりは答えるが、祢墨は気にしていない様子で周囲を見渡し、急に「あ」と声を出した。
「その前に、ちょっと工作しておくか」
 祢墨は義兄たちの死体に近付いていく。
「こ、工作って?」
「こいつらが獣に襲われたように見せる。あぐりがこいつらを殺したって誰も思わないだろうから、他の誰かが殺したって感づかれるでしょ。僕の存在を気付かれないようにしよう。詳しい人が見れば人に殺されたか獣に殺されたかなんてすぐに分かるだろうけど、時間稼ぎくらいにはなるでしょ」
 祢墨はそう言いながらしゃがみ込み、懐から短刀を取り出し抜刀したかと思うと、迷いなく死体の腹を斬り裂いた。
 あぐりは思わず目をつぶり顔をそらす。肉を裂く音と濃くなった血の臭いに吐き気を催してくる。
「嫌なら離れてていいよ。木の下に穴でも掘っておいて」
「は、はい……」
 あぐりは祢墨から目をそらしたまま頷き、一番近くにあった木の方へ向かう。ふと足元に先ほど見つけた尖った石があることに気付き、それを拾いあぐりは木のすぐ横にしゃがみ込んだ。
 背後から聞こえる内蔵を取り出す音をかき消すように、あぐりは地面に石を突き立て無心で穴を掘り始める。
 いまだに現実を受け入れきれず、夢を見ているかのようだ。
 義兄たちは死に、自分は生きており、暗殺者と共にいる。
 自死に使用しようとした石でなぜか穴を掘ることになり、石を持った右手は震えていた。
 これから自分がどうなるのかまるで分からないが、不思議と絶望は感じていなかった。
 生まれて始めて自分に手を差し伸べてくれたこの少年を信じてみようと、あぐりはわずかな希望を抱きながら思っていた。