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4.はいずるもの

ー/ー



 店内は空調がフル稼働してもなお生温かった。カウンターの中で鉢巻き姿の店長が絶好調に立ち回り、狭い店内を茶髪の女性が気怠そうに歩き回っている。夏になってからはほぼ毎日Tシャツで、年中怪しい呂律は本日もほどほどの回り方らしい。
 仕事帰り、冷えた生ビールに串焼き数本が私のささやかな楽しみだ。特に夏は最初の一口がたまらない。
 時間帯としては二軒目といったところだろう。駅から数分歩く焼き鳥屋だがこの古臭い雰囲気に惹かれるのか、私のように一人じっと椅子の上で溶ける中年男性がちらほらカウンターに並んでいる。どれも見知った顔ばかりだ。
 ジョッキを半分程空けたところで、いらっしゃい、と威勢の良い掛け声がした。そこから数秒遅れて小柄な影がもぞもぞと店内に侵入する。
「いらっしゃると思ってましたよ」
 酷い猫背の延長線に乗った帽子を脱ぎながら人懐こそうな顔でビールを注文して、その人物はそのまま私の隣に腰掛けた。おしぼりで盛大に顔から頭にかけて拭いている。
「俺ぁたまぁによ、たまぁに」
 すぐに冷えたジョッキがテーブルに置かれた。ひびが走った硬質の指が取っ手にかかり、喉を鳴らして一口流し込む。彼と知り合って数年になるが、強い訛りは衰えそうにない。幸い喋り方がゆっくりなので私でもおおよその意味はわかる。以前出身を聞いた時は、「なもなも。知らんような田舎やちゃ」と一言返って来ただけだった。
「私はほら、職場も家も近所なので」
 すぐ近くにバスの車庫があり、そこから徒歩の距離に私は居を構えている。この店は帰路からすると相当に効率の悪い寄り道だ。言い訳しても言い訳にならないので、潔く楽しむことにしている。
「あん娘さんな戻られたけ」
 彼の声は足元から沁み込むような独特の調子をしている。昨日、私が運行するバスから少女が一人降車した。降りたのは常磐五丁目だった。乗客の彼ともよくバスで会う。
「そういうのはあまり言わないようにしているんですよ」
 そうけ、と言って、二杯目を注文する。付きだしの小鉢にさえ手をつけていない。いつもの事だが、飲んでいる時に何も食べないらしい。
「因果な商売やね」
「降車拒否は出来ませんから」
 どうして運転手は降りる人を止めないのか。その類の叫びを突きつけられる事はしょっちゅうだ。人殺しと罵られる事もある。人を運ぶのがバスなのだから、私は実直に死地へと人を送り出していると言えるだろう。
「でも戻っていらっしゃる方も多いですよ」
 バス停を降車すると穴まではひたすら一本道で、噂によると三十キロ程あるらしい。途中で引き返して来る確率は五割といったところだ。それでも不思議なもので、穴を目指す者は皆徒歩で向かう。靴を揃えて飛び降りるのと同じで、何か儀式めいたものがあるのかもしれない。
 私は戻って来る人が見たいのだ。あの物悲しいバス停に人影が見えると、ついアクセルを踏み込みたくなる。
 店内は注文が一段落したのか緩やかな空気が流れていた。いつの間にかホールの女性の姿はなく店長自ら注文を取っている。
「俺ぁ死ねんわ」
 そう言って、曲がった指で器用に煙草を一本抜き出し、火をつけた。私が灰皿を寄せると指を軽くあげて礼を返される。
 ざらざらとした影が足元に寄り添っている。彼は還暦を超えて、現在一人暮らしで掃除夫をやっているという。
「私ももう先が見える歳になりましたよ。放っておいてもお迎えが来ますからね。自分からあちらに行く予定はないなぁ」
 そうけ、と言って笑った。彼のジョッキは三杯目が半分程あいたところである。
「たまに羨ましくなるちゃね。俺ぁ一人やねか。死のうと思っても、なん死にきれん」
 その横顔を煙が薄く覆って、ガラスのような黒い瞳に静かに瞬きが下りていた。
「死んでも骨になるだけやぜ。誰も何も思わん。寂しいねけよ。寂しいとわかると死ねんもんやちゃ」
 齢六十を越したざらついた影が私の右肩で囀っている。彼は家族から逃げてこの街へ来たらしい。死んだところで看取る者はなく惜しむ者もなく葬式もない。
「私は手を合わせに行きますよ」
「そうけ。頼むちゃ」
「ああ、でも私の方が先かもしれない。健康診断がね、今年も引っ掛かりましたから」
 そのまま三杯目を注文すると、カカカと煙を吐きながら痩せた顔が笑った。
 例のバス停で人が降りると、彼はこの店に現れる。私は待っているのかもしれない。
 人の生死もあの道に乗れば酒の肴か。
 私はあの道をはいずりながら、転がる人の不幸で食いつないでいるのだ。降りる者を止められる筈もない。
 今夜はこれで終わりにした方がいいかもしれない。私は残りのビールを飲み干した。


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 店内は空調がフル稼働してもなお生温かった。カウンターの中で鉢巻き姿の店長が絶好調に立ち回り、狭い店内を茶髪の女性が気怠そうに歩き回っている。夏になってからはほぼ毎日Tシャツで、年中怪しい呂律は本日もほどほどの回り方らしい。
 仕事帰り、冷えた生ビールに串焼き数本が私のささやかな楽しみだ。特に夏は最初の一口がたまらない。
 時間帯としては二軒目といったところだろう。駅から数分歩く焼き鳥屋だがこの古臭い雰囲気に惹かれるのか、私のように一人じっと椅子の上で溶ける中年男性がちらほらカウンターに並んでいる。どれも見知った顔ばかりだ。
 ジョッキを半分程空けたところで、いらっしゃい、と威勢の良い掛け声がした。そこから数秒遅れて小柄な影がもぞもぞと店内に侵入する。
「いらっしゃると思ってましたよ」
 酷い猫背の延長線に乗った帽子を脱ぎながら人懐こそうな顔でビールを注文して、その人物はそのまま私の隣に腰掛けた。おしぼりで盛大に顔から頭にかけて拭いている。
「俺ぁたまぁによ、たまぁに」
 すぐに冷えたジョッキがテーブルに置かれた。ひびが走った硬質の指が取っ手にかかり、喉を鳴らして一口流し込む。彼と知り合って数年になるが、強い訛りは衰えそうにない。幸い喋り方がゆっくりなので私でもおおよその意味はわかる。以前出身を聞いた時は、「なもなも。知らんような田舎やちゃ」と一言返って来ただけだった。
「私はほら、職場も家も近所なので」
 すぐ近くにバスの車庫があり、そこから徒歩の距離に私は居を構えている。この店は帰路からすると相当に効率の悪い寄り道だ。言い訳しても言い訳にならないので、潔く楽しむことにしている。
「あん娘さんな戻られたけ」
 彼の声は足元から沁み込むような独特の調子をしている。昨日、私が運行するバスから少女が一人降車した。降りたのは常磐五丁目だった。乗客の彼ともよくバスで会う。
「そういうのはあまり言わないようにしているんですよ」
 そうけ、と言って、二杯目を注文する。付きだしの小鉢にさえ手をつけていない。いつもの事だが、飲んでいる時に何も食べないらしい。
「因果な商売やね」
「降車拒否は出来ませんから」
 どうして運転手は降りる人を止めないのか。その類の叫びを突きつけられる事はしょっちゅうだ。人殺しと罵られる事もある。人を運ぶのがバスなのだから、私は実直に死地へと人を送り出していると言えるだろう。
「でも戻っていらっしゃる方も多いですよ」
 バス停を降車すると穴まではひたすら一本道で、噂によると三十キロ程あるらしい。途中で引き返して来る確率は五割といったところだ。それでも不思議なもので、穴を目指す者は皆徒歩で向かう。靴を揃えて飛び降りるのと同じで、何か儀式めいたものがあるのかもしれない。
 私は戻って来る人が見たいのだ。あの物悲しいバス停に人影が見えると、ついアクセルを踏み込みたくなる。
 店内は注文が一段落したのか緩やかな空気が流れていた。いつの間にかホールの女性の姿はなく店長自ら注文を取っている。
「俺ぁ死ねんわ」
 そう言って、曲がった指で器用に煙草を一本抜き出し、火をつけた。私が灰皿を寄せると指を軽くあげて礼を返される。
 ざらざらとした影が足元に寄り添っている。彼は還暦を超えて、現在一人暮らしで掃除夫をやっているという。
「私ももう先が見える歳になりましたよ。放っておいてもお迎えが来ますからね。自分からあちらに行く予定はないなぁ」
 そうけ、と言って笑った。彼のジョッキは三杯目が半分程あいたところである。
「たまに羨ましくなるちゃね。俺ぁ一人やねか。死のうと思っても、なん死にきれん」
 その横顔を煙が薄く覆って、ガラスのような黒い瞳に静かに瞬きが下りていた。
「死んでも骨になるだけやぜ。誰も何も思わん。寂しいねけよ。寂しいとわかると死ねんもんやちゃ」
 齢六十を越したざらついた影が私の右肩で囀っている。彼は家族から逃げてこの街へ来たらしい。死んだところで看取る者はなく惜しむ者もなく葬式もない。
「私は手を合わせに行きますよ」
「そうけ。頼むちゃ」
「ああ、でも私の方が先かもしれない。健康診断がね、今年も引っ掛かりましたから」
 そのまま三杯目を注文すると、カカカと煙を吐きながら痩せた顔が笑った。
 例のバス停で人が降りると、彼はこの店に現れる。私は待っているのかもしれない。
 人の生死もあの道に乗れば酒の肴か。
 私はあの道をはいずりながら、転がる人の不幸で食いつないでいるのだ。降りる者を止められる筈もない。
 今夜はこれで終わりにした方がいいかもしれない。私は残りのビールを飲み干した。