「澤ちゃん、俺にお米を奢る気分になりませんか」
学食で生姜焼き定食を選んでいたら、さも連れであるかのように隣に見知った顔が並んだ。うっすらと日に焼けて、いつもながら服装はこざっぱりとしている。是とも否とも言わないうちに、勝手にライス大が僕の盆に乗る。定食にプラス三十円でランクアップできるのだ。
応じるのも面倒臭い。夏バテではないが、今は米を糖質源としか思えない。後で徴収すれば問題ないだろう。
会計を済ませて席につくと、カレーと共に米泥棒が着席した。大抵の人間はカレーを食べると米が余剰になるのだが、こいつの場合はルーが余る。
「悪い悪い。今ちょっと金欠なんだわ」
悪気だらけの手が僕のご飯茶碗に伸びる。「で、どんだけもらっていいの」と言いながら、二十五パーセント程の米を移している。移し終わると同時にこちらを見るので、「半分ぐらい」と答えると、迅速に残りを移動させた。幾ら請求してやろうか。
「ありがとうございます。これで夜まで生きていけます」
冗談なのか本気なのか、拝むように手を合わせている。演技がかってはいるものの、こういう面は礼儀正しい。
学部生が講義へ出払ってしまった後の学食は、戦争のような昼時間とはうって変わって、流れている有線放送を堪能できるぐらいには静かだ。自分達のような博士課程であれば必修講義はないに等しい。
自分と同期の面々が社会人として既に働いている中、責任も収入もない学生でいる事に焦りを覚えないではないが、とりあえず獲得した猶予期間に甘えてしまっている。
「一週間ぐらい前から弟が来てて、俺の金が吸い上げられているんですよ」
食費に、と付け加える。単純計算するならば、一週間にかかった費用で二週間は保ったわけだ。
「弟って大学生だっけ」
「いや、中三」
「まだ夏休みじゃないだろ」
「サボりですよ。豪快な」
あと一週間程待てば中学生は夏休みに入る筈だ。となれば、今は期末テストが終わって消化試合のようなものだろう。しかし中学三年生と言えば大概受験生だ。確かに豪快かもしれない。
「まあ、本田の弟だと思えば」
「失敬な。俺は乙女のように繊細なのに」
自称繊細な男はもう半分程皿の中身を平らげている。今は研究室こそ違うが、本田とは入学式で知り合って以来の付き合いだ。皿の内容を見れば白の割合がまた多いので、今回はなかなかいい配分かもしれない。
「どうも友達が穴に行ったとか何とかでさ」
穴とは街の真ん中ぐらいにある空の空洞の事だ。穴を囲むように街が出来ていると言ってもいい。ウチの大学にはその研究をメインにする研究室が多いのも事実だ。ただ、一般的には自殺スポットとして有名になっている。
「それで、どうして兄貴の所まで来る理由になるんだ」
これにはさすがの当人もわからない様子で「全く意味がわからない」と答えた。
確かに僕達の年齢になるとわからないのかもしれない。子供は潔癖だ。白か黒か、彼らはそんな鮮やかな世界を生きている。友達が自殺しに行ったという事実は、確かにショックなものかもしれない。
「穴はそんなに確実性が高いものですか」
その呟きに本田は食べるのを止めて空中を凝視した。何かを考えている時の癖である。
「某統計によると、穴の場合は半数以上が到着前に断念するらしい。で、到着しても着いた達成感で満足するから自殺未遂で終了。実際に決行してもタイミングが悪いと病院送りになる。ただ、周到に計画して根性があれば割と高確率で成功するんじゃないか」
何せ自殺の名所である。穴の周囲には高い障壁が築かれていて、簡単には入れないようになっている。研究用の施設も併設されているが長居する者は少ない。
「渡部統計ですか」
「信頼度は趣味レベルです」
「それは高い」
我々の同期に、穴と自殺の関係について「個人的に」統計を取っている変人がいる。彼女は肌がとにかく弱いらしく、夏でも肌の露出をせず上から下まで黒い服に身を包んでいる。それに加えて日傘を使用すると言う徹底ぶりだ。ついでに言えば本田の相方、すなわち恋人と言う事になる。
本田の弟が衝撃から立ち直っていない一方で、その事実を一データとして扱う者がいる。
僕も本田も渡部さんも、子供の頃は白黒の鮮やかな中にいた筈だ。白と黒とを混ぜたのはいつからだろう。混ぜてしまえばもう分離できない。腹に落ちる米やしょうが焼きなんかと同じようにして、灰色の靄が僕の胃の底に横たわっている。つまり僕は這い回るように灰色の世界を生きているのだ。
「岩木君が公務員受かったらしい」
同期が一人、同じ学生の身分から社会へ復帰するらしい。今、博士取得後の進路は不安定だ。大学数は限られているし研究室の数もポストも空きがない。大学に残ったところで助手になれる保証はない。博士課程へ進む者のうち、家庭の事情を含め途中で辞める者は少なくない。
「良かったんじゃないか」
微塵も羨ましくなさそうに本田が言った。彼は迷わないのだろう。
一寸先が闇ならば、どうとでも身の振り方を決められる。希望があるとわかれば苦悩はない。研究者の道を突き進んでいるのではなく、様々な道から逃げているだけではないかとたまに考える。その思考を飲み込む程、胃の底に見透せない靄が蓄積されていく気がする。
その時、ドンッと鈍い音が学食に響いた。何人かの学生が騒いでいて、それぞれの指す方向を見ると灼熱の空に鳥が騒々しく飛び交っている。窓ガラスにぶつかったのかもしれない。幸いにして軽傷といったところか。
見通しが良くてもぶつかる時はぶつかるものか。
「そういえば、ちょっと前に鳥が夜飛んでるのを見たわ。調べてみると、夜目が利かない鳥はごく一部らしいな」
「へえ。それは知らなかった」
鳥に群がっていた学生が散って行く。僕も本田も腰を上げようともしなかった。
「夜に活動したらいいんじゃないかと思うんだけど。鳥。他に飛んでるヤツがいないから餌食い放題だろ」
なるほど。そうきたか。確かに大概の鳥は夜寝ているイメージがある。
「見えにくいんじゃないのか。人間だって暗いと見えないし。まして鳥なら寝床に帰れないかもしれない」
本田は僅かの間宙を凝視した。
「そりゃアレですよ。飛び出したら朝まで飛び抜くわけですよ」
いかにもな回答だった。同時に、突然バイブレーターの音が響く。本田が携帯電話を取り出して席を離れた。
視界が悪かろうと良かろうと最終的には関係ない。どこまで飛んで行くつもりなのか。実はそれだけなのかもしれない。見透せない未来を見る。立ち竦む。それでも僕はまだそちらへ向かう道の途中に乗っている。
本田の電話姿を見ながら、米代は勘弁してやろうと思った。その奥、鳥が消えた空は嫌になるほど眩しかった。