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1.通い猫

ー/ー



「野良猫が家に入って来ちゃうんですよ」
 スイッチを押したように、僕の頭の中が「いいなぁ」の一言に支配された。
 今、季節は芋掘り間際の秋だ。屋外生活をエンジョイする野良猫でも、ぼちぼち暖を求め始める気温なのだろう。ところでなぜ芋掘りなのかと言うと、僕の勤めるオフィスが芋畑のまん真ん中にあるからだ。もっとも、オフィスと洒落た横文字を使ったところで、窓を通って職場を抜けていくごろごろっとした空気は払拭出来ないのだが。
 さて、どうしたものか。
 僕はとりあえず淹れたてのコーヒーから手を離した。ちょうど三時のお茶休憩の時間帯で、さらに今日は先輩の出張土産の菓子もあるので、休憩を楽しみに仕事をしていたのだが仕方がない。
 室長はぎょろっと目を見開いていた。驚くべき事態が起きているかのように両眉を持ち上げ、「入って来ちゃうんですね、家に。外の物置にいると思ったら」と力説している。
 つまり、室長の家へ野良猫が侵入するということだ。恐らく室長は三時の休憩時間になったら言おう言おうと構えていたのだろう。僕がコーヒーを淹れ終わった後に話しかけた事から考えると、僕の様子を窺っていたとしか思えない。妙なところで気を遣う人である。
 しかし、想像してみて欲しい。予備動作なく、上司に自分のデスクへ突撃されて、コレである。皆さんついていけますか? 無理ですよね?
 だがしかし、それでもしかし。室長は上司であり、僕の人事評価をする人であり、僕はサラリーマン五年目の社会人である。それなりにそれなりの対応は身に付けたつもりだ。
「最近は夜寒くなりましたからね」
「そうなんですよ。若いオス猫が家にね、夜来て朝に出て行くんですよ」
「賢い猫ですね」
「そうなんですよ。私の出社と一緒に朝玄関から出るんですよ」
「通い猫みたいじゃないですか」
 本当ですよね、困っちゃいますよね、と言いながら、室長の眉尻は下がり頬は持ち上がり、満面の笑顔が完成した。そこからさらに照れたように頬を紅潮させ、せかせか会釈する。
 言うまでもなく、この室長は猫好きである。彼は四十代半ば、独身にして中古一軒家を購入し、元野良の猫一匹と暮らしている。外見について言うと、芸能人の片岡鶴太郎に似ている。もっと一般化すると、低身長、薄毛、痩身という容姿をして、必ず廊下は壁際を歩き、一対一の会話では物理的に徐々に後ずさる。ちなみに先輩は一度、室長を壁際へ追い詰めたらしい。
 その一方で仕事はクレバー、理学博士の学位とナントカという国家資格を持ち、趣味がピアノ演奏と作曲という、神様が泥酔した挙句に冗談でパラメーターを振ったとしか思えない人物だ。
 僕は、朝に玄関から出勤して夜に玄関から帰宅する猫を思い浮かべた。いい。すごくいい。多分尻尾はピーンと立っている。羨ましい。
「その猫は玄関から入って来るんですか? 室長の帰宅を毎日待ってるとか」
 是非とも猫に、玄関前で「遅ぇぞコラ」という視線を向けられてみたいものだ。なんだ羨ましい。本当に羨ましい。
 しかし、室長は僕の憧れを片手を振って否定した。運動は苦手そうなのに、今は手の残像が見える。あと、少し前に気付いたことだが、猫トーク中の室長は後ずさらない。
「窓です。二階の窓をちょっと開けてあるので、そこから入って来るんだと思うんです」
 僕の夢は砕けたが、リアリティのある事実に納得もした。なるほど。外からの侵入経路は確保しているのか。そりゃ入って来るだろう。猫という動物は毛皮を纏っているが、実は寒さに弱い。それにしても玄関から猫と一緒に出発なんてファンタジーだ。やはり羨ましい。
 そこまで考えて、僕の頭にふと疑問が浮かんだ。室長は元野良の猫を一匹飼っていた筈だ。
「室長、元々家に猫がいましたよね? その猫は窓から逃げないんですか?」
 猫がいるのに窓を開けっ放しにするのは、脱走の危機ではないだろうか。
 室長は再び高速で手を振った。思い返してみれば室長はピアノ弾きなので、手首から先の動きは達者なのかもしれない。
「大丈夫みたいです。あの猫は年寄りなので、階段が怖いんでしょうね。二階へは行かないんですよ」
「ああ、そうなんですか。それなら安心ですね」
「そうなんですよ。もう本当、困っちゃって。どうしましょう」
 解決法は簡単で、窓を閉めれば良いのである。室長は非常に頭の良い人なのでわからないわけがない。だからつまり、彼は全く困っていないのだ。言いたいだけだろう。その気持ちはわかりすぎるほど理解できる。
 ところで、この部署は僕と室長を入れて七人で、人数に対して少し広めの一室に押し込まれている。この中では僕が一番の若手ということになるのだが、なぜ他ならぬ僕のところへ室長が突撃して来たのか。
 実は、僕は半年程前から猫を一匹飼っている。僕にとっては生まれて初めての猫で、いわゆる初心者猫飼いに分類される。飼い方の本も一冊読破した。猫アレルギーもテストした。職場にもバレた。バレて以来、僕は室長に猫仲間と認識された次第だ。
 さて、いよいよどうしよう。僕は室長の嫁でも親でも友人でもなくただの初心者猫飼いなので、素晴らしいアドバイスも思い付かない。そこで率直に意見を述べることにした。
「その猫、飼うしかないんじゃないですかね」
 あちらからやって来たわけだから、それはもう飼えという神のお導きだろう。僕の選択肢にも「窓を閉める」はない。当然である。
 室長は、サイズの合っていない余り気味のスーツの襟を正した。少し考えるように数回瞬きをする。
「たぶん、あの猫は余所でも餌を貰ってるんです。うちの周りは家がないのに野良が多いので、餌やりがいるんですよ」
 その一言に、僕は室長との確かなズレを発見した。日頃の言動から薄々感じてはいたが、どうやら室長は少し昔の猫の飼い方をしているようだ。飼育本には「外飼いは危険」と書かれているし、インターネット上だと「無責任な餌やりはやめよう」と提唱されている。保護する機会があって保護可能なら、保護した方がいいだろう。
「それに元野良猫は、家にいても外に出たがるものなんですよ」
 それも古き良き時代の知識だろう。猫の性格は個体差が大きいので、一概にそうとは言えないらしい。
 ただ、やはり室長は上司であり、僕の人事評価をする人であり、僕は猫飼い初心者である。真っ向から反論はしたくない。
「……うーん、様子見ですかね。寒くなってきたので」
 困りましたね、と眉根を寄せてみる演技も忘れない。心底同意できなくとも、同調した雰囲気を出すのは円滑な人間関係において重要だ。
 そんな僕の回答に、室長は頭を小刻みに揺らしながら「そうですね」と肯いた。何やら徐々に後ずさり始めている。もしかしたら室長が求める言葉ではなかったのかもしれない。
「私もね、もうちょっとしたら出て行かなくなるんじゃないかと思ってるんですよ。寒いので」
 言い終わらないうちに、室長は急いで自分のデスクへ戻っていった。今の会話のどこかに、戻るきっかけがあったのだろうか。それにしても、なんだかいろいろ腑に落ちない。薄い後頭部を見ながら、僕は少し冷めたコーヒーを大雑把に飲んだ。

 ***

 続報がもたらされたのは、それから二週間ほど経ってからだった。ちなみにこの期間、猫トークが勃発することも、室長の様子が変わることもなかった。そんな状態が続いたので、とうとう僕が自ら質問したのだ。騒いだ後は結末を知りたいのが人というものだろう。
 室長は目を見開くと、ぐりん、と僕へ勢いよく顔を向けた。薄い胴体からものの数秒で生命力が放出されたような気がする。
「住みついちゃったんですよ。若いオスなんですけどね」
「あー、やっぱり。寒いから」
 通い猫はついに家猫になったようだ。寒いと出て行かなくなるという室長の見立ては正しかったらしい。
「じゃあ、二階の窓は閉めたんですか?」
 たしか、二階の窓から件の通い猫は通っていた筈だ。家猫になったのなら侵入経路は用済みだろう。
 しかし、室長は片手を振って否定した。見覚えある残像が見える。
「いえ。閉めていません。夜になると若いオス猫が入って来るので」
 どこかで似たような話を聞いた気がする。それもつい二週間前に。
「あれ? 前も窓から通う猫がいるって言ってませんでしたっけ?」
「通ってます。朝になると出て行っちゃうんですよ。多分余所で餌を貰ってるんでしょうね」
 室長は一人で力強く肯いている。一方で僕の頭にはでっかい疑問符が浮かび上がり、「わーかーらーんーぞー」と叫び出した。
 整理してみよう。室長の家には、元々いる猫が一匹、件の通い猫が一匹の筈だ。
「室長の家の猫って、いま一匹ですよね? その通い猫除いて」
「いえ、いえ、通い猫を除くと二匹」
 室長は指を二本立てた。若干指先が曲がっている。そして僕は新次元の存在を感じた。さすがに、二引く一が二になる世界には生きていない。
「若いオスなんですけどね。実は、なんと以前から、通い猫の後ろでこそこそコッチを見て来る猫がいたんですよ。いえね、全然近寄って来なかったんですけど、一回家に入って来たと思ったら、もう出て行かなくなっちゃって」
 喋りながら盛り上がっていく室長の長い説明中、僕の喉へじわじわと驚きがせり上がってきた。
 つまり! ニューフェイス! 新しい猫! なんてこった!
「と言うことは、今通い猫入れて三匹ってことですか」
「そうです。言ってませんでしたっけ? もう困っちゃってね。夜なんか追いかけっこしてうるさくって」
 困っちゃってる台詞を吐きながら、ばっちり笑顔が出来上がっている。そして若干照れている。そうですか可愛いですか羨ましい。
 その肉付きの悪い顔を見ながら、ふと以前インターネットで見つけた「NNN」という言葉を思い出した。ある掲示板の説明によると、「NNN」とは「ねこねこネットワーク」の略称であり、猫を世間に広めようと日々暗躍している恐ろしい地下組織だとか。NNNは然るべき人物へ猫を派遣し、功を奏するとさらに猫を送りつけるらしい。その手腕たるや、腕利きの節介おばちゃんを遥かに凌ぐと言われている。ちなみに、NNNの構成員は全て猫だと専らの噂だ。
 僕は確信した。
 室長はNNNにマークされている。
 その日、僕は少しキョロキョロしながら帰った。僕は猫可の賃貸に住んでいるわけで、猫好きでもあるわけなので、僕が猫を拾ったっていい筈だ。猫が一匹で幸せだが、猫が二匹になったら幸せ幸せになることは間違いない。
 しかし、僕の住んでいる地域は野良猫が少ない。普通に歩いていても見かけない。成果は勿論ゼロだ。わかっていたがゼロである。虚しい。
 自宅の扉を開けると、我が家の家猫殿がいつも通りのそのそ歩いて出迎えに来た。彼は白黒ハチワレのオスで、長い尻尾はピンと真上を向いている。白い脚はがっちりしていて、雄々しく歩く元野良猫の姿に、僕はいつも生い茂る草原の映像を見る。
 僕が靴を脱ぐと、猫は僕の前に立って廊下を歩き出した。ついて来るのが当然、と黒い背中に書いてある。そしてカーペットの上にドスンと音を立てて寝転がりこちらを見た。物言いたげな瞳は「しょぼくれてんじゃねえよ。撫でろゴルァ」という事だろうか。
 僕は減った腹を鳴かせながら背中を丸め、猫の白い腹を撫でまくった。


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 今、季節は芋掘り間際の秋だ。屋外生活をエンジョイする野良猫でも、ぼちぼち暖を求め始める気温なのだろう。ところでなぜ芋掘りなのかと言うと、僕の勤めるオフィスが芋畑のまん真ん中にあるからだ。もっとも、オフィスと洒落た横文字を使ったところで、窓を通って職場を抜けていくごろごろっとした空気は払拭出来ないのだが。
 さて、どうしたものか。
 僕はとりあえず淹れたてのコーヒーから手を離した。ちょうど三時のお茶休憩の時間帯で、さらに今日は先輩の出張土産の菓子もあるので、休憩を楽しみに仕事をしていたのだが仕方がない。
 室長はぎょろっと目を見開いていた。驚くべき事態が起きているかのように両眉を持ち上げ、「入って来ちゃうんですね、家に。外の物置にいると思ったら」と力説している。
 つまり、室長の家へ野良猫が侵入するということだ。恐らく室長は三時の休憩時間になったら言おう言おうと構えていたのだろう。僕がコーヒーを淹れ終わった後に話しかけた事から考えると、僕の様子を窺っていたとしか思えない。妙なところで気を遣う人である。
 しかし、想像してみて欲しい。予備動作なく、上司に自分のデスクへ突撃されて、コレである。皆さんついていけますか? 無理ですよね?
 だがしかし、それでもしかし。室長は上司であり、僕の人事評価をする人であり、僕はサラリーマン五年目の社会人である。それなりにそれなりの対応は身に付けたつもりだ。
「最近は夜寒くなりましたからね」
「そうなんですよ。若いオス猫が家にね、夜来て朝に出て行くんですよ」
「賢い猫ですね」
「そうなんですよ。私の出社と一緒に朝玄関から出るんですよ」
「通い猫みたいじゃないですか」
 本当ですよね、困っちゃいますよね、と言いながら、室長の眉尻は下がり頬は持ち上がり、満面の笑顔が完成した。そこからさらに照れたように頬を紅潮させ、せかせか会釈する。
 言うまでもなく、この室長は猫好きである。彼は四十代半ば、独身にして中古一軒家を購入し、元野良の猫一匹と暮らしている。外見について言うと、芸能人の片岡鶴太郎に似ている。もっと一般化すると、低身長、薄毛、痩身という容姿をして、必ず廊下は壁際を歩き、一対一の会話では物理的に徐々に後ずさる。ちなみに先輩は一度、室長を壁際へ追い詰めたらしい。
 その一方で仕事はクレバー、理学博士の学位とナントカという国家資格を持ち、趣味がピアノ演奏と作曲という、神様が泥酔した挙句に冗談でパラメーターを振ったとしか思えない人物だ。
 僕は、朝に玄関から出勤して夜に玄関から帰宅する猫を思い浮かべた。いい。すごくいい。多分尻尾はピーンと立っている。羨ましい。
「その猫は玄関から入って来るんですか? 室長の帰宅を毎日待ってるとか」
 是非とも猫に、玄関前で「遅ぇぞコラ」という視線を向けられてみたいものだ。なんだ羨ましい。本当に羨ましい。
 しかし、室長は僕の憧れを片手を振って否定した。運動は苦手そうなのに、今は手の残像が見える。あと、少し前に気付いたことだが、猫トーク中の室長は後ずさらない。
「窓です。二階の窓をちょっと開けてあるので、そこから入って来るんだと思うんです」
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 そこまで考えて、僕の頭にふと疑問が浮かんだ。室長は元野良の猫を一匹飼っていた筈だ。
「室長、元々家に猫がいましたよね? その猫は窓から逃げないんですか?」
 猫がいるのに窓を開けっ放しにするのは、脱走の危機ではないだろうか。
 室長は再び高速で手を振った。思い返してみれば室長はピアノ弾きなので、手首から先の動きは達者なのかもしれない。
「大丈夫みたいです。あの猫は年寄りなので、階段が怖いんでしょうね。二階へは行かないんですよ」
「ああ、そうなんですか。それなら安心ですね」
「そうなんですよ。もう本当、困っちゃって。どうしましょう」
 解決法は簡単で、窓を閉めれば良いのである。室長は非常に頭の良い人なのでわからないわけがない。だからつまり、彼は全く困っていないのだ。言いたいだけだろう。その気持ちはわかりすぎるほど理解できる。
 ところで、この部署は僕と室長を入れて七人で、人数に対して少し広めの一室に押し込まれている。この中では僕が一番の若手ということになるのだが、なぜ他ならぬ僕のところへ室長が突撃して来たのか。
 実は、僕は半年程前から猫を一匹飼っている。僕にとっては生まれて初めての猫で、いわゆる初心者猫飼いに分類される。飼い方の本も一冊読破した。猫アレルギーもテストした。職場にもバレた。バレて以来、僕は室長に猫仲間と認識された次第だ。
 さて、いよいよどうしよう。僕は室長の嫁でも親でも友人でもなくただの初心者猫飼いなので、素晴らしいアドバイスも思い付かない。そこで率直に意見を述べることにした。
「その猫、飼うしかないんじゃないですかね」
 あちらからやって来たわけだから、それはもう飼えという神のお導きだろう。僕の選択肢にも「窓を閉める」はない。当然である。
 室長は、サイズの合っていない余り気味のスーツの襟を正した。少し考えるように数回瞬きをする。
「たぶん、あの猫は余所でも餌を貰ってるんです。うちの周りは家がないのに野良が多いので、餌やりがいるんですよ」
 その一言に、僕は室長との確かなズレを発見した。日頃の言動から薄々感じてはいたが、どうやら室長は少し昔の猫の飼い方をしているようだ。飼育本には「外飼いは危険」と書かれているし、インターネット上だと「無責任な餌やりはやめよう」と提唱されている。保護する機会があって保護可能なら、保護した方がいいだろう。
「それに元野良猫は、家にいても外に出たがるものなんですよ」
 それも古き良き時代の知識だろう。猫の性格は個体差が大きいので、一概にそうとは言えないらしい。
 ただ、やはり室長は上司であり、僕の人事評価をする人であり、僕は猫飼い初心者である。真っ向から反論はしたくない。
「……うーん、様子見ですかね。寒くなってきたので」
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 そんな僕の回答に、室長は頭を小刻みに揺らしながら「そうですね」と肯いた。何やら徐々に後ずさり始めている。もしかしたら室長が求める言葉ではなかったのかもしれない。
「私もね、もうちょっとしたら出て行かなくなるんじゃないかと思ってるんですよ。寒いので」
 言い終わらないうちに、室長は急いで自分のデスクへ戻っていった。今の会話のどこかに、戻るきっかけがあったのだろうか。それにしても、なんだかいろいろ腑に落ちない。薄い後頭部を見ながら、僕は少し冷めたコーヒーを大雑把に飲んだ。
 ***
 続報がもたらされたのは、それから二週間ほど経ってからだった。ちなみにこの期間、猫トークが勃発することも、室長の様子が変わることもなかった。そんな状態が続いたので、とうとう僕が自ら質問したのだ。騒いだ後は結末を知りたいのが人というものだろう。
 室長は目を見開くと、ぐりん、と僕へ勢いよく顔を向けた。薄い胴体からものの数秒で生命力が放出されたような気がする。
「住みついちゃったんですよ。若いオスなんですけどね」
「あー、やっぱり。寒いから」
 通い猫はついに家猫になったようだ。寒いと出て行かなくなるという室長の見立ては正しかったらしい。
「じゃあ、二階の窓は閉めたんですか?」
 たしか、二階の窓から件の通い猫は通っていた筈だ。家猫になったのなら侵入経路は用済みだろう。
 しかし、室長は片手を振って否定した。見覚えある残像が見える。
「いえ。閉めていません。夜になると若いオス猫が入って来るので」
 どこかで似たような話を聞いた気がする。それもつい二週間前に。
「あれ? 前も窓から通う猫がいるって言ってませんでしたっけ?」
「通ってます。朝になると出て行っちゃうんですよ。多分余所で餌を貰ってるんでしょうね」
 室長は一人で力強く肯いている。一方で僕の頭にはでっかい疑問符が浮かび上がり、「わーかーらーんーぞー」と叫び出した。
 整理してみよう。室長の家には、元々いる猫が一匹、件の通い猫が一匹の筈だ。
「室長の家の猫って、いま一匹ですよね? その通い猫除いて」
「いえ、いえ、通い猫を除くと二匹」
 室長は指を二本立てた。若干指先が曲がっている。そして僕は新次元の存在を感じた。さすがに、二引く一が二になる世界には生きていない。
「若いオスなんですけどね。実は、なんと以前から、通い猫の後ろでこそこそコッチを見て来る猫がいたんですよ。いえね、全然近寄って来なかったんですけど、一回家に入って来たと思ったら、もう出て行かなくなっちゃって」
 喋りながら盛り上がっていく室長の長い説明中、僕の喉へじわじわと驚きがせり上がってきた。
 つまり! ニューフェイス! 新しい猫! なんてこった!
「と言うことは、今通い猫入れて三匹ってことですか」
「そうです。言ってませんでしたっけ? もう困っちゃってね。夜なんか追いかけっこしてうるさくって」
 困っちゃってる台詞を吐きながら、ばっちり笑顔が出来上がっている。そして若干照れている。そうですか可愛いですか羨ましい。
 その肉付きの悪い顔を見ながら、ふと以前インターネットで見つけた「NNN」という言葉を思い出した。ある掲示板の説明によると、「NNN」とは「ねこねこネットワーク」の略称であり、猫を世間に広めようと日々暗躍している恐ろしい地下組織だとか。NNNは然るべき人物へ猫を派遣し、功を奏するとさらに猫を送りつけるらしい。その手腕たるや、腕利きの節介おばちゃんを遥かに凌ぐと言われている。ちなみに、NNNの構成員は全て猫だと専らの噂だ。
 僕は確信した。
 室長はNNNにマークされている。
 その日、僕は少しキョロキョロしながら帰った。僕は猫可の賃貸に住んでいるわけで、猫好きでもあるわけなので、僕が猫を拾ったっていい筈だ。猫が一匹で幸せだが、猫が二匹になったら幸せ幸せになることは間違いない。
 しかし、僕の住んでいる地域は野良猫が少ない。普通に歩いていても見かけない。成果は勿論ゼロだ。わかっていたがゼロである。虚しい。
 自宅の扉を開けると、我が家の家猫殿がいつも通りのそのそ歩いて出迎えに来た。彼は白黒ハチワレのオスで、長い尻尾はピンと真上を向いている。白い脚はがっちりしていて、雄々しく歩く元野良猫の姿に、僕はいつも生い茂る草原の映像を見る。
 僕が靴を脱ぐと、猫は僕の前に立って廊下を歩き出した。ついて来るのが当然、と黒い背中に書いてある。そしてカーペットの上にドスンと音を立てて寝転がりこちらを見た。物言いたげな瞳は「しょぼくれてんじゃねえよ。撫でろゴルァ」という事だろうか。
 僕は減った腹を鳴かせながら背中を丸め、猫の白い腹を撫でまくった。