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ゆきえ

ー/ー



 ものすごく悩んだんです。半覚醒の真っ黒な視界にそんな声が滲んだ。
「何かおもしろいことを書かないといけないと思って。だって活字になったら一生残るじゃないですか」
 とろとろと目を開くと、テレビ画面に今売り出し中の舞台女優が映っていた。細長くてきれいな指が膝に揃えられている。このお昼の番組は、サイコロを振ってトークのお題を決めることで有名だ。何の目が出たのかは寝過してしまってわからないが、どうやら高校時代の彼女について話しているようだ。
 それにしても、いつの間に朝をまたいで昼になったのだろう。僕が憶えている昨夜の記憶は、我が家のドアノブを掴むために三度トライを要したということだけだ。どうやらその後、寝間着にしているジャージに着替え、テレビを点けて炬燵へ潜りこんだらしい。
 視線をやった窓には昼がやたらと貼り付き、薄水色の空がやたらとうるさかった。はっきり言って目に悪い。さらに、酒と炬燵睡眠のおかげなのか、全身が水分を欲している。保護を求めて手元へ目を移すと、おそらく昨夜持ち帰ったのだろう、炬燵の黒い天板の上にひんやりと膨らんだみかんがいた。

 ***

 宇宙の外には何があるのでしょうか。その問いに「みかん」と即答する人がいた。その人――綾瀬さんとは中学、高校と同じ学校で、外見的には日焼けした女子という印象しか受けない。彼女は字もきれいだったし絵も上手だったが、そんなことが持て囃されるのは稀で、彼女に対するみんなの関心はその言動や行動に集中していた。そして引っ掻き回した場を眺めると、口元をにいっと横に引き声を抑えて笑うのである。
 綾瀬さんと珍事は熱愛中の恋人の如くべったりくっついて離れない。当時を知る友人の共通認識はそれで間違いない。
 僕が体験した出来事のひとつに、「コーヒーラーメン事件」というのがある。彼女の珍事の中ではありきたりで小物だが、胃袋にぬるっとした衝撃があったおかげで妙に記憶に残っている。その当時、高校二年生だった僕は山に登らない山岳部員で、彼女は一見マトモなソフトボール部員だった。
 僕がいた山岳部にはカセットコンロとラーメンが常備されており、ある日、友人の村田と僕は賞味期限が迫っている備品のラーメンを処分という名目で頂戴することにした。僕も村田も学校で堂々とラーメンを作って食べる事が出来るという、思春期の少年が憧れてやまない「特異性」のようなものに惹かれて入部したので、寧ろこの役割は本懐を遂げる事に他ならない。
 僕が割り箸を買いに行き、村田がトイレに行っている間に事件は起きた。カセットコンロの横に、コーヒー牛乳の紙パックがちょこんと置いてあったのだ。コーヒー牛乳は購買の自販機で二百ミリリットル、六十円。当時かなりの売れ筋商品だった。
 とりあえず、コーヒー牛乳を前に僕と村田は沈黙した。紙パックは中身が入っているようには見えなかった。そして道具を出しただけだったのにも関わらず、カセットコンロの上には全てのセットを終えた鍋が乗り、ご親切にも火まで点いていた。斜め向かいにあるソフトボール部の部室の扉が、わかりやすくうっすら開いていたのであえて見ないようにした。
 鍋の中身についての詳細は積極的に忘却したが、胃袋の底に温いゴミ水が溜まるようなあの感覚は今でも思い出せてしまう。
 あの当時、僕達二人にとって彼女の奇怪な行動は日常的だったのだろう。なぜ捨てずに食べる事を選んだのか。しかもあの時は、怒るという選択肢さえ浮かばなかったと思う。
 最終的には少しでも美味しく食べる方法を模索していた筈だ。出来てしまったラーメンを、襲いかかる汁や麺やマヨネーズに耐えながら、荒波へ挑む勇者のように村田と必死になって攻略した記憶がある。あの時、いつの間にか姿を現して、わんこそばの如く丼に麺と汁を補充していった彼女の指先の無慈悲さと、抑えているのによく響く笑い声を僕は多分忘れないのだろう。

 ***

 高校を出て五年、今僕は卒業を逃して五年目の大学生をやっている。内定も決まっているし、このままいけば卒業も問題ないだろう。部屋には熱にさらされ過ぎた炬燵布団の綿の匂いが漂っていて、テレビでは卒業アルバムの寄せ書きについて、相変わらずよく透る声が語っていた。
「どうしようと思って焦っていたら、ぱっと頭に文字が浮かんで。そのまま、もういいやと思って書いたんです」
 僕達が通った高校の卒業アルバムは、見開きページが真っ白で、そこに寄せ書きをするのが伝統になっていた。僕のアルバムにはトメハネ美しい縦書きがある。
 画面の中の女優は、その当時を思い出したのか口元をにいっと横へ引いた。瞳には鋭いながらも愉快そうな光が点る。
「『ゆきえ 綾瀬麻衣子』」
 あれを書き終えた彼女は、ふふん、と得意気な顔で僕を見て、自分のアルバムを小脇に抱えると教室から軽やかに出て行ったのだった。彼女のアルバムには僕を含めた被害者達の署名が集まっていた。画面に映るその笑い顔の不変につい頬が緩む。
「書いた後、勝ったと思いましたよ。ガッツポーズしましたね。心の中で」
 司会者がその先を促す。彼女の細長い指が再び膝に置かれた。彼女は絵も習字も上手だった。
「家に帰る途中、母の車の中で自分のアルバムを見たんです」
 僕が綾瀬さんに贈る言葉は、あの日ひとつしかなかった。
「カタカナで『オツカレ コイケ』って。見た瞬間、やられたと思いました」
 あの当時、彼女は常に他人と違っていなければならなかった。しかも違っていることに関しては、抜群に違っていなければならなかった。僕はよく書店や図書室で大量の知識やユーモアを詰め込んでいる彼女を見た。僕はそういう綾瀬さんを見たということを、綾瀬さんに見せてはいけないと思った。
「彼にはわかっていたみたいですね。本当に最後の最後、負けたって思いました」
 サイコロは「私、負けました」の目が出ていた。
 僕は天板の上のみかんを角から角へ転がした。全くもって上手く転がらない。誰にも言っていない秘密だが、僕はあれ以来出会った名前の中にゆきえを探すようになってしまった。どうせ彼女には見えないに決まっているが、僕は顔を顰めて画面に見せつけた。あなたのせいですよ。
 番組が終わりに差し掛かり、綾瀬さんは一週間後に迫った舞台公演の宣伝をし始めた。彼女はこの舞台が初主演となる。
 番組のエンディングが終わりかけた頃、村田から短いメールが送られてきた。昨夜は二人で綾瀬さんの初主演を祝ったのだった。すぐに「俺は見た」と返信をする。
 そういえば喉が渇いていた筈だ。僕は転んだみかんを手に取った。



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 ものすごく悩んだんです。半覚醒の真っ黒な視界にそんな声が滲んだ。
「何かおもしろいことを書かないといけないと思って。だって活字になったら一生残るじゃないですか」
 とろとろと目を開くと、テレビ画面に今売り出し中の舞台女優が映っていた。細長くてきれいな指が膝に揃えられている。このお昼の番組は、サイコロを振ってトークのお題を決めることで有名だ。何の目が出たのかは寝過してしまってわからないが、どうやら高校時代の彼女について話しているようだ。
 それにしても、いつの間に朝をまたいで昼になったのだろう。僕が憶えている昨夜の記憶は、我が家のドアノブを掴むために三度トライを要したということだけだ。どうやらその後、寝間着にしているジャージに着替え、テレビを点けて炬燵へ潜りこんだらしい。
 視線をやった窓には昼がやたらと貼り付き、薄水色の空がやたらとうるさかった。はっきり言って目に悪い。さらに、酒と炬燵睡眠のおかげなのか、全身が水分を欲している。保護を求めて手元へ目を移すと、おそらく昨夜持ち帰ったのだろう、炬燵の黒い天板の上にひんやりと膨らんだみかんがいた。
 ***
 宇宙の外には何があるのでしょうか。その問いに「みかん」と即答する人がいた。その人――綾瀬さんとは中学、高校と同じ学校で、外見的には日焼けした女子という印象しか受けない。彼女は字もきれいだったし絵も上手だったが、そんなことが持て囃されるのは稀で、彼女に対するみんなの関心はその言動や行動に集中していた。そして引っ掻き回した場を眺めると、口元をにいっと横に引き声を抑えて笑うのである。
 綾瀬さんと珍事は熱愛中の恋人の如くべったりくっついて離れない。当時を知る友人の共通認識はそれで間違いない。
 僕が体験した出来事のひとつに、「コーヒーラーメン事件」というのがある。彼女の珍事の中ではありきたりで小物だが、胃袋にぬるっとした衝撃があったおかげで妙に記憶に残っている。その当時、高校二年生だった僕は山に登らない山岳部員で、彼女は一見マトモなソフトボール部員だった。
 僕がいた山岳部にはカセットコンロとラーメンが常備されており、ある日、友人の村田と僕は賞味期限が迫っている備品のラーメンを処分という名目で頂戴することにした。僕も村田も学校で堂々とラーメンを作って食べる事が出来るという、思春期の少年が憧れてやまない「特異性」のようなものに惹かれて入部したので、寧ろこの役割は本懐を遂げる事に他ならない。
 僕が割り箸を買いに行き、村田がトイレに行っている間に事件は起きた。カセットコンロの横に、コーヒー牛乳の紙パックがちょこんと置いてあったのだ。コーヒー牛乳は購買の自販機で二百ミリリットル、六十円。当時かなりの売れ筋商品だった。
 とりあえず、コーヒー牛乳を前に僕と村田は沈黙した。紙パックは中身が入っているようには見えなかった。そして道具を出しただけだったのにも関わらず、カセットコンロの上には全てのセットを終えた鍋が乗り、ご親切にも火まで点いていた。斜め向かいにあるソフトボール部の部室の扉が、わかりやすくうっすら開いていたのであえて見ないようにした。
 鍋の中身についての詳細は積極的に忘却したが、胃袋の底に温いゴミ水が溜まるようなあの感覚は今でも思い出せてしまう。
 あの当時、僕達二人にとって彼女の奇怪な行動は日常的だったのだろう。なぜ捨てずに食べる事を選んだのか。しかもあの時は、怒るという選択肢さえ浮かばなかったと思う。
 最終的には少しでも美味しく食べる方法を模索していた筈だ。出来てしまったラーメンを、襲いかかる汁や麺やマヨネーズに耐えながら、荒波へ挑む勇者のように村田と必死になって攻略した記憶がある。あの時、いつの間にか姿を現して、わんこそばの如く丼に麺と汁を補充していった彼女の指先の無慈悲さと、抑えているのによく響く笑い声を僕は多分忘れないのだろう。
 ***
 高校を出て五年、今僕は卒業を逃して五年目の大学生をやっている。内定も決まっているし、このままいけば卒業も問題ないだろう。部屋には熱にさらされ過ぎた炬燵布団の綿の匂いが漂っていて、テレビでは卒業アルバムの寄せ書きについて、相変わらずよく透る声が語っていた。
「どうしようと思って焦っていたら、ぱっと頭に文字が浮かんで。そのまま、もういいやと思って書いたんです」
 僕達が通った高校の卒業アルバムは、見開きページが真っ白で、そこに寄せ書きをするのが伝統になっていた。僕のアルバムにはトメハネ美しい縦書きがある。
 画面の中の女優は、その当時を思い出したのか口元をにいっと横へ引いた。瞳には鋭いながらも愉快そうな光が点る。
「『ゆきえ 綾瀬麻衣子』」
 あれを書き終えた彼女は、ふふん、と得意気な顔で僕を見て、自分のアルバムを小脇に抱えると教室から軽やかに出て行ったのだった。彼女のアルバムには僕を含めた被害者達の署名が集まっていた。画面に映るその笑い顔の不変につい頬が緩む。
「書いた後、勝ったと思いましたよ。ガッツポーズしましたね。心の中で」
 司会者がその先を促す。彼女の細長い指が再び膝に置かれた。彼女は絵も習字も上手だった。
「家に帰る途中、母の車の中で自分のアルバムを見たんです」
 僕が綾瀬さんに贈る言葉は、あの日ひとつしかなかった。
「カタカナで『オツカレ コイケ』って。見た瞬間、やられたと思いました」
 あの当時、彼女は常に他人と違っていなければならなかった。しかも違っていることに関しては、抜群に違っていなければならなかった。僕はよく書店や図書室で大量の知識やユーモアを詰め込んでいる彼女を見た。僕はそういう綾瀬さんを見たということを、綾瀬さんに見せてはいけないと思った。
「彼にはわかっていたみたいですね。本当に最後の最後、負けたって思いました」
 サイコロは「私、負けました」の目が出ていた。
 僕は天板の上のみかんを角から角へ転がした。全くもって上手く転がらない。誰にも言っていない秘密だが、僕はあれ以来出会った名前の中にゆきえを探すようになってしまった。どうせ彼女には見えないに決まっているが、僕は顔を顰めて画面に見せつけた。あなたのせいですよ。
 番組が終わりに差し掛かり、綾瀬さんは一週間後に迫った舞台公演の宣伝をし始めた。彼女はこの舞台が初主演となる。
 番組のエンディングが終わりかけた頃、村田から短いメールが送られてきた。昨夜は二人で綾瀬さんの初主演を祝ったのだった。すぐに「俺は見た」と返信をする。
 そういえば喉が渇いていた筈だ。僕は転んだみかんを手に取った。