机に頬をつけると、耳と世界が繋がっている気がする。空気は薄い膜で、この風鳴りのような籠もった異音をシャットアウトしているのだ。こうしていれば余計なものはこの音に呑まれ、ずっと聞かないで済むのではないだろうか。
「本田とユキ、まだ見つかってないんでしょ」
「ちょっと祥子、あんた幼馴染みなんでしょ。何か知らないの」
ああ期待は裏切られた。あまりにも迅速だ。
昨日から今日にかけて、学校の女子達の間ではあるスキャンダルが噂になっている。同学年の男女が三日前から同時に学校を休んでいるのだ。
それだけならたいした事ではない。ただ、女子の方がちょっとした有名人だった。そして男子の方はそんな彼女と幼馴染みとして知られていた。そして昨日、男子の方の親が置き去られていた彼の自転車を回収しに来たらしい。話は広がって、四日前に件の男女が駐輪場で会話しているのを見た者が出てくる。そうすると、深刻そうな会話をしていただの、一緒に帰宅先と別方向へ歩いているのを見ただの、もっと昔から二人は付き合っていただの、憶測も事実もごちゃ混ぜになって、遂には一つのセンセーショナルな結論が導き出されるに至った。
曰く、二人は駆け落ちしたらしい。噂は光速で駆け巡った。
別に駆け落ちじゃなくてもいいと思うのだが、そちらの方が恋に恋する乙女達にはウケがいいのだろう。
「中根さん、先生から呼び出し」
もう嫌だ。
私は件の二人と近所に住んでいて、つまり幼馴染みその二という役ドコロだ。
無関係だと胸の内で叫びながら、しがみついている机から重い頭を持ち上げた。
***
管理人さんは昔からよく見知った顔で、快く鍵を開けてくれた。
呼び出された私は、ユキの担任より美術で作った絵画パネルを持って帰るように仰せつかったのだ。ついでに様子を探って来いとでも言わんばかりである。
ユキの家のチャイムを鳴らしても物音一つしなかったので、家主の権限を行使してもらうハメになってしまった。
ドアを開けると勝手知ったる他人の家が広がっていた。とは言っても足を踏み入れたのは久しぶりだ。玄関も廊下もきれいに片付いていて、今日は随分すんなりと家に入れたと思った。
春先、彼女の母親が急逝した。その少し前からユキは看病だ何だとバタバタしていて、冬を越したと安心した矢先の出来事だった。葬儀の時の彼女は同い年とは思えない程背筋をピンと伸ばしていた。
狭くて短い廊下を抜けると部屋が二つ繋がっていた。襖は常に全開で、片方がキッチンのある部屋、もう一方が和室になっている。ユキはここに住んでいた。
キッチンのある部屋へ入り、絵画パネルを何も置いていないテーブルの上に届ける。相変わらず大事なものは机、どうでもいいものは出しっ放しなのだろう。下描きの線をはみ出しまくった塗り跡がいかにも彼女らしい。
しかし絵画面を上向けにするのもいかがなものか。
パネルを裏返すと表面とは酷い格差で、お手本のように整った「平瀬由紀」の名前が記されていた。
押し込めていたある思いがその名前をなぞるようにして黒々と迫り上がってくる。
置いて行かれたのだ。私は。
視線を畳へ移して私は思考を強制終了させた。
確かに葬儀の後、ユキの扱いは難しくなった。難しくなったと言うか、彼女が「親を亡くした子」になった。不幸は人を強い立場に立たせる。学校では嵐のような同情が巻き起こった。そして私は距離を置いた。それだけだ。だから今がある。
畳の部屋に踏み出すと、よく知った場所がよく知ったタイミングで軋み声をあげた。色褪せた畳には分厚いカーテンの隙間から細く夕日が当たっている。
二歩、三歩と進んでみると、部屋が他人行儀な態度を取っているように感じられた。何かがおかしい。
畳の部屋にはユキの勉強机があるだけだった。その机の上には何も乗っていない。私はキッチンを確認した。次にゴミ箱の中を見た。さらに玄関と廊下をもう一度見た。ユキの家は玄関が狭くて廊下も狭い。そこに必ず何か、例えば新聞の束だとか段ボールだとかが置いてあって入る時はいつも苦労したものだった。今、家にゴミの類は何一つなかった。
ユキは姿勢が良かった。字がきれいだった。絵が下手だった。もう一度パネルの字を見た。ユキだった。
四日前はゴミの収集日だった筈だ。ゴミの類が何一つないならば、彼女は家に帰って来ていないのではないか。
唐突に、ある種の閃きのような速度で私は勉強机に近付いていた。だって彼女はユキなのだ。
机の引き出しの一番上を開けると、それはあった。
この街には空に一箇所穴があいている。その穴は自殺スポットとして有名だ。ガイドブックが出る程に。
だから本田なのだ。だから私なのだ。
本田は絶対にはっきりと止めないだろう。私は穴へ行くと言い出したら、「止めろ」か「馬鹿じゃないの」と言う自信がある。
さらに言えば、本田は絶対にユキの机を開けないし、私はその真逆の行動を取る。そしてそれはたった今完遂された。
外へ流れ出ない涙のようなものが頬の裏側から喉へと落ちていくようだ。鼻の奥が熱い。悔しいという感情があるとするなら、まさしくこれだと今思った。
壁掛け時計が走っている。カーテンが光の束を受け止めていた。あれから四日。まだ間に合うのか。私はガイドブックを筒にして足元へ叩き付けた。