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3.空の足場

ー/ー



 二本目のバスが雨を撥ね上げながら過ぎて行った。私が乗客ではないことを運転手が覚えたのだろう。
 よくある日のよくある雨だ。適度に服や靴を濡らすものの、蹲るあれこれを押し流す程降り溜まることはない。
 少し浮き零れた気配のある夫が私と娘を残しバスに乗ってかれこれ半年、保育所帰りの娘を連れて私は毎日バス停に立っている。
 バスが行ってしまえば、次のバスまで時間が空く。道から数歩後退して、少し離れた位置で水溜まりを踏んでいる娘を見た。
 レインコートに長靴で、真剣な顔で足を踏み下ろしている。その足下にはくるくると葉っぱが浮んでいた。どうやら新しい遊びを作り出したらしい。俯く桃のような頬に茶色の泥水が飛んでいる。
 どうしてあんな高さまで足下の水が飛ぶのだろう。無性におかしくなって、娘のカバンからティッシュを取り出しながら笑う。するとあどけない顔がこちらを見て笑い声をあげた。同時にはしゃぐように両足でジャンプする。顔を拭きにくくて仕方がない。よく見れば娘の首から提がった懐中時計も茶色の汗をかいている。長靴の中はもっと酷いことになっているに違いない。
 これは夫が残していった時計で、今ではすっかり娘のオモチャになっている。ちなみに彼女はまだおやつの針の形しか覚えていない。雨の日に表に出すのは良くないだろうが、夫が「絶対に壊れないし狂わない」時計だと言うものだから、娘の好きにさせている。
 ようやくのことで顔を拭うと長い睫毛が空を向いていた。この子は私に似たのか瞳の色がやや薄い。
「ママ、あれなに」
 指した先にはどんよりとした空があった。遠くの方に異物のように暗い穴が浮いている。ここから見れば親指ほどの大きさでしかないが、実際にはかなり大きいらしい。この街は空に一箇所、穴があいている。
 穴は地面を向いていて、今日のような雨の日は雨雲が避けて通るのか穴の真下だけ仄かに明るく見える。
「あれは空の穴」
 もっとよく見ようとしてなのか娘が水溜まりから出て数歩、操られるようにして歩き、立ち止まる。そして今度は私の方を見て「なんで」と言った。いつもの癖だ。しかし、こればかりは私に上手い答えがない。
「ママもわかんない」
 えーっと膨れて、また空を見た。返答がお気に召さなかったらしい。先日テレビで言っていたが、この街の子供は皆同じ質問をするものらしい。
「神様が立っている場所なのかもね」
 くるっとした瞳がこちらを見た。その興味津々な顔を見た瞬間、冷や汗が流れ始めた。適当に言ってみただけなのに、これは話を作らないとどうしようもない。当然、まだバスは来ない。
「そうね。多分、神様があそこに立って空とか作っているのよ」
「神様は空飛べないの」
 鋭い。確かに最近夢中になっているアニメはやたらめったらキャラクターが空を飛んでいる。神様ぐらいなら当然飛べるだろう。
「か、神様は大きい人なのよ。動くと嵐みたいになって、空とか街とか鳥とか吹き飛んじゃうのよ。だから動かないの」
 これは少しわかりにくかったらしい。顔にわからないと書いてある。私だっていろいろと無理だ。しかしバスはまだ来る時間ではない。
「まだ作ってる最中なんじゃないかな。お仕事が終わってないのよ」
「なんで神様は空飛ばないの」
 論点を外す試みは失敗したらしい。なんというこだわりだ。
「それはママにはわかりません。飛ぶか飛ばないかは神様の自由でしょ。飛ばないのが好きな神様なのよ」
 持てる力全てを注ぎ込んで誤魔化すと、渋い顔をして「なるほど」と返ってきた。どこで覚えたのか。
 娘には毎日驚かされる。一昨日知らなかったことを昨日覚え、昨日知らなかったことを今日覚えている。
 彼女はもう空への興味を無くしたらしい。今度はバスの時刻表を叩き始めた。彼女にとっての昨日は、私の昨日よりも遠いのかもしれない。ならば半年など大昔ではないか。
 足に絡んでいた重いものが一斉に外れた気がした。もう半年、私達は二人で生活をしていたのだ。
 私はこの小さな子を、半年もバス停に立たせていたのか。半年もこの子は、愚図らずに付き合ってくれたのか。たまらなくてなって直ぐに小さな手を握った。柔らかく握り返されるそれに全てが埋まっていくような気がした。
「ママ、変」
 そう言って小さな手が懐中時計を突き出してきた。受け取って針を見ると、随分前の時間で止まっていた。娘の言葉を借りるなら、なるほどと言ったところか。
「帰ろうか。それ壊れてるから修理に出さないと」
 娘は応じるように飛び跳ねながら歩き出した。手を繋いで歩いて、離して走って、また手を繋ぐ。私はきっと夫を待っていたのではない。どこで見ているかわからない神のような存在に、何か申し開きをしたかったのだ。今なら待っていない事を責められても耐えられる。私は未来を向いていたい。
 空は見渡す限り雨雲で、遠くに穴が空いている。私達の横を見慣れたバスがすれ違って行った。


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 二本目のバスが雨を撥ね上げながら過ぎて行った。私が乗客ではないことを運転手が覚えたのだろう。
 よくある日のよくある雨だ。適度に服や靴を濡らすものの、蹲るあれこれを押し流す程降り溜まることはない。
 少し浮き零れた気配のある夫が私と娘を残しバスに乗ってかれこれ半年、保育所帰りの娘を連れて私は毎日バス停に立っている。
 バスが行ってしまえば、次のバスまで時間が空く。道から数歩後退して、少し離れた位置で水溜まりを踏んでいる娘を見た。
 レインコートに長靴で、真剣な顔で足を踏み下ろしている。その足下にはくるくると葉っぱが浮んでいた。どうやら新しい遊びを作り出したらしい。俯く桃のような頬に茶色の泥水が飛んでいる。
 どうしてあんな高さまで足下の水が飛ぶのだろう。無性におかしくなって、娘のカバンからティッシュを取り出しながら笑う。するとあどけない顔がこちらを見て笑い声をあげた。同時にはしゃぐように両足でジャンプする。顔を拭きにくくて仕方がない。よく見れば娘の首から提がった懐中時計も茶色の汗をかいている。長靴の中はもっと酷いことになっているに違いない。
 これは夫が残していった時計で、今ではすっかり娘のオモチャになっている。ちなみに彼女はまだおやつの針の形しか覚えていない。雨の日に表に出すのは良くないだろうが、夫が「絶対に壊れないし狂わない」時計だと言うものだから、娘の好きにさせている。
 ようやくのことで顔を拭うと長い睫毛が空を向いていた。この子は私に似たのか瞳の色がやや薄い。
「ママ、あれなに」
 指した先にはどんよりとした空があった。遠くの方に異物のように暗い穴が浮いている。ここから見れば親指ほどの大きさでしかないが、実際にはかなり大きいらしい。この街は空に一箇所、穴があいている。
 穴は地面を向いていて、今日のような雨の日は雨雲が避けて通るのか穴の真下だけ仄かに明るく見える。
「あれは空の穴」
 もっとよく見ようとしてなのか娘が水溜まりから出て数歩、操られるようにして歩き、立ち止まる。そして今度は私の方を見て「なんで」と言った。いつもの癖だ。しかし、こればかりは私に上手い答えがない。
「ママもわかんない」
 えーっと膨れて、また空を見た。返答がお気に召さなかったらしい。先日テレビで言っていたが、この街の子供は皆同じ質問をするものらしい。
「神様が立っている場所なのかもね」
 くるっとした瞳がこちらを見た。その興味津々な顔を見た瞬間、冷や汗が流れ始めた。適当に言ってみただけなのに、これは話を作らないとどうしようもない。当然、まだバスは来ない。
「そうね。多分、神様があそこに立って空とか作っているのよ」
「神様は空飛べないの」
 鋭い。確かに最近夢中になっているアニメはやたらめったらキャラクターが空を飛んでいる。神様ぐらいなら当然飛べるだろう。
「か、神様は大きい人なのよ。動くと嵐みたいになって、空とか街とか鳥とか吹き飛んじゃうのよ。だから動かないの」
 これは少しわかりにくかったらしい。顔にわからないと書いてある。私だっていろいろと無理だ。しかしバスはまだ来る時間ではない。
「まだ作ってる最中なんじゃないかな。お仕事が終わってないのよ」
「なんで神様は空飛ばないの」
 論点を外す試みは失敗したらしい。なんというこだわりだ。
「それはママにはわかりません。飛ぶか飛ばないかは神様の自由でしょ。飛ばないのが好きな神様なのよ」
 持てる力全てを注ぎ込んで誤魔化すと、渋い顔をして「なるほど」と返ってきた。どこで覚えたのか。
 娘には毎日驚かされる。一昨日知らなかったことを昨日覚え、昨日知らなかったことを今日覚えている。
 彼女はもう空への興味を無くしたらしい。今度はバスの時刻表を叩き始めた。彼女にとっての昨日は、私の昨日よりも遠いのかもしれない。ならば半年など大昔ではないか。
 足に絡んでいた重いものが一斉に外れた気がした。もう半年、私達は二人で生活をしていたのだ。
 私はこの小さな子を、半年もバス停に立たせていたのか。半年もこの子は、愚図らずに付き合ってくれたのか。たまらなくてなって直ぐに小さな手を握った。柔らかく握り返されるそれに全てが埋まっていくような気がした。
「ママ、変」
 そう言って小さな手が懐中時計を突き出してきた。受け取って針を見ると、随分前の時間で止まっていた。娘の言葉を借りるなら、なるほどと言ったところか。
「帰ろうか。それ壊れてるから修理に出さないと」
 娘は応じるように飛び跳ねながら歩き出した。手を繋いで歩いて、離して走って、また手を繋ぐ。私はきっと夫を待っていたのではない。どこで見ているかわからない神のような存在に、何か申し開きをしたかったのだ。今なら待っていない事を責められても耐えられる。私は未来を向いていたい。
 空は見渡す限り雨雲で、遠くに穴が空いている。私達の横を見慣れたバスがすれ違って行った。