人間はわからない。
関係各所に電話をかけメールを展開し、最後に上司から嫌味を頂戴したところで、本日のエネルギーは底をついた。
いつも通り不規則な風音が地鳴りのように響いていた。頭の足りない巨人が壁を叩いていると言われても驚かない。味気ない蛍光灯が照らす室内は憎らしい程変化がなく、ずっと明るい外の景色は今から活発に動き始める。
報告書を纏めなければならない。
私は重い指を動かした。記憶は五日前へ遡る。
***
朝一で市役所から行々者の確認連絡を受けた時、私は申請処理の真っ最中だった。明後日から大学の研究室が研究施設を利用するのだが、ギリギリになって人数変更があったのだ。初めて利用する場合は簡単な講習をしなくてはならない。
ちなみに件の確認作業は時間がかかる。倍速で監視カメラをチェックするので、その間他の仕事が出来なくなる。
確認作業を後回しにして処理と準備が完了した時には昼を回っていた。
この職場は私一人しかいない。あと一人は毎日ではなく、シルバーから派遣された清掃員がいる。見張る目がないと人間とは横着になっていく生き物だと思う。私は昼食を摂りながら監視カメラの映像を流した。市役所から開示された細かいデータは見ていないが、とりあえず人影があれば良いのだろう。
時間は昨日の夕方以降。常磐五丁目のバス停を女子中学生が下車したらしい。大きな青いスポーツバッグを所有している。
穴へ向かう人を市役所では「行々者」と呼んでいる。この街の住人は失踪者が出ると穴へ行ったと疑いを持つようで、失踪者連絡が警察から回って来る。あえて広めていないが、穴は市役所の管轄だ。常磐五丁目のバス停や、バス停から穴へ向かう道のポイントには監視カメラが設置されていて、歩行者を確認できるようになっている。
時間帯も正確だったおかげで、苦もなくほっそりとした女子中学生の姿を確認できた。引き続き、次の地点のカメラをチェックする。
次のカメラに映った時、少女は制服姿から普段着の姿へと変わっていた。バス停から少し歩いた所にコンビニがあるので、恐らくそこで着替えたのだろう。
バス停からここまでは三十キロ程あるため、大抵は二日程かけて来ることになる。少女の万全な準備からするとガイドブックを読破したに違いない。素晴らしい。
順々にカメラをチェックしていくと到着は今日の夕方以降と予想できたので、その旨を各所に連絡した。
そして受話器を置いた後に、受け取っていた少女の情報に目を通した。
平瀬由紀、中学三年生。両親は他界。バス降車の目撃は友人で、失踪連絡は親戚から。家庭環境はよくわからないが、目撃した友人が彼女の友人ならば、彼女は少なくともその友人の為に死んではならないだろう。
穴は周囲を高いコンクリートの壁で囲まれており、外から中の様子を伺う事はできない。わかるのは、常に唸るような風の音が聞こえるという事だけだ。バス停から伸びる道から見ると右手の方に歩行者用と車両用の二つの扉が備え付けられていて、どちらもしっかり施錠してある。絶望的な程動かない扉の隣には受付へお越し下さいと案内が出ている。受付はそこからさらに右手へ回った先の平屋にある。
夕飯を食べようかと冷蔵庫に手をかけたところで、受付のベルが鳴った。来た。
行々者が出ると特別体制をとって私の勤務時間が二十一時まで伸びる。
デスクのあるオフィスから徒歩十歩程にある受付へ向かうと、カメラ映像で見たよりもずっと儚い様子の少女が立っていた。汗はもう引いたのか、随分とスッキリした顔をしている。
受付は消費電力節減の為に蛍光灯が数本間引かれていて薄暗い。カウンターと椅子と、あとは入り口の横に長椅子がある程度の四畳の狭いスペースだ。少女は人の顔を見るなり「穴に行きたいんですけど」と切り出した。それしか考えていないのだろう。
拒む理由は他人の私にはない。彼女をとりあえず椅子に座らせてくたびれた帳簿を出した。
「氏名を住所と、あと未成年は保護者とその連絡先を記載して下さい」
ここに座る多くの者がそうするように、彼女も酷く狼狽えたような顔をした。指が食い込まんばかりに机の端を掴んでいる。
「ご遺体の処理の都合です。できればご親族に負担して頂いて、遺骨も引き取って頂きたいので」
そうしないと公費で火葬するハメになる。
少女は面食らったように長い間黙り、ゆっくりとペンを握った。それから静かに文字を落とし始める。ペン先が僅かに振えていた。まるで悪魔との契約のようだ。
ペンが止まるのを待って、次の書類を取り出した。これは所持品の処理に関する書類で原則は遺族へ引き渡すが、受け取りを拒否された場合の事を見越してである。個人的には、長年穴を管理して来た歴代の担当者の苦労が詰まっているなと実感する。
今度はすんなりとサインし始める。先程のサインを越せば誰でもこんなものだ。
少女が全てのサインを終えてペンを置くと、今度はじっと帳簿を凝視し始めた。
「すみません。これ、過去誰が来たのかわかりますか。十一年前とか」
あまりにも意外な質問で、はあ、と間抜けな声が出た。私はここの勤務になって四年ちょっとだから前任者の時代と言う事になる。
帳簿の最も古い日付を確認すると五年前のものだった。席を立って過去分を探すと、帳簿が二つに跨がっていた。
二冊持って受付に戻ると、ピンと背筋を伸ばして少女が待っていた。真っ白い鍾乳洞を逆さにしたようだ。
「具体的な時期はわかりますか」
しっかりした声が十一年前の春と答えた。名前は尾上。その情報を基に帳簿を繰ると、尾上由隆という名前があった。備考欄には遺留品が「有」と書かれている。
前任者は私と違って真面目に職務をこなしていたらしく、わざわざ受付で遺書を書かせたぐらいだと言うので、それが残っているのかもしれない。
「名前しか記載がない場合はどうなるんですか」
帳簿の尾上氏は名前と備考しか埋まっていない。
「無縁仏なので合葬されます」
骨張った指が備考を指した。
「この遺留品は」
黒々とした瞳が穴に行くと言った時とは異なる熱量で私を圧迫した。浮ついたような希望ではなく、ずっと体の芯に凝っていた渇望と呼べるような意思を感じる。
「遺留品があるという事になりますが、十一年前のものが保管されているかは問い合わせてみないと」
少女はもう一度、遺留品という文字を見つめた。その瞳には期待と絶望が交互に明滅して、躊躇う理由ばかりを探しているように見えた。
息を詰めたような時間が過ぎていった。止む事のない轟くような風の音だけが確かに流れていた。瞬きの音さえ聞こえそうな静寂のなか、「娘です」と重い声が落ちた。
***
報告書を打ちながら彼女の遺留品を横目で追う。
青いスポーツバッグがぴったりと閉じたまま、受付前の長椅子に置き去られている。彼女はここで彼女の父の遺留品が届くのを待っていた。
届いたのは市役所への連絡から三日後で、今から数えると一昨日である。その翌日に姿が消えて、今朝方穴の下で発見された。
私は彼女の為に扉を開いてはいない。
「なん、他の荷物ちゃなかったわ」
ヘルメットに紺色の防寒具を着込んだ老人がゆったりとオフィスに入って来た。どこの出身か知らないが酷く訛っている。外見は小首を傾げた犬のように愛嬌のある姿だが、彼は定期的に穴の中の状況確認や遺体回収を仕事にしている。少女が倒れているのを発見したのも彼だ。
暑いと言いながら分厚い上着と手袋を脱ぐと、淡いグリーンの作業着に汗が滲んでいた。傍らに置いたヘルメットには「金崎」と印字されたテープが貼ってある。
「大学の先生達ちゃどうしとるんけ」
「データ取ってますよ。こればっかりは連絡しない方が良いでしょ」
大学から研究施設の利用申請があると車両用の入り口を解錠する。施錠は頻繁にするよう注意しているが、あちらも出入りが多いためついつい開けっ放しになる。その隙をついて中に入ったらしい。さすがに先方に知らせるわけにもいかない。
金崎さんは冷蔵庫を開け、コーラのペットボトルを取り出して蓋を開ける。夏らしくガスの抜ける音がした。
「金崎さんはすぐ助けようと思いましたか」
炭酸を飲み下してから少し間をあけて、わからんと明朗な答えがあった。
「気付いたら拾っとったがやぜ。助けるやら助けんやら知らんじゃ」
そう言って首を捻る仕草は、とてつもなく清らかに見えた。
生き残った事は彼女にとって良かったのかと私は考えてしまう。これは助ける側のエゴではないのか。例えば三十キロ徒歩で歩き抜いてでも彼女は死にたかったのではないのか。
遺留品は予想通り遺書だった。手渡されて中を見た彼女は、ここに来て初めて微笑んだ。この上なく温かく穏やかな表情に見えた。
人間はわからない。私にはわからない。この建物は穴に併設されているのに、そこに関わろうとする者と私との間はあまりにも隔たっているのだ。
変わらず風が轟音を立てていた。心なしか海中の音に似ていると思った。私はきっと溺れることもなく、爪先から乾き死んで行くのだろう。
金崎さんが煙草を取って部屋の外へ出て行った。私は報告書の続きを打ち始めた。そして何もかもがいつも通りに流れ始めた。