フィレット教国領のとある街。
人口は少ないものの、車があれば近隣の街まで気軽に買い物に行ける便利な場所だ。
この街に、一人の青年がようやく念願の家を手に入れた。中古で築数十年の家だったが、彼にとっては十分な財産だった。
庭には、いつの時代に作られたかも分からない石像のようなものがいくつか転がっていたが、アンティーク風で悪くないと思い、そのままにしていた。
隣の住人は金髪の貴族風の女性だった。時々家を出たときに鉢合わせして会釈を交わす程度だったが、彼にはその気品ある雰囲気が近寄り難く、話しかける勇気が出なかった。
引っ越し後、近くの農家のおばちゃんと仲良くなり、世間話をするようにもなった。彼女は陽気で優しく、青年の新生活を応援してくれていた。
ある日のこと。
青年は用事で首都まで出かけていた。帰りがすっかり夜になり、家に着くと玄関先に野菜が置いてあるのが目に入った。
(あ、あのおばちゃんが持ってきてくれたんだ。)
彼はそう思い、軽く微笑みながら野菜を手に取った。白菜や大根、じゃがいもがきれいに袋詰めされている。
「ありがたいなぁ……また今度、お礼を言いに行こう。」
彼はその夜、さっそくもらった野菜で簡単なスープを作り、温かな食卓を楽しんだ。
夜、青年は自室で椅子に座り、読書に没頭していた。
この椅子は、家を購入したときからそこに置かれていたものだ。不動産業者からは「中に残っているものは自由に使っていいし、処分しても構わない」と言われていた。
分厚い革で覆われた椅子は、どっしりとした重厚感があり、まるで貴族が使うためのもののようだ。青年は最初、その豪華さに少し気後れしたが、今ではすっかり慣れ、自分のものとしてありがたく使っている。
静かな部屋に、紙をめくる音だけが響く。
そんなとき、窓の外から「キエー」という鳴き声が聞こえた。
青年はふと顔を上げ、音の方に耳を澄ませる。
(何だろう……鳥か?)
都会から離れたこの場所には、見たこともない珍しい動物がいるのかもしれない。彼は窓の外を少し眺めたが、暗闇の中にその姿を確認することはできなかった。
(まあ、こんな自然に囲まれた環境で暮らすのも悪くないな。)
そう思いながら、再び読書に戻る。椅子に深く腰掛け、しおりを挟んだページを開いた。
数日後、仕事が休みの日に青年は倉庫部屋の整理をしていた。
引っ越してきてまだ間もなく、全ての荷物を片付けきれていない。段ボールがいくつも積まれた部屋の中で、青年は一つずつ整理を進めていた。
そんな中、部屋の隅に置かれていた奇妙な木のオブジェが目に入る。
(にしても、この木のアートは何なんだろう……。)
それは前衛的というか、歪な形をした木の塊だった。何か意図して彫られたような跡があるものの、それが何を意味しているのかは全く分からない。
青年はその木のオブジェをじっと見つめた。
(そういえば、家の玄関前にも石像が転がってたな……。)
以前から妙に目につく、この家に点在する独特なオブジェや石像。
(もしかして、前の持ち主は芸術活動でもしてたのか?)
彼はそう考えながら、倉庫部屋に残された他の物にも目を向けた。壁には古い額縁がいくつか掛けられており、棚には何かよくわからない道具が整然と並んでいる。
「なんか、不思議な雰囲気の家だよな……。」
青年は少しだけこの家の過去に興味を抱きながらも、整理を続けることにした。
——ピンポーン
「ん?誰だ?」
青年は整理作業の手を止め、玄関の方を振り向いた。
この街に引っ越してきたばかりの彼には、訪ねてくる知り合いなどほとんどいない。
(農家のおばちゃんか?それとも役所の人間か?転入届は出したはずだけど……。)
不安な気持ちを抱えながら玄関へ向かう。隣の貴族風の女性が来るようなことはないだろうが、もし知らずに何か迷惑をかけたのだとしたら——
(まずい、怒られたらどうしよう……。)
そう考えながら慎重にドアを開ける。
——ガチャ。
次の瞬間、彼の視界に飛び込んできたのは、全身がメタリックシルバーに輝く異様な男だった。
「ひっ……!」
青年は思わず後ずさった。
男は無言のまま、サングラス越しにこちらを見下ろしている。その不気味な笑みがサングラスの下からもはっきりと伝わってきた。
素肌に革ジャンを羽織った男の姿は、明らかに普通ではない。革ジャンの表面がぬるりと光り、異様な存在感を放っている。
——ニタァ
男はさらに悍ましい笑みを浮かべた。その笑みには、底知れない狂気が滲んでいた。
謎の男は、こちらが何か言う間もなく勝手に喋り始めた。
「いや〜、ここに来るのは久しぶりだなぁ。」
その軽い口調と不気味な笑みに、青年の心臓は跳ね上がる。
「あ、あの……あなたは……」
恐る恐る尋ねると、男は手を振って笑った。
「あ〜気にしなくていいぞ。たまたま近くを通りがかったからな。いや、それにしてもこの家、買い手がついたんだなぁ!引っ越したのは最近か?」
「ええ……まあ。」
男の態度はあくまで軽いが、その異様な外見と雰囲気が恐ろしすぎる。青年は直感的に、目の前の男が「普通の人間」ではないことを確信した。
(絶対「あっち系」だ……。いちゃもんつけにきたのか……?)
男は相変わらず不気味な笑みを浮かべたまま、さらに話を続ける。
「もしかして……前の住人の方ですか?」
青年はおそるおそる尋ねた。
「ちげえよ。」
即答され、青年はすぐに謝る。
「す、すいません……。」
男は気にした様子もなく、さらに話を続けた。
「ただ、隣の家のやつと知り合いでな。ほら、ここ、ずっと空き家だったろ?ちょっと気になってたんだよ。」
そして、革ジャンを軽く引っ張りながら、何かを思い出すように呟いた。
「ずっと買い手がつかねえなら、俺が買い取って借家にしてやろうかなって考えてたんだよなぁ!」
青年は内心で冷や汗を流しながら、男の言葉をどう受け止めればいいのか困惑していた。
男は突然、人差し指を立てて「静かに」と合図するように囁いた。
「隣の家のやつ、気をつけろよ。」
「へぇ?」
青年は驚きつつも訳がわからず、思わず問い返した。
謎の男——ヴァイは、にやりと笑いながら顔を近づけてくる。その距離感に、青年は思わず後ろへ仰け反った。
ヴァイは低い声で問いかけた。
「ここ最近、何か変なことはなかったか?」
「いや……別に。」
青年が戸惑いながら答えると、ヴァイは更に顔を近づけてきた。
「そうか?たとえばヨォ……夜中に変な声がするとかよ?」
青年は一瞬、記憶を辿り、思い出す。
「あ……鳥の鳴き声はしま——」
ヴァイは青年の言葉を遮り、不気味な笑みを浮かべながら断言する。
「それ、あいつが叫んでんだよ。」
「え?」
青年の頭に、数日前の夜中、読書をしているときに聞こえた「キエー」とかいう鳥のような鳴き声が甦る。
「まさか……それ、隣の……?」
ヴァイは笑みを深め、青年を見下ろしながらさらに囁いた。
「隣の家のやつ、ただの貴族風じゃねえんだよ。あれ、めんどくさい魔術師だぜ。」
青年は冗談だろうと思いたかったが、その笑顔の裏にある何かが、嘘ではない気がしてならなかった。
「それから、あれ。」
ヴァイは不意に玄関の外を指差した。
「いち、にい、さん……いや、数えるの面倒だな。」
彼はそう言いながら、庭に転がる石像群を適当に指で示した。
「まあいいや、あれ、石像じゃねえ。」
「はああぁ?」
青年は驚きと戸惑いの声を上げた。
ヴァイはその反応を楽しむようにニヤリと笑い、説明を続けた。
「ムカついたやつ、片っ端から石にしてんだよ。」
「えっ……!」
「ほら、あの手前のやつ——」
ヴァイは一番近くの石像を指差す。
「あれが税務官。」
「……。」
「で、あっちに転がってるのが、隣のまたその隣のババアだったかな。」
ヴァイはまるで買い物リストを読み上げるかのように淡々と話し続ける。
「なんか騒音で揉めたらしくてな。まあそんなわけで、ムカついたやつ片っ端から石にして……。」
青年は顔を引きつらせながら、その話を聞いていた。
「で、だ。」
ヴァイは青年に視線を戻す。
「この家、空き家だったろ?隣のやつ、邪魔だからって石にしたやつ全部こっちに投げ込んできたってわけだ。」
青年の頭の中で、庭の石像たちの姿が急に生々しいものへと変わる。
「……え、それ、つまり……。」
「おう、そいつら、みんな生きてたやつだ。」
ヴァイはあっさりと言い放ち、不気味な笑みを浮かべた。
青年の膝が少し震え始める。
(なんでこんな家、買っちゃったんだ俺……。)
青年が震えているのもお構いなしに、ヴァイは軽い調子で話を続けた。
「あーすまんすまん、怖がらせちまったな。まあ、一応……あいつの知り合いとして、言っとかないといけないと思ってさ。」
青年は曖昧に頷きながら答える。
「……はぁ。」
ヴァイは手をポケットに突っ込み、興味なさげに聞いてきた。
「で、ここの生活はどうだ?」
青年は恐る恐る口を開く。
「いや、まあ……田舎ですけど、車がありますんで、なんとか……。」
「おーそうかそうか。それで?」
「なんで……その……休日に隣町まで行って、食料とか買ってきて……まあ野菜とかは近くの農家のおばちゃんと知り合ったんで、時々分けてくれたり……。」
「野菜?」
ヴァイが一瞬反応した。その目が鋭く光り、青年は嫌な予感を覚える。
(まだ何かあるのかよ……。)
「おばちゃんからもらった野菜って……どんな野菜だ?」
ヴァイが妙に真剣な顔で問いかける。
青年は、つい先日玄関先に置いてあった白菜やじゃがいも、大根のことを思い出しながら答えた。
「いや、普通の野菜ですけど……白菜とか、大根とか、じゃがいもとか……。」
「野菜かぁ。」
ヴァイは顎に手を当て、少し考え込む素振りを見せた。
「ああ、まあ、そのおばちゃんからもらってるなら問題ねえけどよ……。」
彼はふと何かを思い出したように、顔を上げて続けた。
「あいつ、時々マンドラゴラの栽培に失敗したやつとかも……なんせ、この家の土地をゴミ箱代わりにしてたからよ。」
「え?」
青年は引きつった顔で聞き返した。
「なんかよ、マンドラゴラって育てるの難しいらしいじゃん?失敗したらすぐ死ぬんだと。」
ヴァイは悪びれる様子もなく話を続ける。
「で、そいつ、気に入らないものはなんでもここに捨ててたみたいだぜ。どうやらお前が住み始めたことにも気づいてねえらしい。」
青年の顔が青ざめていくのを見て、ヴァイは楽しそうに笑った。
「マンドラゴラってよ、自分で歩くじゃん?多分、最後の力振り絞って玄関先まで歩いて、力尽きたんだろうなぁ。」
「ヒィ……。」
青年の頭に、つい最近の出来事が鮮明に浮かんできた。
夜遅くに帰宅すると、玄関先に野菜が置いてあった。彼はそれを農家のおばちゃんが気を利かせて分けてくれたものだと思い込み、ありがたくスープやサラダにして食べていた。
しかし、よく考えると、おばちゃんから直接手渡しでもらったわけではなく、ただ気づいたら玄関先に置いてあっただけなのだ。
「ま、あんま気にすんなよ。」
ヴァイは軽い調子で言いながら、再び不気味な笑みを浮かべた。
「どうせもう腹の中なんだろ?味が良かったなら、それでいいじゃねえか。」
青年の膝は、もうガクガクと震え続けていた。
(俺……何食ってたんだよ……。)
ヴァイが去った後、青年は落ち着かない気持ちを抱えながら、農家のおばちゃんに電話をかけた。世間話のふりをして、例の野菜についてさりげなく聞いてみるつもりだ。
「もしもし……」
「あら!どうしたの?」
おばちゃんの明るい声が返ってくる。
「あぁ〜いや、いつもよくしてくださって……お礼の電話とか……その……。」
「いやいや!いいのよ、そんなの!」
「えっと、その……いつも玄関先に野菜を置いてくださって……。」
「え?」
おばちゃんの声が不思議そうな調子に変わる。
「え?」
青年も怪訝な表情になる。
「いや、その……あの野菜って……おばちゃんが置いてくれたんですよね?」
「それは置いてないわねぇ。」
「はぁ?」
おばちゃんの声が急に心配そうになった。
「あ、もしかして食べるものに困ってるの?やだ!もう!それだったらそうだと言ってくれればよかったのに!分けたのにぃ!」
青年は何も言えないまま固まっている。
「明日、私の家に来なさい。規格外品だけど見た目が悪いだけで味は変わらないのよ!隣町のスーパーのは高いでしょ?だからうちのをあげるわよ!遠慮なく言ってちょうだいね〜!」
「……。」
電話越しにおばちゃんの親切な言葉が響くが、青年の心の中では、全身が冷たくなるような感覚だけが広がっていた。
(じゃあ……あの野菜は……誰が……?)
彼の頭には、ヴァイの言葉が繰り返し蘇る。
——マンドラゴラって、最後の力で玄関先まで歩いてくるんだよなぁ……。
青年の手は、受話器を持つだけで震えていた。