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 世の中は往々にして理不尽なものだと思う。
 件の段ボール箱を母上の目から隠して二階の弟の部屋へ搬入した後も、やれ水だの寝床だのを準備し、さらにその上餌を自費で購入したにも関わらず、私はまだ「ハネウオ」を見ていない。こもごも世話の支度を調えてやった直後、弟は部屋への立ち入り禁止を宣言した。恩を仇で返すとは、なんとも我儘に育ったものだ。
 「ハネウオ」とは、基本的には魚らしい。だからついさっき、魚の餌を購入する為に私は冬空の下を走ったわけだ。そして背中にトビウオのような羽が一対にょきにょき生えていて、水中ではなく空中を泳ぐのだと言う。
 公園で発見した時は相当弱っていて、あっちゃんに羽を毟られそうになっていたのを救出して今に至った、と弟は主張している。
 どこの妖精だそれは。しかも魚。そんな生物がこの世に存在するとは今まで聞いた事がない。しかし百歩譲って、いわゆる「心の綺麗な人にしか見えない不思議な生き物」だったとして、なぜいじめっ子にも見えてしまったのか。子供は一括りで心が綺麗だとでも言うのか。それとも単純に弱っている為に見えやすくなっているという理屈だろうか。
 子供に見える、と言われれば私は年齢的に微妙かもしれない。心の綺麗さで見えるか否かが判断されるならば、果たして私はどうなのだろう。
 私がかつて拾った犬は台風の日に家出した。あの日もその翌日も探したが見つからなかった。そして三日目、捜索を止めた。
 そんな事を考えながら自分の部屋の炬燵で溶けていると、扉の外から弟の呼び声がした。ストーブの灯油がなくなったらしい。さすがに灯油を扱うには弟はまだ幼い。
 扉を開けると弟が空の給油タンクを抱えて立っていた。日頃は私が隣にある弟の部屋まで行ってストーブからタンクを抜き取る。身長的にも重さ的にも小学二年生に扱い易いとは言えないだろう。
 空の給油タンクは確かに軽いかもしれない。しかし、私の頭へ僅かに血が上って行くのがわかった。まさか弟がここまで立ち入り禁止を徹底させるとは思っていなかった。
「ハネウオはどうしてるの?」
 給油タンクを受け取りながら尋ねると、声が響くことを危惧したらしく弟が人差し指を口に当てた。内緒話のように声を潜める。
「ちょっと元気になってきたよ」
 少しほっとしたように頬を緩める。その態度さえ今はどうしようもなく引っ掛かる。
「じゃあなんで見せてくれないわけ?」
 自然と刺すような口調になってしまったが、弟はそれに気付かないようで曖昧に首を傾げ、「なんとなくダメな気がする」と答えた。
 先程頭へ上った血が今度は顔へと巡って来る。兄弟喧嘩の前には年齢差など無意味だと思う。
「本当はハネウオなんかいないんじゃないの?」
 弟が目を見開いて凍り付いた。ただでさえ大きな目が黒々と塗られ、その全面に私の顔が映り込んでいる。カメラのレンズみたいだなと半ば感心して像の輪郭を眺めていると、徐々に弟の頬が紅潮し始めた。そして次の瞬間、何も言わずに彼は自分の部屋へ駆け込んで行った。荒々しく閉められた扉へ抗議するように、家が微かに軋み声をたてる。
 もしかしたらハネウオは嘘なのかもしれない。私が苦手な爬虫類を拾って来たのかもしれない。だからそう、嘘をついて、私を部屋に入れないのだ。
 勝手に納得し給油タンクを抱えたまま階段を下りると、廊下を渡って灯油のタンクがある勝手口へと向かった。途中通り過ぎる洗面所で、私は何気なく鏡へ視線をやった。鏡があれば自分を見るのは、思春期の女子としては普通の動作だと思う。
 私はそこで呆気に取られて立ち止まった。そこには不細工な顔の一重の女が映っていた。見慣れた弟の二重と、その奥一面を埋めたあの黒目を思い出す。そうか。弟は私の顔を見たのか。


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 世の中は往々にして理不尽なものだと思う。
 件の段ボール箱を母上の目から隠して二階の弟の部屋へ搬入した後も、やれ水だの寝床だのを準備し、さらにその上餌を自費で購入したにも関わらず、私はまだ「ハネウオ」を見ていない。こもごも世話の支度を調えてやった直後、弟は部屋への立ち入り禁止を宣言した。恩を仇で返すとは、なんとも我儘に育ったものだ。
 「ハネウオ」とは、基本的には魚らしい。だからついさっき、魚の餌を購入する為に私は冬空の下を走ったわけだ。そして背中にトビウオのような羽が一対にょきにょき生えていて、水中ではなく空中を泳ぐのだと言う。
 公園で発見した時は相当弱っていて、あっちゃんに羽を毟られそうになっていたのを救出して今に至った、と弟は主張している。
 どこの妖精だそれは。しかも魚。そんな生物がこの世に存在するとは今まで聞いた事がない。しかし百歩譲って、いわゆる「心の綺麗な人にしか見えない不思議な生き物」だったとして、なぜいじめっ子にも見えてしまったのか。子供は一括りで心が綺麗だとでも言うのか。それとも単純に弱っている為に見えやすくなっているという理屈だろうか。
 子供に見える、と言われれば私は年齢的に微妙かもしれない。心の綺麗さで見えるか否かが判断されるならば、果たして私はどうなのだろう。
 私がかつて拾った犬は台風の日に家出した。あの日もその翌日も探したが見つからなかった。そして三日目、捜索を止めた。
 そんな事を考えながら自分の部屋の炬燵で溶けていると、扉の外から弟の呼び声がした。ストーブの灯油がなくなったらしい。さすがに灯油を扱うには弟はまだ幼い。
 扉を開けると弟が空の給油タンクを抱えて立っていた。日頃は私が隣にある弟の部屋まで行ってストーブからタンクを抜き取る。身長的にも重さ的にも小学二年生に扱い易いとは言えないだろう。
 空の給油タンクは確かに軽いかもしれない。しかし、私の頭へ僅かに血が上って行くのがわかった。まさか弟がここまで立ち入り禁止を徹底させるとは思っていなかった。
「ハネウオはどうしてるの?」
 給油タンクを受け取りながら尋ねると、声が響くことを危惧したらしく弟が人差し指を口に当てた。内緒話のように声を潜める。
「ちょっと元気になってきたよ」
 少しほっとしたように頬を緩める。その態度さえ今はどうしようもなく引っ掛かる。
「じゃあなんで見せてくれないわけ?」
 自然と刺すような口調になってしまったが、弟はそれに気付かないようで曖昧に首を傾げ、「なんとなくダメな気がする」と答えた。
 先程頭へ上った血が今度は顔へと巡って来る。兄弟喧嘩の前には年齢差など無意味だと思う。
「本当はハネウオなんかいないんじゃないの?」
 弟が目を見開いて凍り付いた。ただでさえ大きな目が黒々と塗られ、その全面に私の顔が映り込んでいる。カメラのレンズみたいだなと半ば感心して像の輪郭を眺めていると、徐々に弟の頬が紅潮し始めた。そして次の瞬間、何も言わずに彼は自分の部屋へ駆け込んで行った。荒々しく閉められた扉へ抗議するように、家が微かに軋み声をたてる。
 もしかしたらハネウオは嘘なのかもしれない。私が苦手な爬虫類を拾って来たのかもしれない。だからそう、嘘をついて、私を部屋に入れないのだ。
 勝手に納得し給油タンクを抱えたまま階段を下りると、廊下を渡って灯油のタンクがある勝手口へと向かった。途中通り過ぎる洗面所で、私は何気なく鏡へ視線をやった。鏡があれば自分を見るのは、思春期の女子としては普通の動作だと思う。
 私はそこで呆気に取られて立ち止まった。そこには不細工な顔の一重の女が映っていた。見慣れた弟の二重と、その奥一面を埋めたあの黒目を思い出す。そうか。弟は私の顔を見たのか。